脱出
がりがりがり。
暗闇の中、背後から小さな物音が聞こえてきた。
扉の前で身構えていた安尾は思わず振り返る。
がりがりがりがり。
タキの寝息に混じって、何かを引っ掻くような小さな音がする。
耳を澄ましてじっと闇を凝視する。
頼りなく差し込んでいた小窓からのかすかな光も、すでに消え入っている。
夜の帳が落ちたのだろう。
老婦人が発してる物音かと思ったが、彼女がいる場所よりもさらに後方、つまり蔵の外側から聞こえてくる。
がりがりがり。
定期的な旋律だった。
人為的なものなのか、何らかの自然現象なのか判断がつかない。
どうすればいいのか迷っている内に、やがて音は途絶えてしまった。
再び静寂が訪れる。
もし助けなのだとしたら、その人物に対して何か声をかけた方が良かったのだろうか。
安尾は少しだけ後悔する。
だがよくよく考えてみれば、この蔵に自分たちが捕まっていることを知る人間はいない。
誰かが助けに来ることはないはず。
多分風か何かの自然現象だろう。
そう言い聞かせて、再び入り口扉の前に座り直して身構えた。
蔵の入口、観音開きの扉は押しても引いてもびくともしない。当然だ。
いつも太い丸太が
鍵の概念がない集落で閂がかけられているのは奇異に感じるかもしれないが、何のことはない、扉が馬鹿になっているため、それを固定させる役割なのだ。
天井を仰ぐ。
一つだけある小窓は、仮に老婦人を肩車で持ち上げたとしても届かない。
二人でひとしきり蔵の中を調べ回ったものの、やけに真新しい布団一式が隅に畳んで置かれてあるのを見つけただけで、他にめぼしいものは発見できなかった。
外に出られそうにないと分かるとタキはしばらくぶつぶつ文句を言っていたが、いつの間にかその布団で丸くなって眠っていた。
寝息を背中に聞きながら、安尾はじっと機会を待っていた。
作戦は至極単純なものだった。
蔵の出入り口はここ一つしかない。
敵は必ずここから
閂が外される時必ず物音がするはずだ。
入ってきた瞬間に襲いかかると決めていた。
敵は油断している可能性がある。
捕虜は柱に縛られてると思い込んでるからだ。
有元のような屈強な大男を打ち倒せる自信はないが、それでも今はこの奇襲に賭けるしか方法はなかった。
夜の冷気が足元から忍び寄ってくる。
今何時ぐらいだろうか――。
例の夢の光景がいまだに頭から離れない。
麻友とセラ。
あれはすべて過去に見た光景だ。
埋められていた麻友。
そして、無惨に殺されたセラ。
夜の海のように底が見通せない記憶の暗部に、淡い光が当たった。
光が照らした先は酷い地獄だった。
セラ。
彼女は信じられないほど残虐に殺されていた。
忌々しい日本兵どもは一体どこからやってきたのか。
安尾は蔵の扉をじっと見つめながら、爪で床の土をがりっと引っ掻いた。
心の中が憎悪で溢れてゆく。
すでに日本兵を何度も何度も八つ裂きにしている。想像上の話だ。
満たされることはない。セラは生き返らない。
彼女の死を知ることと納得することは別だ。
あまりに理不尽で受け入れがたい。
一方、記憶はいまだに曖昧すぎて、分からないことが多すぎる。
本当のことを知りたい。
細部の情報が不足している。
自分の記憶なのに、その寄る辺のなさに情けなくなってくる。
過去の自分がまるで別人だったかのような錯覚に陥る。
安尾は恐ろしかった。
自分の記憶には、地獄の続きがあるだろう。
それは本能的な予感だった。
筆舌し難い事実がまだこれ以上隠れているのだとしたら、自分はその負荷に耐えられるだろうか。
気が狂ってしまうかもしれない。
今も、彼女の死に向かい合えないでいる。
受け止めきれない。
安尾はますます土に爪を立てる。
爪の間に泥が入り込むのも構わず、がりがりと引っ掻く。
セラは自分が殺したに等しい。
あの時もう少し早く帰っていればセラを助けられたかもしれない。
初めから狩りになど出かけなければ良かった。
そもそも自分となど出会わなければ良かったのだ。
そうであれば彼女は今も生きていたはずだ。
後悔は尽きない。
どうすれば良かったのだろう。
セラの存在と、ヤマボシの少女たちの存在が重なる。
今だけ前を向きたい。
環と恵子は連れてゆくと決めている。
このままだと殺される危険がある。
少なくとももう後悔したくないと思っている。
これ以上自分に絶望したくないと思っている。
ごとんっ――。
突然低い音が鳴って、安尾は肩を跳ね上げた。
音は目の前の扉から聞こえた。
はっと息を呑む。すぐさま身構える。
表側に差し込んである、閂代わりの丸太が落ちた音だと分かった。
「な、なんじゃ」
背後でタキが目を覚ましたようだった。
シッと口に手を当て老婦人に向かって注意する。
ギイっと木の扉が揺れた。
ギイイイィィーー。
内側に向かって扉が開き、夜の隙間がゆっくり広がっていく。
一体の人影が月明かりに照らされている。逆光で顔は見えない。
安尾はその人影に向かって迷わず飛び出した。
有元でも石塚でもどっちでもいい。
ここで制圧しなければ未来はない。
小刀の刃を喉元へ突きつけようと顔面に手を伸ばす。
鷲掴もうとした指先に固い何かが触れる。
「あっ……」
人影が慌てたような声を上げる。
聞き覚えのある声だった。
「な、夏村さん?」
触れたのは眼鏡だった。
「安尾さん! 良かった、ご無事でしたか」
「シッ。あいつらに聞こえてしまいます」
安尾は、兎にも角にも夏村を蔵の中に引き入れた。
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