25章 チャンプジュニア?

25章 episode 1 ヒロの悩み


◆ 巣立ちの話を聞いて心を決めたヒロ。


 3月末、青木は大学に復帰するために去り、春休み中は帰省していた兄たちも東京へ戻って、レイとヒロが残された。小煩い兄たちが消えてしまって、ヒロはつまらなくなった。アサレンとユウレンをさぼって、登校前に山へ入って竹刀を振り回した。大きな木の枝に何本も棒をぶら下げ、奇声とともに飛び上がって棒を叩き落とした。

 木刀に手頃な枝を探しに山に入った橋本がヒロを見つけた。ずいぶん怒っているな、どうしたんだ、あのチビは? やらせておこう、静かに立ち去った。


 ある日、ヒロは谷川の診療室を訪れた。

「つまらない顔してどうしたの、お腹が痛いのかい?」

「ううん、違う。僕が知ってる大人でいちばん頭が良さそうなのは谷川先生だ。だから教えて欲しい」

「ヒロくんに褒められて嬉しいなあ、何を聞きたいのかな?」


「リョウ兄ちゃんが言ったんだ。兄ちゃんたちは大学を出てもここで暮らさないって。どうして帰って来ないの?」

「それはね、こういうことなんだ。ヒロくんは野鳥を知ってるよね。春になればどこからかやって来て巣を作ってヒナを育てる」

「うん、知ってる。山の大きな杉の木にタカの巣があるんだよ、見たい?」

「見たいなあ。でもヒナはいつまでも巣にいるかい?」

「いないよ。大きくなったらどっかへ飛んでいく」

「そうだろう。人間もそうなんだ。パパやママはどうだ? ずっと生まれた家で暮らしているかな」

「違う、ここにいる」


「お兄ちゃんたちはそれを言いたかったんだよ。昔はね、親の仕事を子供が継いで一緒に暮らしたけど、今はね、そうじゃないのが普通なんだ」

「でもさ、僕は大人になってもここにいたいんだ。だけど、プールとお風呂の仕事はニイとニイニイで、水泳はパパにかなわない。空手だってそうだ、ニイは達人だもん。僕はどうしていいかわからない!」


「ヒロくん、今はそんなことを考えなくてもいいよ。好きな物を食べて好きなことをして、いっぱい本を読めばいいんだよ」

「本は好きだけど、僕は頭が悪いんだ。BもCもあるんだ」

「それは通知表のことかい?」

「そうだよ、Cはめったにないんだ、珍しいんだ。音楽だけどさ、つまんないんだ。ニイニイがいつも聴いてる音楽が好きなんだ」

 ヒロは頭と腰を振って橋本と同じ華麗なステップで踊って見せた。

「あっ、もう帰る。ご飯だもん。先生、また来ていい?」


 ヒロの好奇心と感性に学校のカリキュラムが追いついてないようだ。青木の言葉を思い出した。「ヒロは限りなく自然児だが、大人社会で育ったから大人と同じ視線で見ることが出来る。あんな子が欲しかったなあ」 



25章 episode 2 水泳大会に挑戦


◆ チビ・モンスターに悩みはあるのか?


 数日後、何を思ったかヒロはアサレンを再開した。今までの遊び半分とは違って、「違う、違う」と呟いて何度も25mを往復して首を振った。酒井は隣で本気のクロールを見せた。ヒロも負けずにチャンプそっくりのフォームで追いかけた。


「パパ、僕はレースに出られる?」

「レースとは大会のことか? 急に何を言い出すんだ? 大会とアサレンは違うぞ。もっと練習が必要だ、ヒロには何も教えていない、無理だ」

「無理かどうかやってみなくっちゃわからない、教えてよ」

「教えてもいいが、厳しいぞ、つらいぞ、泣くぞ。それでもいいか」

「いいかどうかはわからない。僕はどのくらい泳げるのか試したい」

 酒井は頭を抱えた。


 酒井に包まれてまどろんでいる舞美に訊いた。

「チビ・モンスターに何か言ったか?」

「へーっ? 何も。でも、あの子少し変だわ。宿題持って谷川先生のとこへ通ってる」

「ふーん、谷川先生か」

 谷川先生は無茶苦茶なことは吹き込まないだろうが、不安は残った。

「ヒロは大会に出たいと言った」

「へーっ、そんなこと言ったの。あの子、時々ぼんやりして考え込んでるのよね。何かを探している気がするの」


 あんなガキが目に見えない探し物をするはずはないだろうと考えて、クロールの基本を教え、みっちり1時間泳がせた。泣きべそ顔でヘッチャラだい! ヒロは必死でついて来た。予選タイムは既にクリアしている、決勝に残るだろう。時たま大学に連れて行き、部員と競泳させてレースのタイミングとカケヒキを覚えさせた。酒井はヒロに夢中になりたいが、ためらう気持ちもあった。


 ある日、谷川のところから大きなダンボール箱を抱えたヒロが転がり帰って来た。

「姉ちゃん、青木先生がうまい棒をこんなにいっぱいくれたんだよ!」

「うわっ、すごい、ヒロはいつも先生と遊んでたよね、良かったね!」

「これもそうだよ」

 頭の銀色に輝く流線型のヘルメットを自慢した。


 帰宅した酒井が驚いて、

「どうしたんだ、これは?」

「青木先生がくれたんだ。先生はね、首と胸に大きな傷があるんだよ。『北斗の拳』のケンシロウそっくりだ。だから固い物は苦手だって言うから、うまい棒をいつもあげたんだ」

青木さんがケンシロウか、弱すぎてアミバに負けるぞと酒井は笑った。


 酒井は青木にお礼を言った。

「お礼を言うのは僕の方です。ヒロくんとよく山歩きをしましたが、竹刀で枝を払って僕が歩ける道と、4つの休憩所を作ってくれました。こんな息子が欲しかったと谷川に言ったら、孫だろうと笑われましたが、ヒロくんのお陰で実に楽しい時間を過ごさせてもらいました」

 ヒロはそんなことをしていたのか、自分の世界があるのかと痛感した。


 明日から夏休みという日、ヒロが走り帰って来た。通知表をピラピラさせて、

「ママ、音楽以外は全部Aだよ!」

「ひぁ、ウソ! どうしたの、勉強したの?」

「うん、谷川先生が教えてくれた。ものすごくわかりやすいんだ。ラクラクだぁ!」

 

 礼を言う舞美に谷川は、

「舞美ちゃん聞いてくれ。僕が観るところ、シンくんはオールマイティーで、リョウくんはスペシャリストだが、ヒロくんは両方を兼ね備えた子だ。僕の専門は小児科だから子供を見る目は確かだよ。

 そのうち酒井くんに言うつもりだが、ヒロくんをスイマーにして欲しくない。あの子は泉谷家を背負おう子だ。もうしばらくは本人の好きなようにさせて、本人に選ばせて欲しい、僕の目を信じてくれないか」

 谷川の唐突な発言に舞美は目を丸くした。



25章 episode 3  好タイム


◆ 幼い心で悩み、自分に怒りをぶつけるヒロ。


「大輝、谷川先生が不思議なことを言うの。小児科医の目から見ると、ヒロはオールマイティーでスペシャリストで、この家を継ぐ子なんだって! びっくりしたわ」

 さすがに、スイマーにして欲しくないと聞いたことは隠した。

「ふーん、そんなことを言ったのか。オマエに話があるが、ヒロの大会の後で話す」


 酒井はふさぎ込んで考え続け、それから4日間は舞美を抱こうともせず、お休みと言って背中を向けた。

 あーあ、考えても答えが見つからない。「起きてるか?」と話しかけると、「うーん」と頼りない返事の舞美を掻き抱き、これだ、これだ、オレの活力はここから始まると男魂の衝動を爆発させた。考えてもわからない事は考えない。とにかくヒロを入賞させよう! それからだ。


 リョウはヒロを応援しようと帰って来たが、商社に就職が内定したシンは英語の猛勉強で東京に残った。

 7月28日、県立スポーツセンターで行われた「神奈川県ジュニア水泳大会」の9歳以下のグループで、自由形とバタフライに出場したヒロは、家族の声援を受けてスタート台に立った。

 舞美そっくりに両頬をバシッと叩いて気合を入れ、最初から飛び出した予選を軽くクリアして決勝に残った。大きな肩幅と胸筋を持ち、強靭な下半身と物怖じしないレースぶりに、「ヒロ、頑張れ! 行けー!」、東海大水泳部員が応援した。


 さあ、決勝だ。緊張で心臓がバクバクする酒井を笑うように、自由形は2位を大きく引き離して1位、50mは酒井が小3で記録したレコードタイムに近い成績で優勝した。しかもバタフライは独壇場の強さを見せつけた。

 息子だと知られたくなかった酒井は、観客席の最前列で静かに見守っていたが、我慢できずに立ち上がって声をかけた。

「ヒロ、よくやった!」

「腹減ったよ、ペコペコだ!」

 この光景をテレビ神奈川のクルーは見逃さなかった。あれは世界チャンプの酒井さんだ。するとあの子はチャンプ2世か? これは特ダネだとカメラを回し続けた。このタイムは全日本に出場できそうだ。世界のチャンプ再来かと速報した。


 レースを終えたヒロを真っ先に出迎えたのはリョウだった。

「へっ、兄ちゃん見てたの?」

「そうだ、ヒロはすごかった! 嬉しいなあ、疲れたか?」

「ヘッチャラだぁ」

「さあ帰ろう、レイが待ってる。免許取ったぞ、乗れ」

 酒井が声をかけるしまもなく、リョウがヒロを連れ去った。


 観客席の谷川に青木は聞いた。

「あの子は酒井くんのようにスイマーになるのか?」

「いや、ならないだろう。水泳にあまり興味がないようだ」

「なぜわかる?」

「ヒロは迷っている。海に漂う朝霧を見たくて早起きして山に入ったが、俺の前を駆け上がる足音が聴こえるが、ものすごい早足で追いつけなかった。中腹の見晴らしがいい場所に着いたら、ヒロが木刀を振り回していた。跳んだり跳ねたりして、大木にぶら下げた棒を無心に叩いていた。

 ヒロの体格を見たか? あの胸筋と脚力は水泳で作ったものではない、山歩きと支離滅裂な木刀振りだ。ヒロが猿飛佐助に見えたぞ。土砂降りの朝もやっていたが、橋本くんが大木の後ろで覗いていた」


「しかし、あんな怪泳を見せられたら、酒井くんは本気になるだろう、世界に通用するスイマーに育てたいと思うだろう、どうなんだ?」

「酒井くんは悩んでいるが水泳コーチの前に父親だ。ヒロが嫌だと言ったら諦めるだろう」

「あんな年端もいかない子にそんな判断と決断が出来るか?」

「ヒロは酒井くんの気持ちをわかって、自分から大会に出たいと言ったらしい」


「これはさ、パフパフだから先生も食べれるよ。食べたことある? つばで少し溶かすと美味いんだ。食べてみてよ」

 そう言って、うまい棒をくれたヒロを青木は思い出した。


 応援に行った橋本は、あのチビはどうしてあんなに怒っているんだ? 泳ぎたくないのか? 不思議に思った。観戦できなかった瀬川に報告した。

「ヒロがピカイチのタイムを叩き出して、酒井さんが戸惑ってました。ヒロは嬉しいふりをしてたが、そうではないと思いました」

「どうしてだ?」

「ヒロは毎朝アサレンの前に山に入ります。そこでメチャクチャ木刀で暴れてます」

「お前が教えたのか?」

「いいえ、教えませんが教えられた事があります。あるとき山に行ったら、狂ったように木刀を振り回し、跳び上がってましたが、足元を見ると大小の石や枝が敷き詰められてました。昨日は平坦な空き地でした。大石を蹴って跳び上がり、ぶら下げた棒を一撃しました。どんなに足場が悪くても棒を叩き落とすという執念を見ました。体幹のブレがない見事な一撃でした」


「それはケンが教えたのか?」

「いや、そうじゃないでしょう。あれは自分と闘っている気がしました」

「なぜ、あんな幼い子がそこまで追い詰められるんだ? わからないなあ」

「父親の期待どおりにスイマーになるかどうかでしょう。次は兄たちがここへ戻って来ないことを知って、がっかりしたそうです。谷川先生に、自分はずっとここで暮らしたいから何になればいいのかと訊いたそうです」 

「ヒロはそんなことを考えているのか、痛々しいなあ」



25章 episode 4


◆ リョウとレイとヒロの1泊旅行。


 青木と谷川とリョウを迎えて、久ぶりに賑やかな食卓を囲んだ。

「ヒロ、レイと3人で旅行しないか? どこか行きたい所はあるか?」

「えーっ、ホント! 大観山から見える富士山よりもっと大きなホンモノを見たい。パパ、行っていい?」

「いいとも、楽しんで来い」

 リョウとレイはヒロに何か言いたい事があるのかと不安になったが、そもそもオレも不安だ。何を言われてもヒロに任せようと思い、3人を送り出した。


「レイ、覚えてるか? 士郎パパが亡くなってすぐ、ママが急に僕らを乗せて、箱根や軽井沢に行ったことがあった」

「行った、行った! ママの運転がメチャ乱暴で怖くて、シン兄ちゃんが真っ青になった。鬼押出しや白根山の湯釜も見た」

「ニイニイが心配して追っかけて来たけど、あの時のママは何を考えていたか、時々思い出すんだ」

「うん、箱根の坂を猛スピードで下ったとき、左右にフラれて死ぬかと思った。ニイニイを見てほっとした」


「姉ちゃん、士郎パパはどんな人だったの、怖い人?」

「優しかったと思うけどわからない。私は小さかったから」

「そうだなあ、シンに言わせるとママにいつもラブラブだったそうだ。パパというより大きなお兄さんかな」

「今のパパと違うの?」

「今のパパは父さんだ。立派な父親だ」

「ふーん、よくわかんない」


 観光コースを周遊して、大きな富士山を見たヒロは上機嫌だった。予約したペンションの部屋に3人は通されたが、大きなダブルベッドが鎮座していて驚いた。

「予約する時、兄弟と妹だと言わなかった俺のミスだ」

「私たちは子ども連れの夫婦と思われたのね。いい思い出になりそう!」

 レイはふふふっと笑った。


「ヒロ、一緒に寝よう。ヒロは真ん中だ」

「わーい、兄ちゃんと姉ちゃんと寝れるなんて嬉しい!」

「その前に風呂に行こう。洗ってやるぞ」

 バタンと眠ったヒロを挟んで、兄と妹はいつまでも語り合っていた。


 元気に戻ってきた3人を迎えて酒井は緊張したが、舞美は「あら、お帰りなさい。ハンバーグカレーよ」、いつもと変わりなかった。

「楽しかったぁ! みんなで一緒に寝たんだよ。でっかい富士山をいっぱい見て洞窟も行った。あーあ、面白かった! あれっ、アオちゃんはいないの? お土産あるのになあ」


「アオちゃんって誰?」

「青木先生だよ、友だちになったんだ。あのね、富士山の温泉の素を買ったんだ。傷に効くんだってさ。谷川先生は赤い手袋にしたんだ。いつも手を洗うからカサカサなんだ。このナントカですべすべになるんだよ」

「シルクだ」、リョウがサポートした。

「アオちゃんは谷川先生のとこに泊まってるよ」

 行ってくる! ヒロは家を飛び出した。

 

 ヒロが家を走り出た後、

「パパ、教えてくれ。ヒロは全日本に出るのか?」

「あのタイムは全日本レベルだが、地区予選は東京がトップレベルだ。東京の結果待ちだな」

「ヒロは出てもいいと言ったが、パパはヒロをスイマーにしたいのか?」

「スイマーにしたい気持ちはある。しかし、オレと比較されるプレッシャーと親が子を教える難しさがある。そう簡単には父子鷹にはなれない。それに、ヒロは大きなガキだがオレのようなるとは限らない。世界で戦うには欲を言えば190cmは欲しい。それで迷ってる」


「パパの話には肝心なことが抜けている、ヒロの気持ちだ、考えだ。就職した僕らがここで暮らさないことを知って、自分はここに残りたいと考えたようだ。医者にならなければダメかと聞かれたから、他にもここでやれる仕事があると教えた。ヒロの本気度はわからないが、思う通りにさせてくれないか」


「オレもはっきり言おう、ヒロは指導者の目から見たらヨダレが出るガキだ。オレがスイミングの経営者だったら、本人や親の意向を無視して突っ走るかも知れない。だが、大人の欲で潰された若者を数多く見て来た。

 タイムが伸びずに悩んだ挙句、敗者の烙印を押された若者が、セカンドキァリアに進むには時間が必要だ。オレには水泳しかなかったが、それはマレな例だ。ヒロがそうじゃないことはわかっている」

 酒井は頭を抱えた。

「リョウ、オマエはいい兄ちゃんだな、感謝する」



25章 episode 5 ヒロの全国デビュー


◆ ヒロはチャンプ秘伝のバタフライを披露した。


 3人の旅行中に、酒井は舞美に奈津子の言葉を告げたが、なるようになるでしょうと驚かなかった。しかし、酒井はヒロのことでずっと悩んでいた。

「どうしたの、元気ないけど」

「いやあ、悪いがその気になれないんだ。お休み」

「ねえ、ちょっと海を見てよ。今夜は漁火がたくさん見えるわ。いくつ見える?」

「どれどれ、30隻くらいか」

「士郎さんはそうやって数えて、あそこを舌先でループしてくれたのを思い出しちゃったぁ。じゃあお休み」

 何だって? そんなことしてたのか。オレだってやるぞ。いいか、気持ちよすぎて泣くなよ。


 士郎との睦言を聞かされた酒井は、くるりと背を向けた舞美を乱暴に持ち上げて腹の上に乗せ、秘部に舌先を這わせた。挑発されて腹が立った酒井は執拗にループを繰り返し、舞美が小刻みに震え出して昇りつめた瞬間にバズーカを連射した。その後も目尻から涙が溢れても容赦なく攻めまくった。腕の中で動かなくなった舞美にキスして、どうだ、これがオレの実力だ! 普通の男と一緒にするな、バーカと呟いた。

 

 青木は夏期休暇のほとんどを谷川の家で過ごし、ヒロと山歩きして心と体に栄養を吸収した。ヒロはいい子だが周囲の大人がいじり過ぎる気がして心配した。

 谷川は医者にしたいとリキんでいる、酒井くんはスイマーに、瀬川くんと橋本くんも狙っている。このまま野放図なガキでいいじゃないか。そんなことを考えながら本宅へ続く脇道を辿っていると、舞美と鉢合わせした。


「先生、ぜひ寄ってください。とびきりの豆をいただきました。キリマンですよ、お好きでしょう」

 若い時と同じ笑顔に誘われて本宅へ入った。

「ヒロくんの土産でピリピリしてた傷跡が治ったよ。彼は僕のとびきり若い友だちだ。余計な心配だろうが、あの子をみんなでいじり過ぎてないか?」

「そうですね、放っとけばいいんです。そのうち自分でわかってくれるでしょう」

「そうだな、わが大学の名物教授のご神託に任せよう」

 ふふっと笑った舞美と視線があった瞬間、大きな雷が轟いた。舞美は首をすくめて飛び出し際に、

「すみません、洗濯物を取り込んで来ます。豆、お願いします。ホント、先生は雨男なんだから」


 青木が豆を挽いていると、いい匂いだなあと酒井が顔を出した。

 急に降り出したザァーザァー降りの雨に打たれた舞美が、洗濯物を抱えて駆け込んだ。濡れネズミだなと、酒井はとっさにTシャツを脱いで舞美の頭を拭いてやった。青木はその逞しい背中を見て、これでは絶対に敵わないと儚い妄想を閉じた。

「旨いなあ! 谷川先生を誘おう、リョウはどこだ?」

 雨が小降りになって谷川が子供たちを連れて訪れたが、舞美がゲラゲラ笑い出した。

「まるで谷川一家みたい!」


「そうだよ、谷川一家だ。リョウくんとレイちゃんは志が同じで仲間だ。ヒロくんは僕のクワガタ先生だ」

 リョウが珍しく大笑いして、

「ウチはすごいなあ、教授が3人いて名医まで揃ってる。考えられないコミュニティーだ」

「みんな、なごやんなのよ。そうだわ、新崎川の天然うなぎをいただいたの! 夕飯はひつまぶしにしましょう」

「おう! 天然ものは旨いなあ、清流の味がする!」

 夕ご飯に腹つづみを打ち、和やかに日は暮れた。


 盆休みにケンがふらりと訪れ、「やったな!」とヒロを抱き上げた。

 遊んでくれるかと訊いたヒロに、「明日はレイとデートだ」と笑った。

「ふーん、やっぱりレイ姉ちゃんと結婚するのか?」と言われて、「バカ、まだ恋人じゃない、デートするだけだ」、言い返した。「恋人って?」、ヒロは不思議な顔をした。

 ニヤニヤしたリョウはヒロを抱え上げて、唇にチューした。

「恋人ってこうするんだ」

「そっかぁ、わかった! ニイニイが知らないお姉さんとやってた!」

 はあ? ケンとリョウは大笑いした。


 ケンはすぐ東京に戻り、リョウも帰ったが、ヒロはアサレンに励み、寂しい顔は決して見せなかった。気にかけたレイが言葉をかけても、ドンマイ、ドンマイと返すだけだった。

 ついにヒロは「全日本ジュニア水泳大会」の出場権を得た。チャンプ2世の噂はすでに広まって注目された。 

 

 秋晴れの爽やかな日曜日、「全日本ジュニア水泳大会」はタツミで開催された。酒井は朝からソワソワと落ち着かなかった。懐かしいタツミに青木とシンとリョウが並び、舞美とレイが見守った。午前の予選を楽々クリアして決勝に残り、決勝のスタート台に立ったヒロは、翻る東海大学の校旗を見て「オーッ」と胸を叩いて、大声で吠えた。


「大輝そっくり! チビ・チャンプだわ」と舞美が呆れたが、酒井はそれどころではなかった。もし入賞を逃せば、自分勝手な夢を諦めようと考えていた。

 自由形決勝は惜しくも2位だったが、バタフライは追従を許さない圧巻の泳ぎを見せて優勝した。

 若鷹が大きく羽を広げて獲物を追い詰めるように、強靭な脚力で水を蹴って上半身を舞い上げ、渾身の力で水面を叩いてドーンと進んだ。その豪快な泳ぎは、まさにチャンプ2世そのものだった。東海大水泳部員から胴上げされるヒロの映像は、瞬く間に全国に流された。

「まあ、小さなヒーローだわ! 大学のイメージアップに貢献したのかしら。大輝、言いたいことがあっても、とにかく褒めてあげてね、喜んでちょうだい。叱っちゃだめよ」



25章 episode 6 困惑と苦悩の酒井


◆ ヒロは何をしたいのか、酒井は考えてもわからない。


 数日後、滝田から電話があった。

「酒井、おめでとう! タツミでチャンプ2世を見せてもらったが、さすが親子だな! お前とそっくりのフォームだった。しかし俺の見たところ、あの子は自由形で1位になりたくなかったようだ、途中で力を抜いた。そうしなければ1位だったろう。どうもあの子は水泳バカになれないようだ。親父のためにバタフライは全力で泳いだがな。息子の気持ちをよく聞いた方がいいぞ」

