第1話 初恋と後悔
「ソフィーナさま、到着いたしました」
御者の声から間を置き、コーチの扉が開いた。
「……どうぞ。足もとにお気をつけて」
セリドルフ公爵家の嫡男で、古馴染でもあるガードネルが固い顔で手を差し出してきた。
騎士団の一員でもある彼は、ソフィーナの国境までの送別兼護衛をわざわざ買って出てくれたと聞いている。
「ありがとう」
「そんな風に礼を仰る必要はないと、」
「いつもそう言っていたわね、ガードネル。それももう最後だと思うと寂しいわ」
クスリと笑うと、ソフィーナはその手を借りて馬車を降りた。
「……私も本当に寂しいです」
ガードネルはソフィーナの手を一際強く握ると、ぼそりと呟く。
鼻の奥がツンとしたのを隠しながら、
「それにありがとうと言っても、さすがに怒られないかしら」
と笑い、手をそっと引き抜いた。
緩やかな峠道ではあったが、コーチを引く馬たちには相当な負担だったのだろう。彼らの吐く息は、冷たい空気の中で白く濁っている。
向こうでは、送りと迎えの者が双方顔を合わせ、さっそく申し送りを始めたようだ。複数の話し声が聞こえてくる。
「……」
視線を来し方の麓へと降ろせば、街道が丘陵を縫うように走り、その間を農閑期の畑が埋めている。所々に村が点在していて、どの村からも穏やかな煙が上がっていた。昼食の準備をしているのだろう。
山の頂上から、寒風がソフィーナへと吹き下ろしてきた。
くすんだ茶の髪が風に舞い上がり、眼下に広がる母国ハイドランドをソフィーナの視界から隠す。
ちゃんと目に焼き付けておきたくて、ソフィーナは髪を抑えると、口の中で小さく別れの言葉を呟いた。
「ソフィーナさま、もし……、もしも、カザックがお辛いようであれば、いつでも」
「ガードネル、お兄さまのこと、お願いします」
横に立ったまま、同じ景色を見ていたガードネルの発言をソフィーナは遮る。
続くだろう言葉が不適切だからではなく、ソフィーナ個人の願望そのものだからだ。
声にされてしまえば、国のために出来ないとわかっているのに、きっとハイドランドに逃げ戻りたくなってしまう。
「知っているだろうけれど、ご自身を顧みる暇がないほどお忙しいの。多分これからはもっと……」
(私は、側でお兄さまを助けることがもうできない)
兄セルシウスの友人でもある彼に、ソフィーナは小さい頃よくかまってもらった。
今でも彼と近しい兄が、以前彼に冗談交じりにソフィーナとの婚約を打診していたことも知っている。それがもし成立していたら、と考えたところで、ソフィーナは小さく首を振った。
「助けてさしあげて」
ガードネルの水色の目を見つめ、願いを託す。
「……もちろんです」
悲しそうな顔をしたものの、彼が承諾を返してくれて、ソフィーナはようやく少し息を吐きだすことができた。
近づいてくる足音に、二人は振り返った。
「初めまして、ソフィーナ・フォイル・セ・ハイドランド殿下。ここからは、私、カザック王国騎士団第三小隊長のカーランがご案内いたします」
黒地に金と銀の刺繍の施された制服を身にまとった騎士が、カーランを筆頭に20名ほど、ソフィーナの前に跪く。
人数としては、ハイドランドの騎士の数の半分だ。皆身なりを整えていて、所作も美しい。なのに、なぜか威圧感があった。
「名残惜しゅうございますが……ソフィーナさま、道中お気をつけて。寂しくなりますが、ソフィーナさまの新天地でのご多幸を、心からお祈り申し上げます」
「ありがとう、ギャザレン。あなたの帰途、そして前途も恙なきよう」
そのカーランの横に並んだ、ここまで見送ってくれた自国の騎士団長に、ソフィーナは微笑を浮かべた。
「ソフィーナさま、どうかお幸せに。メリーベルさまは常に見守っておいでです。アンナ、ソフィーナさまを頼みましたよ。あなた自身も体に気を付けなさいね」
「もちろんです。お母さまこそご自愛なさって。お父さまにもお姉さまにもよろしくお伝えください。手紙を書きます」
乳母のゼールデに、ソフィーナは乳妹のアンナと共に別れを告げると、カザックの用意した馬車へと乗り込んだ。
「ハイドランドに」
「カザックに」
「「永久の栄光あれ」」
両国騎士団の唱和を合図に、馬車は国境を越え、カザック王国へと動き出した。
(ここからカザック……)
公務で何度か訪れたことのある国だ。どの街道を通ってもそうであったように、今度の道もハイドランドからカザックに入った途端に、滑らかになる。
