薔薇姫の氷が溶けたなら
あんず
氷の薔薇姫side
隣国との小競り合いを鎮めるため、北の国境へ遠征に出ていた皇太子率いる騎士達が隣国軍を退け、皇都に凱旋する。多少の怪我はあるものの、重傷者も死者も出ていないという。
皇都正門には無事に帰還した父親や夫、息子を出迎えるため、騎士の家族が集まっていた。
家族の無事を喜び、集まった者達のざわめきが、皇太子を先頭に騎士を乗せた騎馬隊が正門を潜る姿が目に入ると、大歓声に変わる。
集まった者達は皆、皇太子を褒め称え、家族の元へと駆け寄っていく。
そんな中、一人の令嬢が皇太子の元へと歩み出る。今回の遠征での皇太子の活躍を褒め称え、美しいカーテシーを披露する。
『氷の薔薇姫』
艶やかなプラチナブロンドの髪、滑らかに輝く白磁の肌、すらりと長い手足、美しく凛とした佇まい。その姿を皆は淑女の鑑だと褒め称える。
しかし、その顔に感情が乗る事はなく、笑顔を見た者はいないことから"氷の薔薇姫"と呼ばれるようになった。
皇太子の無事を喜ぶ言葉を伝えている今も、無表情で淡々としている。容姿の美しさと相俟って女神を模した人形の様だ。皆が氷の薔薇姫の美しさに見惚れている。
皇太子もまた淡々と言葉を返し、挨拶を終えた氷の薔薇姫が顔を上げた。それは皇太子と婚約者のよく見慣れたやり取り。
一拍置いて次の瞬間、今まで見た事のない光景に見る者全てが息を飲んだ。
氷の薔薇姫が父親と兄を見つけて、笑みを浮かべたのだ。
嬉しそうに二人の元へ駆け寄り、お帰りなさいと言い微笑む。
まさに花が咲く様な笑みに、皆の目が奪われた。集まっていた貴族や皇都民だけでなく、凱旋した騎士達も初めて目にする氷の薔薇姫の笑顔に釘づけだった。
微笑みかけられた二人も驚き、しばし見惚れていたが、いつにない娘の無防備な様子と周りの視線に我にかえり、急いで屋敷に連れ帰った。
屋敷に着いてから聞いた遠征中の出来事に、父親も兄も驚き、暫し言葉を失った。
娘は、遠征中に招待されたお茶会で毒を盛られ、一命は取り留めたものの記憶喪失になってしまったと言うではないか。しかも警備が厳重なはずの、皇妃主催のお茶会で。
違和感を感じて少量しか口にしなかった事と素早い処置のおかげで、数日寝込んだものの意識を取り戻した。安心したものの、母親と対面した際にちょっとした違和感があった。氷の薔薇姫の仮面が崩れたのだ。
毒を盛られ、昏睡から目覚めた直後だった事から、母親の顔を見て安堵したためだとも考えられた。しかしその後も、母親だけでなく屋敷の者と接する際、表情豊かでよく笑顔を見せていた。そんな彼女を氷の様だとは誰も思わないだろう。
まるで皇太子の婚約者に選ばれる前に戻ったようだ、と皆が感じた。
そこで、記憶に問題がないかを調べてみると、皇室に関して記憶の欠落がある事が分かった。一般的に知られている事柄については問題がない。自身が皇太子の婚約者である事、皇太子妃教育での事が何も無かったかの様に記憶から消えていたのだ。
そう、氷の様になったふりをするようになった理由を忘れていたのだ。
そもそも、皇太子との婚約自体、望んでいた事ではなかった。むしろ何とか辞退出来ないかと動いていた程だ。
建前は皇太子が見初めたから。本音は、皇室が我がシトラス公爵家との繋がりを欲しての事。
シトラス公爵家は一人娘だったため、遠戚から男児を養子にしてゆくゆくは娘の婿にと育てていた。義理とはいえ兄妹として育った二人は仲も良く、このまま婚約させようと喜んでいた矢先の、勅令による皇太子との婚約。
皇妃の実家であるマンデリン公爵家に権力が集まらない様に、との皇帝の思惑を含む婚約とあって、一人娘が危険な目に会う可能性を危惧して誰も喜べずにいた。
そんな中、皇太子との婚約という勅令が出た三ヶ月後、今度は皇太子妃教育のため城へ招聘された。しかも三ヶ月間、公爵家から離れて城で生活しろと言う。登城するのは娘一人だけで、侍女や護衛の随伴は許されない。
皇妃の思惑が絡んでいる事は明らかだった。しかし、皇太子妃教育には皇室から漏れてはならない内容も含まれるためと言われては、臣下として反論出来ずにいた。
そして皇太子妃教育が終わり、公爵家へと戻った娘からは笑顔が失われ、表情は凍りついていた。よく笑い妖精の様だと思われた少女は、もう何処にも居なかった。