 酒井も気づいていた。3、4回ほど手のカキが違った。やったなと感じた。ヒロはスイマーになりたくないのか……


 11月初旬、レイは小田原にある国際医療福祉大学看護学科に推薦入学が決定した。

「ヒロ、姉ちゃんはね、家から通える大学に合格したんだよ」

「えっ、ホント、嬉しい! 僕が大人になるまで家にいてくれるの!」

「バカ! バカタレ! おばあさんになっちまうじゃないか!」

 10歳近く離れた姉と弟が微笑ましかった。


 舞美は仕事の時は調布に泊まった。新社会人のシンの帰宅時間はバラバラだったが、リョウがよく食事を用意して舞美を待った。

 食卓を囲んで、父親の記憶が薄い息子たちに士郎のことを話した。時々シンは昔を思い出して士郎を瞼に描いたが、兄たちはヒロのこれからを案じた。


「もう少し大きくなったヒロを信じましょう、大輝の言葉を聞いたふりしてるけど、聞いてないわ。ヒロは自分で決めたことに進んで行くと思う。

 裏山のヒロの隠れ家を知ってる? 大きな岩に囲まれた凹みなんだけど、本がたくさんあって、難しい漢字はカナが振ってあった。手作りのカマドの周りに、椎の実や栗のイガがたくさん落ちてた。あそこで青木先生と過ごしてたって初めて知ったわ。

 そしてね、人は大輝を水泳バカと思ってるかも知れないけど、いつも本を読んで、普段は物静かな人だった。だから博士や教授になっても当然なのよ。そういう人だからヒロのことを悩んでるの。シンとリョウは士郎さんとほぼ同じ背丈だけど、ヒロが187cm以上になるなんて考えられないわ。勿論、水泳は体格だけじゃないけどね」


 ある日、まだ暗い時刻に山に入ったヒロはいつもと何か違う? 不思議に思って空を見上げると、飛び上がっても届かない高い場所に棒切れがたくさんぶら下がっていた。うん? 誰だろうと木の陰に隠れると橋本がやって来た。

 橋本は木刀で次々に棒を落とした。背筋をシャキッと伸ばし、木刀を握った両手には力が入ってない。静かな動きで棒を落とすが、落ちた棒には紐が付いていた。棒を叩くのではなく、棒をぶら下げている紐を切ったようだ。ヒロはその動作を見つめた。

 橋本は、ヒロが飛び上がれば叩き落とせる位置に棒をぶら下げて、何食わぬ顔して山を下りた。ヒロは橋本のように木刀を構えた。確か、手と足にも力が入ってなかった。よし、棒をめがけて飛び上がり、叩き落そうしたが、橋本のようにはいかない。怒ったヒロは、いつものようにメチャクチャに振り回すと、棒だけは何本かが落ちた。



25章 episode 7 ひとり稽古


◆ 橋本の一振りに魅せられていくヒロ。


 ヒロはずっと考えていた。アサレンの前に山に行き、隠れて橋本を待った。そんな朝が半月も続いただろうか。そうだ! 水泳と同じだ! カタチだ! ヒロは気づいた。パパはきれいなフォームで泳げといつも言う。変なカタチは無駄な動きになる、そんなカタチで泳ぐと疲れるだけで、タイムは出ないと言った。

 橋本が帰った後、毎日ヒロは橋本の動きを真似た。橋本は帰ったふりして、大木の陰でいつも見ていた。


 季節が変わり霜が降りた朝、ヒロはようやく手応えを感じた。握りしめた手に力を入れてはダメだ。自由に動かせるように手と足には力を入れず、腹に力を入れて飛び上がって紐を打つんだ。足の動きも真似した。叩いちゃダメだ、体と木刀を斜めにして振ると、紐が切れることがわかった。


「瀬川さん、ちょっと付き合ってくれませんか」

 翌早朝、瀬川と橋本は木刀を握って対峙していた。ヒロは隠れて、二人の姿勢と構えを瞬きもせずに見つめた。瀬川が蹴って飛び上がったが、木刀は体の中心線の頭上にあった。仕掛け技を放つ瀬川に応じ技で向かう橋本は、動きの軌跡がわかるように優雅に木刀を払った。

 瀬川と橋本が汗を拭きながら姿を消すと、ヒロは二人の真似して木刀を中段に構え、空中に振り回した。何かを考え、首を振りながら、二人が繰り広げた仕掛け技と応じ技を繰り返した。それを大木の陰で橋本は見ていた。


 年の瀬も押し詰まったある朝、

「ヒロ、そこにいるんだろ、出てこい」

 ケンが立っていた。

「ケンニイ、いつ来たの?」

「今朝だ。久しぶりに山に行きたかった。オマエ、そんなとこで何してんだ? ノゾキか?」

「ノゾキって何?」

「いや、忘れろ、独り言だ。オマエさ、木刀なんか捨てて、横に並んで俺と同じ動きをしろ、ラジオ体操みたいなもんだ」

 ケンはリズムを刻んで、前進や後退の“送り足”、斜め移動する“継ぎ足”をステップを踏んで模範を示した。ハイテンポな動きにヒロは面白がって、真似した。


「ケンニイ、これはニイニイのダンスと同じ?」

「ちょっと違うな、これは俺とオマエのコラボダンスだ。首は真っ直ぐ、頭は振るな。どうだ、ついてこれるか?」

「コラボって何? よくわかんないけど面白いや」

 ヒロは見よう見まねで、ケンのように胸を張って頭は動かさず、同じ動きをした。

「オマエは物覚えがいいなあ。手はこうするんだ。スピードをあげるぞ、力を入れるな」

 

 朝早くから騒いでいる野鳥の声で目覚めた酒井は、いい天気だなと目を覚ました。たまには山へ行くかと駆け足で向かった。何やら人声がして騒がしい。ははーん、これがヒロの木刀振りかといっちょ見てやろうと近づくと、瀬川と橋本が大石に隠れて見ていた。何だ? ケンがいる。声を掛けようとすると、瀬川が手招きした。

「あいつら何やってるんだ?」

「お遊戯です」

 お遊戯? 木刀や竹刀は持ってないが、あれは剣道の足運びだ。ケンの構えと足運びにブレや隙はまったくない。その横でヒロは懸命に同じ動きをしようとしている。

 

 山を下りながら、酒井は橋本に「キミが教えたのか?」と訊くと、

「いいえ、何も教えてませんが、ヒロは瀬川さんと僕の稽古を毎日こっそり見ています。僕らが帰ると、同じ動きをやってました。再現ムービーのように何度もコピーして、納得いくまで続けてました」

「それをケンに言ったのか?」

「言いました。面白そうだからからかってみますと言ってました」

 うーん、酒井は考え込んだ。アサレンの前に山で暴れていることは知っていたが、初めて見たヒロの俊敏な動きが気になった。剣道と水泳は使う筋肉が似ている、必要不可欠なものは背中の僧帽筋や三角筋、特に広背筋だ。これを棒叩きで鍛えたのか? またひとつ酒井の悩みが増えた。


「ただいま、ママ。元気だった?」

 その声に舞美が振り向くと、ケンの横に頬を真っ赤にしたヒロが立っていた。

「ママ、ケンニイからダンス習ったんだよ」

「へぇ、ケンがダンス?」

「あのね、ニイニイとは違うダンスなんだ。頭を振っちゃダメなんだよ」

 ヒロは楽しそうにステップを見せた。

「そら、レフト、次はライトターンだ。もっとスピードアップしろ!」

 これがダンス? 舞美は目を丸くした。


 酒井が顔を出した。

「パパ、おはよう。ケンニイが遊んでくれるって。アサレンしないで遊びに行ってもいい?」

「そうか、いいよ。どこに行くんだ?」

「田舎の子に刺激を与えようと社会見学に行きます。僕の実家に泊ってもいいですか? 父がヒロに会いたがってます」

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