交渉
荒い息を吐く有元の背後から、石塚がゆったり現れた。
彼は目の前にある恵子の胴体を小さく迂回してこちらへ歩み寄ってくる。
まるで小石でも避けるようなその何気ない所作は、彼がすでに恵子の死体がそこにあることを承知している証明でもあった。
石塚は薄い笑みを浮かべていた。
その笑みを見た時、安尾は計画が失敗したことを悟る。
息を荒げる有元を手で制すると、
「よく蔵から脱出できましたね」
低く落ち着いた声だった。
安尾は浅い呼吸をフッフッと
この最悪の状況を打開する方法を必死で模索している。
「あんたらが、恵子さんを殺したのか……?」
息も絶え絶えに聞く。
「儂が殺した」
「なぜ……?」
「ピーピー泣くことしかできねぇ餓鬼だ。儂らの役に立たねえ奴に用はない。猫も一緒にぶった斬ってやったわ」
銃をまるで刀のように振るった。
「よくもそんな酷いことを……。儂らの役に立たないって、あんたらやっぱりビクトリイ製薬の人間なのか?」
男二人は少し驚いた様子を見せた。
「タキ婆さんから聞いたみたいだな。ああ、そうだ。儂らはビクトリイ製薬の人間だ」
有元があっさりと認めた。
「朱雀黄丸の作り方を探しているのか……?」
「ほう、どうやらあらかた事情は知ってるようだな。まぁその通りだ」
石塚の方を盗み見ると有元の隣で微笑したまま黙っている。
タキの言ったことは間違いなかった。
こいつらは本当に朱雀黄丸の作り方を探していたのだ。
「どうして、そんな作り方がいる?」
正直なところ今それはどうでも良かった。
どうでも良いが、時間を稼ぐために聞かなければならない。
その間に考えるのだ。銃を向けられたこの状況から抜け出す方法を。
「なぜおまえにそれを教える必要がある?」
安尾は殊更に悔しい表情を作る。
自分の方が追い詰められていて立場が下だと明示的に示すためだ。
それが効果を奏しているのかは分からないが、有元は「まぁいい、教えてやる」とにんまりと口角を上げた。
「そんなもんは、金のために決まってるだろうが」
「金……? 朱雀黄丸の作り方が金になると言うのか?」
やれやれとでも言いたげな顔をする。
今は有元に気持ちよく喋らせて、話の接ぎ穂を失わないようにしなければいけない。
「衛生兵……。おまえ、朱雀黄丸のことを何にも理解してねえようだなぁ。
はっきり言うとだな、ビクノゾールAよりも朱雀黄丸の方が覚醒剤としての質がいいんだわ。
朱雀黄丸はな、メタンフェタミンに別の何か生薬を配合している。
それで覚醒持続時間を長くすることに成功してるんだわ」
「覚醒持続時間……」
「長くカッカできるってこった。ふん、儂らもここにいる間あらゆる場所を探したが、どうにも手順書の類が見つからねぇ。ここの旦那は、色事にはあれだけ奔放なくせに、仕事の管理に関しちゃ隙がない」
言って口元を歪める。
「貞治さんを殺したのも、あんたらか……?」
有元はちらりと石塚を見る。
「さあな」
「環さんは? 彼女は一体どこにいる?」
「環だぁ?」
有元が再度石塚を一瞥する。
すると、石塚は無言で屋敷の奥へと消えていった――。
戻ってきた時、彼は環を連れていた。
彼女は後ろ手に縛られており、その紐の先を石塚が持っていた。
まるで犬の散歩か、そうでなければ奴隷のような扱いだ。
安尾は胸が張り裂けるような衝撃を受ける。
「見ろ。環は恵子と違って黙ってよく働く。儂らの言うことを黙って聞く。もっともこいつは口が聞けないからうるさくも騒げないがな」
有元の下卑た笑い。
環は両目を伏せたまま唇をぎゅっと結んでいる。着物はドロドロに汚れていた。
憔悴しきっていることは誰の目にも明らかだった。
「環さんを解放してくれ」
有元がぽかんとした表情でこちらを見る。
「彼女を解放してやってくれ。彼女はまだ子どもだ」
「はあ?」
環はドイツ語が少し読めると言っていた。
ひょっとするとそれを利用されているのかもしれない。
工場内にも、ドイツ語で書かれているらしき資料は割と見かけた。
そうはいっても、いつまでも生かされている保証はない。
きっと何かの拍子ですぐに殺されてしまう。
恵子はこれほど簡単に殺されたのだ。
「警察にも言わない。頼む。私たちに彼女を深森まで送らせてくれ」
有元は吹き出しそうな顔を浮かべる。
「深森まで送る? おまえらが? おいおい衛生兵! 儂らが素直に『よし分かった』とでも言うと思ったか」
男は腹をよじって笑った。
安尾は唇を噛む。
「私だけ残る」
「ああーん? おまえだけ残るぅ?」
有元はくすくすと余韻を引きずっている。
「そう。だから他の者は解放してやってくれ」
男が片眉を釣り上げる。
「いいのかぁ? おまえは儂に虐め抜かれるぞ、それでもいいのかぁー?」
安尾は、有元が目の前で銃をゆらゆら揺らすのを無視し、黙ったまま頷く。
「安尾さん! そんなの駄目ですよ」
背後の夏村が小さく叫んだ。
「深森までの先導役は、夏村さん、あなたしかいません」
青年は眼鏡が外れて飛びそうなほど強く首を振った。
「大丈夫です、あなたならきっと――」
「はっはっは~」
有元の哄笑が会話をかき消す。
「な~んてなぁ! そんなこと儂らが許すわけがないだろうがぁ! おい衛生兵、儂はおまえのことが大嫌いだ。おまえの意見はすべて否定したくなる。だからまっぴらごめんだ。おまえなんかに残ってほしくないね」
そううまく事は運ばないらしい。
ならば強硬手段に出るしかない。
今、目の前に構えられているこの銃を奪い取る。
失敗する確率の方が高いのは分かっている。
だがこのまま従っていたら全員殺されるだけだ。
一か八かだ。
安尾が飛び出す機会を窺っていた時だった。
有元の肩を、石塚が背後からトントンと叩いた。
無言のまま銃を貸してくれと目で合図する。
「ん? ああ」
一瞬怪訝な顔を浮かべたが、構えを解いて石塚に銃を手渡した。
ここか! と思ったが身体が動かない。
石塚は手にしていた紐を放し、おもむろに環から数歩距離を取る。
そのまま彼女に銃口を向けた。
「やめろ!」
安尾が叫ぶ。戦慄が走った。
環が殺されてしまう。
自分に狙いを定められた少女は目を見開いて固まっている。
だが銃口の狙いはそのまま環を通り過ぎ、有元に向いた。
「おっと……、三八式はさすがに長いですねぇ」
筒先がやや下を向いている。
有元の腹付近に狙いが定められていた。
「おい何の冗談……」
突如かんしゃく玉のような乾いた音が炸裂し、有元の言葉を遮った。
ざわっと夜が震えた。
有元は後ろに二歩三歩とよろめき、石灯籠の脇にどさりと尻餅をついた。
銃口からほのかに硝煙が立ち上っている。
環は驚愕の表情を貼り付けていた。
有元は素の表情のまま固まっている。
「えーっと、当たりましたか?」
石塚の言葉は、あまりに場違いな調子だった。
彼は今、確かに有元を撃ったのだ――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます