第2話 現れたのは羊?

玄関の戸を開けて家の中へ飛び込み、すぐ閉めて鍵をかけてから、かんぬきを通す。

これでよし。

明かりを灯して、急いで暖炉に火を入れたら、びしょ濡れの服や靴をポイポイっと脱ぎ捨てて、カゴの中身を確認した。

ふぅ、どうにか濡らさずに済んだみたい。

水没でもしない限り大丈夫だと思うけれど、やっぱり濡れると痛みが早くなるもんっは、ハッ、ハクショイッ


「んぁー、鼻水出たぁ」


やっぱり、先に温かくしてから素材を片付けよう。

鼻をかんで、取りあえず大きなタオルに包まって、お湯で絞ったタオルで体の汚れを拭う。

着替えを済ませたら、素材の入ったカゴを持って工房へ。

壁越しでも外の雨や風の音が轟々と聞こえてくる。

リューとロゼ、今頃どうしているだろう。

心配だな。

工房に踏み込むと、慣れ親しんだ独特な匂いがフワンと鼻をくすぐった。


工房。

ここは母さんが使っていた特別な部屋。

貴重な道具や素材が沢山あって、私にとっても宝箱みたいな場所。

母さんには色々なことを教えてもらった。

王都では学者だった母さん。私やティーネもそうだけど、母さんは村の子供達に読み書きを教えていた。

父さんのことはよく知らない。

優しい、温かい人だって母さんは話してくれた。一緒にいられない事情があって、リューとロゼを連れてこの村へ来たんだって。

その頃、私はまだ母さんのお腹の中にいたから、私だけ父さんの顔を知らない。

ロゼにとっては恩人で、リューは頼もしくて格好良かったって言ってたっけ。あ、母さん「すっごくハンサムよ」って惚気てもいたなあ。

ここにいると皆のことばかり考えてしまう。

一年なんてあっという間だった。この先二年、三年って、もしかしたらずっと母さんに会えないかもしれないなんて思うと少し不安になってくる。

十六歳になったら、王都へ行ってみようかな。

一人前だからリューもロゼも認めてくれると思う。それに、外の世界を見てみたいんだ。

ここでの暮らしは大切で大好きだけど、母さんから聞いたり、本で読んだりした外の世界はいつだって魅力的でキラキラしている。

文字でしか知らない植物、動物、町は人は、どんな感じなんだろう。想像とどこが同じで、どこが違うんだろうって、考えているだけでワクワクしてくる。

―――さて。

植物は干して、乾燥させてから保管、樹脂は同じ種類の樹脂が入っている瓶に移して、結晶も同じものをまとめた容器で保管。

小さな木の実は干してそのまま、大きい実は皮を剥いて、皮だけ乾燥させて保管。中身は美味しくいただきます、んむ、あまーい。

椅子に座って、脚をパタパタさせて、ほうっと息を吐き出す。


少し私達の話をしよう。

まずはリューとロゼ。

リューは血の繋がった兄さんで、名前はリュゲル。リューは愛称。

ロゼとは血は繋がっていないけれど、母さんがある人から引き取って私達と一緒に育てた、もう一人の兄さん。

二人はとっくに大人で、リューは二十歳、ロゼはリューより五歳年上。

妹のひいき目抜きでも格好いい二人だから、あちこちから結婚の申し込みが来ているんだけど、二人ともまだお嫁さんを貰う気はないみたい。

今、村で取れたり作ったりした色々なものを換金するために、森を抜けた向こうにある町へ出かけている。

ここでの暮らしは自給自足、とはいえ、それだけで全部賄えるわけじゃない。

村で手に入らない物を買うために、お金はどうしても必要。

そして―――大森林には魔物がいる。

だから村で一番強くて若い兄さんたちが、村長さんに頼まれてよくおつかいに行くんだ。

換金してきたお金は村の財産として村長さんが管理している。そこから必要に応じて分けて貰ったり、村全体で使うものを購入する費用に充てたりする。

ついでに個人の換金も兄さんたちは請け負っていて、母さんからも身内割引とはいえ、しっかり手数料を貰っていたっけ。

村で暮らす分には個人的にお金が必要になることはないけれど、母さんは研究をしていたから、その費用を作るための換金や、器具や薬剤、素材の購入なんかを兄さんたちに頼んでいた。