その違いが自分と、この先にいる、夫となるフェルドリック・シルニア・カザックとの差に思えて、ソフィーナは深々と息を吐きだした。
* * *
「あれ? 絶世の美女って話じゃ……」
「いや、確かに奇麗なんだけどさあ、着飾れば、大抵あれぐらいには……なあ」
「しーっ、別人なんですって。あの方は妹のソフィーナ姫で、絶世の美女は姉のオーレリア姫だそうよ」
「絶世の美女の、妹……。なんで本人じゃないのさ」
「せっかく仕事休んで見に来たのになあ」
(がっかりされる花嫁というのも中々ないかも……)
隣国への輿入れの馬車の中、国境となっている山脈を越えたところにある街道沿いの宿場町で、ソフィーナは沿道に集まった人々に、馬車の中から手を振る。
(でも、まあ、確かに、美人なんて形容とは縁遠いから)
開け放した窓から冷たい風と共に入ってくる人々の感想に、自分こそが共感を覚えてしまって、苦笑してしまいそうになる。
が、王族の義務として、母に長年叩きこまれた笑顔は崩せない。
「ほら、あの馬車だよ! 騎士さまがいっぱいいるもん。大変、もう行っちゃう!」
「ハイドランドのおひめさまなんだって。わああ、にこにこだー!」
「ほんとだっ。おひめさまーっ、あ、手ぇ振ってくれた!」
小さな女の子が二人、全力で手を振って馬車を追いかけてくれる。
満面の笑顔で走ってくるその様子に、ソフィーナは自分の行いが正しいことをなんとか思い起こした。
そうだ、彼らはわざわざ自分のためにやって来てくれているのだ、見た目でがっかりされるなら、せめてふるまいだけも、と。
「でもねえ、なんていうか、フェルドリック殿下と並んだら、見劣りするんじゃないか?」
だが、今一番、いや、できれば一生聞きたくない名前が耳に届いてしまって、ソフィーナはついに眉根を寄せた。
(言われ慣れてはいるのだけれど……)
宿場町を離れて、静かな森の中へと馬車は進んでいく。
人気がなくなったのを機にそっと息を吐き出すと、ソフィーナは向かいに座る、乳妹でもあるアンナへと目線をやった。
ソフィーナを居たたまれなくしているのは、人々が自分を見て発する言葉より何より、彼女の表情だった。
聞こえてくる、罪がないとは言え、残酷な声に、きっとソフィーナ本人よりも心を痛めている。その証拠に俯き気味の顔は青いし、膝上のドレスを握り締める手も真っ白、しかも微かに震えている。
「アンナ、そんな顔をしてはだめよ?」
優しい乳妹を安心させようと、硬く握り締められた彼女の手に、ソフィーナはそっと自らの手を重ねた。
「ソフィーナさま……。私、悔しいのです。皆ソフィーナさまのことをよく知りもしないのに」
「いいのよ。カザックの皆にも、そのうちちゃんと知ってもらうわ。私、そういうの、得意だもの」
ソフィーナが「知っているでしょう?」と茶目っ気を見せて笑うと、アンナはやっと少し笑いを零した。
「そう、ですね。少なくともフェルドリックさまは、姫さまの魅力をご存知な訳ですし。ふふ、もう少しで、姫さまとはお呼びできなくなりますね」
気を取り直し、嬉しそうに呟いた乳妹に、微かな胸の痛みを覚えた。
「初恋が実るなんて、本当素敵です」
「そう、ね……」
迂闊にしゃべるなんて、と彼からの求婚に舞い上がっていた自分を、ソフィーナは心底恨んだ。
(そう、初恋。だからこそ余計やるせない――)
アンナとの会話を打ち切りたくて、ソフィーナは逃げるように再度窓の外へと視線を向けた。
* * *
あれはソフィーナが12の時、まだ存命だった母に連れられて、はるばるオーセリン海洋国を船で訪れた、暑い夏のことだった。
戦時の捕虜の取り扱いについて話し合うというその会議をどうしても見てみたくて、ソフィーナは母を通じて、傍聴を各国の代表たちへと願い出た。
それぞれの国の王やら太子、それに準じる人たちが驚き、「子供の遊びではない」と渋い顔をする中でただ1人、「行く末の楽しみな方ですね」と言って、びっくりするくらい整った顔を、優しく緩めて笑いかけてくれた人がいた。
当時彼は19歳で、出席者の中でも抜きん出て若かったのに、その一言でソフィーナは傍聴を許されることとなった。
彼は会議の場でも目立ちに目立ち、しかも、その手際は鮮やかとしか言いようのないものだった。
