第7話 襲撃

引き絞った弓の弦が跳ねる。

こわい弓幹が一瞬撓った。

一直線に駆ける矢を追って、オダライアの勇敢でしなやかな脚が一気崖を駆け降りていくと、一矢目が刃を振り下ろそうとした首領の左目を、狙い違わず射抜いていた。


「っ…っ…っ、ぎぁ、ああっ あ!!」


響き渡る絶叫に、一気に恐怖と混乱が伝播していく。


「ひっ、どこからっ……!?」

「なんだ、なにがあった!!」


口々に叫び、右往左往する野党達が混乱から立ち直る前に、エメラルデラはオダライアの胴を蹴った。嘶いたオダライアはガラガラ、と土と岩を崩しがら崖を一気に駆け下りる。

不安定な騎乗のまま、間髪入れずに二矢目を弓にかけて放つと、矢は鋭く空を疾け。そして、血走った目を向けようとしていた首領の腹にやじりが深々と食いつく。


「ひぅ、っ、っぁぁ、あああ!!!!」


再び轟く悲鳴、オダライアの蹄と趾足しそくが崖の急斜面を噛んで更に駆ける速度を増す。

エメラルデラは弓から短剣に持ち変えると、勢いを殺さずに迫り。


「お前、っ…おまえ、何モンだっ…なんだっ、畜生……やっちまえっっ!!」


血反吐と共に吐き出された誰何すいかの声が鼓膜に届く前に、エメラルデラはオダライアの背に片足を掛けて、蹴った。

駆ける力はエメラルデラの身軽な身体に伝わり、勢いを乗せたまた一気に男に躍りかかる。

白刃が瞬く間に迫り、再び叫び出そうとした首領の首に深々と突き刺さると、自重によって横へと裂けていく。


「っ、……ッ…ぐっ……ッ」


その傷口からは、声にならなかった空気と血の飛沫が呪詛のように噴き上がる。

重力に引かれ着地するエメラルデラの靴底が、川岸の石をけたたましく転がした。

身を獣じみて低めては、刃を構えて油断無く振り返る。

その先に賊の首領であった男が、生命の名残にしがみつき、痙攣を繰り返しながら横たわっていた。

一瞬の沈黙、その後から膨張していく恐怖。

短い悲鳴が残りの賊の喉から響いた。


「ひっ…っぃ」


一つの声を切っ掛けに、膨らみきった恐怖が破裂する。背を向けて散り散りに逃げていく残党をエメラルデラが追おうとしなければ、逃げていく背を追うように女の声が凛と響いた。


「逃がして上げられないわ、ごめんなさい」


最初に見たのは虚空こくうが輝く様であった。

斜陽に照らされた氷の粒子が光を弾いていると気付いたのは、遅れて感じた凍つくような冷たさのためだ。

女の柔らかく尖った唇から吐き出された吐息が、容赦なく逃走者を撫で、大地を、肉体を、凍らせていく。

逃亡を企てた賊たちは声もなく精巧な氷像と化し、やがて音もなく砕け散り、儚くうつろを舞っていった。

女は冷気の名残を拭うよう、親指の腹で唇を撫でると口唇の肉が柔らかく潰れて、歪む。

その様は人間そのものであった。

しかし、吐き出された吐息は言外に人でないことを物語っている。


竜の息吹きブレス─────


魔法というお伽噺が実在していない限り、この世で生物を一瞬で氷像に変える力がある存在は、一つしかない。


「────…竜…なのか…」


沈黙を守っていたエメラルデラが半ば唖然と呟くと、彼女は整った顔を歪ませて、少し困ったように頷いた。


「あたしの名前はヘルメティアよ、そしてあっちが…」


「君、凄いですね!凄まじい胆力でした!身のこなしも騎乗も素晴らしかった!!是非お名前を聞かせて下さい!!」


「っ……!!」


先程までへたりこんでいた男が、いきなりエメラルデラの片手を握って迫る。

ヘルメティアと名乗った雌型の竜の紹介を押しやるような凄まじい勢いに、目深に被っていたフードが跳ねて男の顔が露になった。

淡い紫色の光沢を帯びた長い黒髪が白皙の頬に掛かる。

切れ上がった紅玉の双眸はこの上ない喜色に細められ、愛嬌と不信感を同時に喚起かんきさせる笑みに溢れていた。

ぐっ、と上からのし掛かるように迫ってくる顔に、エメラルデラは半ば身を背後に反らして逃げ掛け……不意に、その圧が遠ざかった。

驚いて瞬けば、白くしなやかな指が男の耳を捕らえて、容赦なく引っ張っているのがエメラルデラの目に止まった。


「怯えてるから、止めなさい。あと名乗るのは、あなたからよ」


「いた、いたい、いたいですぅぅ、う゛!引っ張らなくても良いじゃあないですか…えっと、僕の名前はですね」


止める暇が、ない。

軽薄そうな薄い唇が開かれ、荒れの一つもない指が男自らを指し示すべく、胸に据えられていた。

聞きたくない。

知りたくない。

エメラルデラが今すぐ口を閉じろと告げるため、口を開くより先に、容赦なく男の名前は名乗られた────


「シエス・ティータ・チェンチアンと申します」


それは、チェンチアン帝国の皇弟の名前であった。

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