第54話 二人の距離

 展示の始まりは、あやかしを描き続けた漫画家の生い立ちとあやかしとの関わりを紹介するもの。次の展示室には、精緻なタッチで描かれた、あやかしをモデルにした絵画の数々が飾られていた。


「これ一枚仕上げるのに、何年かかったんでしょうね」


 あまりの描き込みの細かさに、佐和子はまじまじと絵を見つめて言った。


「本当だねえ。想像でここまで描けるのは本当にすごいと思うよ」


「え、実際に見たものを描いたわけじゃないんですか?」


 永徳の方を振り返って聞き返せば、彼はにこりと微笑んで答える。


「まあ、本物に出会ったことはあると思うよ。だけど、じっくり話し込む機会とかはなかっただろうね。フォルムは近いけど、細かい部分は違う。彼自身が作り出したあやかしの絵もあるね」


「へええ」


「最近のあやかしものの創作のほとんどは、本物に出会って描かれたものは少ないように思う。きっと過去の書物に描かれたものとか、すでに描かれた過去の作品を参考にしながら作られているんだろう」


 佐和子が生まれた頃には当たり前に存在したあやかしをモチーフにした作品たち。しかしほとんどは本物に出会ったことがない人が描いたもの。その事実を知って、なんだか不思議な気持ちになる。


「私は実際に出会って、しかも仕事をさせていただいているのに」


「そういう意味では葵さんは、とっても貴重な経験をしていることになるね。その経験を、楽しんでくれているといいのだけど」


「楽しんでますよ、とっても」


 決して辛い思いはしていないと、そう伝えたくて。永徳の方を見上げれば、話しているうちに距離が近付いていたことに気がつく。美術館という場所柄、声を顰めて話していたことで、知らず知らずのうちに近づいてしまっていたようだ。さっと体を話せば、彼がショックな表情をしたのを佐和子は認める。


「ごめん、どうも俺は、距離の取り方が上手くないみたいだ。難しいね、葵さんに不快な思いはさせたくないのに」


 まるで叱られた子犬のように萎れた様子の永徳を見て、佐和子は自分がとてつもなく申し訳なことをしてしまった気分になる。


「いえ、そんな」


「ごめんね、少し離れて歩くことにするよ」


 それからしばらくお互い無言のままでいた。コミュニケーション下手な佐和子は、こういう時にどう気まずさを誤魔化したら良いのかわからない。


 永徳には感謝している。素敵な職場に引き入れてくれて。自分を取り戻す機会をくれて。

 軽い調子でされる嫁候補扱いも、初めは困っていたが、急に離れられると物足りない気分にもなったり。もう少し仕事の外で、時と場所を共有してみたいと思えるようになったりもして。


 ––––こういう気持ちは、恋と呼べるのかしら。


 甘酸っぱい経験から遠ざかっていたために、色恋ごとにだいぶ鈍くなってしまった気がする。いや、もしかしたらこれまで本当の意味での「恋」をしたことがなかったのかもしれない。


 ––––でもこのまま、距離が離れてしまって、この人と気まずくなってしまうのもやだなあ。


 つれない態度を取り続けていたら、いつかあやかしの花嫁が突然永徳の横に隣に立っているかもしれない。具体的に想像してみれば、とても苦い気持ちになった。


 展示室の出口に辿り着いたところで、佐和子は足を止める。


「おや、どうしたんだい?」


「笹野屋さん、私の気持ちを聞いてくださいますか」


「葵さんの……気持ち?」


 鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、永徳はその場に固まる。

 彼の耳はどんどん赤くなり、落ち着きなく自分の鼻を触り、下を向く。

 美術館のガラス戸が開いて、湿り気を帯びた風が、建物の中を抜ける。


「私口下手なので、上手く言えるかわからないんですが」


「いや、大丈夫、ちゃんと聞くから」


 佐和子は意を決して、まっすぐと永徳を見つめた。

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