発言の回数も言葉も多くないのに、要所を必ず押さえ、上手く相手の傷をつつき、自尊心をくすぐる。男性でさえ彼の仕草に見蕩れ、柔らかい笑みと言葉で他者の意見をいなしてしまう。
時折母が渋い顔をしていたのも頷けるほど、会議は彼のペースに終始した。
「面白かったかい?」
「は、はい」
会議の終了後、彼はソフィーナを見かけて声をかけてくれた。
最初話しかけられた時は、ひどく美しい人だと思って驚いただけで、特に何も思わなかったのに、その時は心臓がすくみ上った。
無礼がないように、とソフィーナは目いっぱい顔を上げ、背の高い彼の顔を見つめる。
彼があの大国、カザックを背負う太子だと知って、しかもそれに見合う人だと子供心に尊敬を覚えていたから、緊張しないではいられなかった。
「ふふ、変な子だなあ。小難しくて面白くなかったと言うのを期待していたのに」
「難しくはありましたけれど……でも勉強になりました」
「勉強が好きなのかい?」
ハイドランド民話の中に出てくる陽の妖精のように美しい人は、少しだけ首を傾げて、微笑んだ。それにかなり動揺したと思う。
「好き、というほどでもないような気がしますけれど、賢くなれば、みなも幸せに出来て、自分も幸せになれる、と」
真っ赤になりつつも、なんとか答えたソフィーナに、目を見張ったその人は、
「……なるほど」
そう言って、“本当に”笑った。さっきまでの笑顔が作り物だとはっきり分かるほど奇麗に。そうして、ぐしゃぐしゃっとソフィーナの頭を撫でて去っていった。
それ以降も、ソフィーナは国の代表を集めた国際会議などで、その人と何回か顔を合わせた。
シャダ王国が裏で糸を引く反乱の迅速な鎮圧、メーベルド王国による麻薬流布の阻止、東の国カルポを拠点とする人身売買の壊滅、ドムスクスとの戦争での完勝など、他国との争いにおいても、圧倒的な実力を見せつけた彼の存在感は、その度に増していく。
気付けば、彼の名はその容姿と知性と併せて、大陸中で知られるようになっていた。
彼が来る会議には、多くの国の元首が娘を連れて参加するようになり、ソフィーナなんかが、個人的に彼と話せる機会は全くなかったけれど、それでもソフィーナの彼への憧れは増すばかりだった。
彼が見せる為政者としての姿勢に惹かれたのだ。
彼はどこかの国の王さまのように、これ見よがしに「民のため」と建前をつけたりはしない。それなのに、彼がする提案や押し通そうとする考えは、かの国の人々のためになることばかり。しかも、余裕がある時には、他国の人々のことも考慮に入れているようだった。
最初は偶然かとも思っていたけれど、そんなことが何度も続けば、そういう人なのだと思わざるを得なくなって、ますます尊敬するようになった。
私欲のために権力を振りかざすことはないけれど、目的の為に必要とあれば、容赦なく力を使い、少々あざとい手を使ってでも、必ず結果を手に入れる。
完璧な頭脳と、母がソフィーナに説いて教えた王族としてあるべき姿の理想。
もちろん、いくら憧れても、自分には手の届かない人だという自覚はあった。でも、あんな為政者になることは出来る。
そう強く思い描いて、ソフィーナの努力の原動のひとつになった人。淡い淡い初恋の人。
一体何の因果なのだろう――その憧れの人が手の届く存在になってしまった。そして、何の間違いか、この先で自分を待っている。
『恥ずかしながら、先の会議で一目惚れいたしました』
『まさかあんな口上を真に受けるとは、思わなかった』
『せっかくだから、夢ぐらい見させてあげようと思っただけ』
(……いいえ、待ってなんか絶対にない。せいぜい待ち構えているというところだわ)
今となっては消し去りたい、初恋の相手の整った顔を思い浮かべて、ソフィーナは胃に手をやり、ぎゅっと握りしめる。
しかも自分だけではない。母が違うのに、ソフィーナを可愛がってくれた6つ年上の兄、セルシウス――母がいない今、父より誰よりソフィーナが愛しいと思う、ただ1人の肉親にまで、負担をかけてしまっている。
人気のない森の中だというのに、馬車の車輪からソフィーナに伝わってくる振動に変化はない。
こんな場所の道にまで行き届いた管理ができる国が、ソフィーナの嫁ぎ先だと思うと、余計に気が滅入った。逃げられないと改めて突きつけられた気がした。
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