町に行くと兄さんたちはいつも私にお土産を買ってきてくれる。

村では食べられない手のこんだ美味しいお菓子、本、森に咲かない花や、可愛い小物なんかも。

今頃二人はこの嵐に足止めされて、町で宿を取っているだろう。

森を抜けるのに二日かかるって言っていたから、どのみち誕生日には間に合わなかったんだ。リューがごねたのもそれが理由、でも仕方ない、お土産に期待しよう。

きっとティーネが明日の朝いちばんに「おめでとう」って言いに来てくれる。

今夜はスープでも作って、言われたとおり早く寝るかな。


「よし」


そうと決まれば、台所へ行ってエプロンを着けて、早速料理を始めよう。

うちで一番の料理上手はリューだけど、そのリューに教わった私もそれなりの腕前なんだから。

よーし、折角だし、ちょっと豪華なスープにしちゃおう。

野菜の皮を剥いて切って、お肉も切って炒めて、鍋にお水を入れたら、さて味付けは何がいいかな? ミルクと、それにチーズもたっぷり、塩で味を調えてっと。


―――不意に外からガタンッと大きな音が聞こえてきた。


「わッ」


お、驚いた、何?

音がした方を暫く息を詰めて窺う。

窓は外側から板で打ち付けてあるから覗いても何も見えない。

多分もう夕方近いだろう、それにこんな雨風の中わざわざ訪ねて来る人なんていないはずだから、何か飛んできてぶつかったのかな。

ブルッと少し震えた。

怖い、かもしれない。

そろりと足音を忍ばせながら玄関の戸へ近づいて、鍵とかんぬきがちゃんとかかっているか確かめる。

まさか森から魔物が入り込んだとか。

ううん、それは無いよ。だってこの村と、村に近い部分の森は『護られて』いるから。だから大丈夫―――の、はず。

でも、天の気が乱れると良くないものが入ってきやすくなるって聞いたことがある。

戸の前で考えていたら、その戸がまたガタンと音を立てて揺れた。


何かぶつかっている?

ううん、ドアを―――叩いている?


―――ガタンッ


「ひゃッ」


ま、魔物はそんなことしないよねえ?

知能が高い魔物は人の真似をするって話だけど、ここに現れるわけないし。

どうしよう。

もし、村の誰かが私を心配して様子を見に来てくれたんだとしたら。

戸に耳を押し付けて様子を窺ってみても、外からは風と雨の音しか聞こえない。

またドンッと戸が震えた。

さっきより少し弱い。

ドン、ドンと、段々音が小さく弱くなっていく。

何だろうこれ、変な感じ、胸の辺りがモヤモヤして落ち着かない。怖いけど、すごく怖いけど、気になってこのままにもしておけないし。

ええい、なるようになれ!

半ばやけくそ気味にかんぬきを引き抜いて、鍵を外し、戸を開けた。

同時に吹き込んでくる猛烈な風と雨!


「わぁあぁあああ~ッ」


持っていかれそうになる戸を慌てて引き戻し閉じて、鍵をかけ直して、かんぬきを通す。

想像の倍すごかった。

あぁ、せっかく着替えたのにまたびしょ濡れ、でもこれくらいなら着ているうちに乾くか。

―――そんなことよりも。


さっき、戸を開くと同時に『何か』が転がり込んできた。

その『何か』は今、私の背後にいる。


「さむい」


小さな声を聞いて、ビクッとなってから恐る恐る振り返る。

そしてそのまま―――ポカンとなった。

羊だ。

小さい羊がいる。

でも子羊じゃない、頭に小さな角が生えている。


「さ、むい、よ」


しゃべっ、た?

え、今、喋ったよね?

羊って喋らないはずだけど、まさか魔物?

じっとりと雨を吸い込んだ体毛からポタポタと雫を滴らせて、しかもその毛はゴミだらけで、ブルブル震えながらどうにか立っているって雰囲気。

村で飼っている大人の羊の半分くらいの大きさかな。

小さな羊はクシュッとくしゃみをした。

よく見ればあちこち傷だらけで血も出ている、この仔一体何処から迷い込んできたんだろう。


「ね、ねえ、君」


喋るなら、会話もできるはず。

淡い期待をかけてみたけれど、羊は答えず、膝を折って座ろうとした直後に「いたい!」と悲鳴を上げた。


「いたいぃ、いたいよぅ、さむいよぉ、いたいぃ、さむいぃッ」

「ちょ、ちょっと待って、怪我しているの、だから痛いんだよ、すぐ手当を」


そう呼びかけて引き留めても、羊は聞こえていないのか「いたい、いたい」と言いつつ、崩れ落ちるようにその場にうずくまろうとしている。

限界なんだ。

怪我からポタポタと血が垂れて、目からもポロポロと涙をこぼして―――もう見ていられない、急いで駆け寄り体を支えた。

服に雨水が染み込んでくる。うえぇ、でも仕方ない、それにこの子すごく体が冷たくて、触れてみてはっきり分かった。見た目よりずっと酷い怪我をしている。


「取りあえず暖炉の前まで行こう、歩ける?」

「いたいよぉ、いたいぃ」


ダメだ、無理だ。

まず先に怪我を治さないと。

私にはそれができる。

でも、母さんやリューから、あまり使っちゃいけないって止められている。


「たすけてぇ」


―――迷ってなんかいられない。


「頑張れ」


小さな羊をぎゅっと抱きしめながら、祈るような想いで呪文を唱える。


「パナーシア」


腕の中でふわっと光が溢れだし、羊の体を包み込むと、ゆっくり震えが収まっていく。

治癒の魔法。

これで体の怪我だけは全部癒えたはず。


「大丈夫?」


改めて顔を覗き込むと、伏せていた長い睫毛の下から、晴れた青空みたいな色の瞳がじっと私を見つめ返してきた。

わぁ、綺麗。

驚いて息を呑んだら、小さな羊は「うん」と頷いて、目をしょぼしょぼと瞬かせた。


「それじゃこのまま、ゆっくり歩いて、暖炉の前に行くよ、君の体を乾かさないと」


羊は私と一緒にふらふら歩きだす。

魔法で傷は治せても、消耗した体力までは戻らないから、きっとまだ辛いだろう。もしかしたらお腹も空いているかもしれない。

暖炉の手前に敷いてある厚手の敷物の上に座らせて、急いでタオルとバケツを持ってくると、体毛の水気を吸い取って絞り、目につくゴミも取り除いた。

ふぅ、これで少しはマシになったかな。

羊もやっと落ち着いた様子で、鼻をスンスンと鳴らしながらぼんやりしている。


「ねえ、君」


また顔を覗き込んだ。

わぁ、やっぱり、すごく綺麗な目の色だ。まるでガラス玉みたい。この灰色の毛だって、洗えば白くなるだろう。

純白の、青く澄んだ目をした羊。やっぱり普通じゃない、そもそも喋る地点で羊じゃない。それなら、この仔は一体何だろう。


「だぁれ?」


あどけない喋り方で訊いてくる。まだ子供なのかな?

首を傾げる仕草も何となく拙い感じがする。


「私はハルだよ」

「はる」


会話は成立するみたい。よし。


「君の名前は?」

「わかんない」


そうか、分からないのか。

もしかしたら名前がない可能性もあるよね。


「それじゃ、家はどこ? 君はどこから来たの?」

「わかんない」

「だったら飼い主、じゃなくて、家族、お父さんやお母さんは?」

「わかんない」

「兄弟はいる?」

「いる」

「どこに?」

「うえ」


うえ?

うーん、前言撤回。話はできるけれど、会話が成り立たない。

困った。

溜息交じりに肩を落すと、きゅるるっとお腹の鳴る音がした。

私じゃないから、この仔のお腹の音だ。


「お腹空いているの?」

「わかんない」


自分の感覚や感情を自覚できないくらい小さい仔なのかなあ。

まあいいや、取りあえずご飯を食べさせよう。

羊なら牧草だけど、家に置いてないし、この仔は多分羊じゃないから、さっき作ったスープでいいか。

立ち上がって台所へ向かう。

まだ湿ったままの服が気になるけれど、着替えになんて行けるわけがない。

台所からは暖炉の前が見えるからひとまず安心。今のところ身の危険は感じなくても、あの仔の得体が知れないことに変わりないし、気は抜けないよ。

鍋でクツクツと煮えているスープを皿に注いだ。

ついでに私の分も、スープの匂いを嗅いだら急にお腹が減ってきた。

皿二つとスプーンをトレーに乗せて暖炉の前まで運ぶ。

羊は目を瞑ってじっとしている。


「ほら、君、起きて」


呼ぶと、青空色の瞳をゆっくり覗かせて、鼻をヒクヒクさせながら「なぁに?」って私を見上げる。


「ミルク入りスープ、チーズと野菜とお肉たっぷり、食べられそう?」

「わかんない」


食べさせてみるか。

まずはスープだけ飲ませよう。スプーンで掬って口元へ近付けてみるけれど、羊は口を開こうとしない。


「やっぱり食べられない?」

「わかんない」


あ、そうか。

スプーンを使う食べ方が分からないんだ。


「こうするんだよ」


お手本のつもりで、スプーンを口に入れて、スープをごくんと飲み込んでみせた。


「分かった?」

「うん」


よし。

それじゃ、改めて。

もう一度スープを掬って口元へ運ぶと、今度は素直に口を開いてパクッとスプーンを咥えた。

ゆっくり引き抜いた後で、モニャモニャ口を動かして、ゴクン、と飲み込む音が聞こえてくる。


「食べたね、おいしい?」

「おいし?」

「もっと食べたい?」

「おいし! たべる!」


元気よく答えて、今度は自分からパカッと口を開く。

よかった、これなら大丈夫かも。


「それじゃ、今度は芋だよ」

「いも?」

「このままだと飲み込めないから、今度はこうしてモグモグ噛んでから飲み込むの、見ていて?」


また先に私が食べてみせて、羊にも食べさせると、ちゃんとモグモグしてからゴクンと飲み込んだ。


「いも、おいし!」


お利口だな。

理解が早いし覚えもいい。小さな子の世話を焼いているような感覚だけど、実際の子守りより全然やり易い。

子守りを任された時、大抵ティーネに助けてもらうんだよね。ティーネは子供の面倒を見るのが上手いから。名誉のために言っておくと、私も一応それなりにやれていると思う。

しかしよく食べるなあ。

口に入れた傍から噛んで飲み込んで、すぐ「もっと!」ってまた口を開けるから、私が食べる暇がないよ。

結局、羊はスープを五回もおかわりして、ふうと満足げに息を吐きながらコロンと横に転がった。

私もようやく食べられたけれど、置きっぱなしだったスープはすっかり冷たくなっていたから、もう一度温め直さなくちゃならなかった。


「はるぅ、スープ、おいしぃ」

「気に入ったの?」

「んー、わかんない」


目を細くしながら、ずっと口の周りをペロペロ舐めている。

気に入ったんだな。

肉も普通に食べたから、やっぱり羊じゃなさそう。だけど鶏肉を使ってよかった、羊肉は流石に食べさせられないもんね。


「っくしゅ!」


またくしゃみしてる。

毛が乾ききっていないのかもしれない、タオルをかけておこう。

今日一日で随分洗い物が出ちゃったな。明日は晴れるだろうから、頑張って洗濯物を片付けないと。

本当に妙なことになった。

台所で食器を洗いながら羊の様子を窺うと、うつらうつら舟を漕ぎ始めている。

流石にもう追い出せないよね。

覚悟を決めて、今夜は一緒に寝るしかないか。

明日になったらティーネが来てくれるだろうし、羊をどうすればいいか相談に乗ってもらおう。

リューやロゼが帰ってくるまでに考えないと。

―――それから、今夜は『お守り』を用意しよう。

洗い物が終わって、拭いた食器を棚に戻してから、寝室へ毛布を取りに行く。

羊を眺められる少し離れた場所にクッションをかき集め、腰を下ろして毛布を被った。

寒いけど、暖炉の前はあの子に譲ろう。こんな場所で寝たら明日は体中ギシギシになっていそう、はぁ。


「よし」


携帯用の香炉を取り出す。

いつも通り熱石に魔力を込めて熱くしてから、香炉の底部へ入れて、その上の容器にオーダー用のオイルを数滴落して少しずつ蒸発させていく。

フワンと広がり始める香りに、魔力を込めた『言葉』を乗せた。


「フルーベリーソ、おいで、おいで、あの羊が私の知らない間に何かしようとしたら、すぐに教えて」


呼び寄せられて現れたキラキラ輝く光が、私の周りをくるくるっと数回まわって消える。

これで大丈夫。

保険はかけたし、私も寝よう。

甘い花の香りに包まれながら、目を瞑ってすうっと息を吸い込めば、トロトロと眠りが訪れる。

明日まで何事もなく過ごせますように。

そんなことを考えつつ、おやすみなさいと呟いて、ゆっくり意識を手放した。

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