創業者の一人娘

 神谷麻友は十六歳になる貞治の一人娘だ。


 安尾が集落にきたばかりの頃、すべてにおいて不慣れだったのを手助けしてくれたのが彼女だった。

 明るい性格の器量良しだ。

 当時街の映画看板に映っていた、Hという美人女優に似ていた。

 本人にそう話すと「おだてても何も出ませんよ」と笑われた。


 安尾は、麻友と接していて驚いたことがある。

 それは自分のような復員兵に対する彼女の態度だ。

 復員兵はいわば生き残りだ。

「名誉の戦死」を遂げなかった腑抜けだと軽蔑する人間も多くいる。

 帰国して間もない頃、息子を戦場で亡くした老婆から、どうしておまえは自害しなかったと凄まれたことがあった。

 ところが、彼女の対応は違った。


 こちらが恐縮するほど敬意を持って接してくれる。

「復員さんは、お国を守ろうとしてくれたんですから、私たちにとっては恩人みたいなものですよ」とまで言う。

 麻友は何気なく発したのかもしれないが、その言葉にどれだけ救われたろう。

 安尾は彼女に、言葉では尽くしがたい感謝を覚えていた。


 神谷家がこの集落に越してきたのは今から三年前の春だという。

 その前はK市に居を構えていたらしい。

 麻友の父貞治は大学での研究に没頭し、満州などをせわしなく往来することも多く、あまり家には居つかなかったようだ。


 大戦が激しくなると、麻友だけが別の市へと疎開するようになる。

 だが、そもそもK市は比較的空襲など戦火が少ない市だ。

 安尾は麻友からその話を聞いた時、疎開せずにK市に留まっていた方が安全だったのでは? と思わず聞き返したぐらいだ。


「ううん、私がどうしても家を出たいって言い張ったんです。女学校の寄宿舎に入りたいって」


 麻友は木槌を叩きながら苦笑した。

 トントントンと規則的な音を響かせ、原料となる野草を潰してゆく。


「お嬢さんがですか? どうしてです?」


 向かい合う安尾は、薬研やげんを挽く反復運動を止めないまま聞き返した。

 暖かい春の日だった。

 工場には、安尾と彼の仕事を手伝う麻友がいた。

 安尾は、いやいやそんなとかしこまったものの、彼女はいいからいいからと、彼の手から野草を奪うのだった。


 麻友は創業者の娘であるにも関わらず、従業員に交じって皆と同じように仕事をこなしていた。

 常にブラウスにもんぺという出で立ちで、お嬢様然とした格好はついぞ見たことがない。

 ヤマボシの仕事は重労働だが、彼女は愚痴一つ吐かない。


 仕事内容は、主に植物の収穫が中心だ。

 日が昇らないうちから背負い籠を背負い、東の山中にある畑へと向かう。

 稲ほどの高さの植物をバッサバッサと鎌で刈り取ってゆく。

 背負い籠はすぐに一杯になる。

 一杯になると屋敷へと運び込み、籠を空にするとすぐに畑へととんぼ返りする。

 それを一日何度も繰り返す。

 麻友も、安尾や有元に交じってそれを行う。

 生い茂った雑草も同時に処分しなければならない。

 この植物は太陽に当たらなくなると枯れるからだ。

 それが終わると仕込みに入る。

 主に茎を使用する。細かく刻み、冷水に浸して不純物を取り除くためにす。

 真冬でも例外はなく、指先がちぎれそうになるのを耐えるしかなかった。

 あとで知ったのだが、この植物の名は麻黄まおうと言って、ヤマボシの製薬になくてはならない植物だった。

 こうして生まれるのが、除倦覚醒剤じょけんかくせいざい朱雀黄丸すざくおうがん」だった。


 この米粒ほどの黄土色の丸薬は、人々の疲労回復に役立つともっぱらの評判で飛ぶように売れた。

 神谷家に多くの富をもたらしたという。

 開発した第一号の薬がいきなり大当たりしたのは決して運が良かったからではない。

 そう言っていたのは夏村だ。

 元々製薬や医学を専門研究していた貞治が、すでに覚醒剤の製造方法を確立していたことが理由として大きいのだと言う。


 ヤマボシでの仕事は過酷だったが、ノルマが予想以上に早く終わる日がある。

 ちょうどこの日がそうだった。

 安尾は、麻友に対して普段は自分の話はしないし、彼女のことを聞くこともあまりない。

 自分の倍ほどの年齢の男に、下手に詮索もされたくないだろうという思いからだ。

 だがこの日はどういうわけか、彼女は自分からよく喋った。


「笑わないでくださいね。私、英語を学びたかったんです。外交官になるのが夢なんです」


 麻友は少し恥ずかしそうに、女学校に行きたかった理由をそう説明した。

 英語など敵性語だと上官から叩き込まれていた下っ端にとって、彼女の志はあまりに崇高に思えた。


「英語ですか」


 過去、安尾の所属していた衛生班でこんな笑い話が流行したことがあった。

 上官が食事係に夕食の献立を聞く場面だ。


「おい、今日の夕食何だ?」


「はっ。辛味入汁掛飯からみいりしるかけめしであります!」


「何だそれは!」


「はっ。カレーであります!」


「最初からそう言え!」


 敵性語禁止だと言われて、わざわざ珍奇な言い換えをする糞真面目な下士官を揶揄した小話だった。

 麻友に話すと彼女は腹を抱えて笑った――。



「外交官。素晴らしい夢だと思います」


 安尾は素直にそう言った。

 ありがとう、と言って彼女は鼻にしわを寄せる独特の笑い方をした。

 日本には、女性外交官まだ存在しなかったはずだ。

 彼女ならいつかなれるかもしれないとこの時思った。


「でも家の人は、私が外交官になることを真面目に受け取ってくれないんですけどね。お祖母さんなんて、女にそんなことは無理って呆れていたわ。寄宿舎に入るのだって猛反対されたの」


「でもそこで諦めなかった」


「はい」


 果たして彼女の願いは叶い、K市にある高等女学校への進学を決めると、そこの寄宿舎で学生生活を送るに至ったそうだ。

 当時女子で進学する人は珍しかった。

 ましてや親元を離れて寮住まいする生徒など聞いたことがなかった。成績もすこぶる良かったようだ。

 どうやら麻友は疎開を口実に親元を離れたかったらしい。


「楽しかったなぁ、学校」


 夢を見たあとのような口ぶりだった。

 やがて戦争が終わると、彼女は寄宿舎から連れ戻された。


 夏村によると、貞治はとうに日本の敗北を予見していたらしく、大学を辞め軍関係からもうまい具合に足抜けを図り、満を持してこの地での製薬事業に専念するようになっていたそうだ。

 夏村はそれを、先見の明だと言った。

 娘を疎開先から連れ戻す時、彼女はたいそう嫌がったと聞く。


 娘の意思に対するはなかったようだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る