だが、娘は笑えなくなったのではなく、意図的に笑わなくなっていたのだ。
城で過ごした三ヶ月の間、皇太子の「私以外に笑顔を見せるな」と言う発言をきっかけに、皇妃は娘が笑い掛けた者を即解雇し始めた。親しく話した訳でもなく、お礼の言葉を掛けただけの者も次の日には姿を見なくなった。
常に監視でもされているのか、笑顔を見せた覚えのない者もいた程だ。そのため、付け入られる隙を与えぬよう無表情の仮面を被る事にしたと言う。
『皇太子の命令を従順に守るお人形』になったと思わせるために。
皇妃に権力を集めない様にと画策するも、自身では何も変えられない皇帝。それに味をしめたのか、理不尽な振る舞いがエスカレートする皇妃。自身の発言を利用して理不尽な行いをする母親を、諫めるでもなく我関せずな態度の皇太子。
「この国の未来は大丈夫なのか?今の皇室に忠義を尽くす価値があるのか?」
幼い娘に問われ、両親は皇室を見限る事に決めた。
これ程の不信感を抱かせる皇室に忠義を尽くして何になるのか。娘の幸せを諦め、皇室に縛り付ける価値などありはしない。
そこで妻の実家である西の隣国、メルバ公爵家に事情を話し、協力を求めた。現当主であるメルバ公爵は妻の兄で、男児しか子がいない事もあってか姪である娘を可愛がってくれている。娘に対する皇室の行いを聞くや、出来るだけの事をすると言ってくれた。
メルバ公爵は隣国の宰相を務めている。帝国の内情を知る事が出来、力を削ぐ事も出来るという利害関係の一致という面もあるが、娘を本気で助けようと思ってくれている。
周囲に気づかれぬ様、少しずつ国を離れる準備を進める。
まずは隣国に商会を立ち上げる。表向きはメルバ公爵家が執り仕切る商会。実際はシトラス公爵家が運営し、隣国で活動する拠点である。
帝国ではクズ石とされる、シトラス公爵領の鉱山から採れる原石を隣国に売り、小麦などの穀物を買う。隣国の商会でクズ石を磨き上げ、宝飾品に加工して何倍もの値段で帝国の貴族に売りつける。こうして隣国での資金を増やしていった。
並行して隣国から買い付けた小麦を帝国内で安く流通させ、少しずつ輸入に頼る様に仕向けた。これは国を離れる準備とは関係ないが、我々が国を離れるまでは小麦が安く手に入るのだ。国民を思っての行動として見る者はいても、見捨てようとしているとは思わないだろう。
悪いのは皇室であって、国民に罪はない。だが、娘の幸せを犠牲にしてまで尽くせるほど善人ではない。せめて帝国を離れるまでは、国民の益になる事をしようとは思う。これも自身の罪悪感を薄めるためでしかないが。
シトラス公爵家の商会で働く者達も、信頼出来る優秀な者を少しずつ隣国の商会へと送った。シトラス公爵家の使用人も同様に。不信に思われぬよう少しずつ。
こうして着々と準備が整い、後は爵位を返還する口実を作るだけとなった。商会の新事業失敗により多額の負債を抱え、商会や邸宅を売却する必要があるとするか。失敗に他の貴族を巻き込んだなら、他家に対する責任がとか何とか上手いこと言い包められるか?
どうすれば娘の婚約を白紙に戻せるのか。
そうやって確実に国から離れられる口実を考えていた矢先の出来事だった。
皇妃主催のお茶会で起きた毒殺未遂。
このまま皇太子の婚約者であり続けられる訳がない。娘の療養に専念する為、一線を退くこと。娘の体調が優れぬ今、次代を繋ぐ事は難しいとして、爵位を返還させて頂きたいと申し出る事にした。
非は皇妃にあるのだ。断れる訳がない。
もっとも、皇妃にとっては目論見通りの展開であろう。望んだ様な未来が手に入るかは別として。
皇太子が婚約破棄を渋ったのは予想外だったが、嫁ぐ予定先で毒を盛られたのだ。娘の事を想うなら了承して欲しいとして、最後には納得させた。
これ迄の皇太子の態度からしてあり得ないと思っていたが、皇太子が娘を見初めたという婚約理由は案外事実だったのかもしれない。それならなぜ、皇妃から娘を守ってくれなかったのか。もう終わった事だから関係ないが、許せはしない。
婚約破棄と爵位返還についての手続きも終わり、必要な書類は全て揃った。
シトラス公爵家の商会は、マンデリン公爵家が引き継ぐ事になった。商会名義の契約はマンデリン公爵家に名義変更する書類を交わす。隣国との売買はシトラス公爵家名義の契約だから対象外。今まで通りとは行かないだろう。運営に行き詰まるだろうが、知った事ではない。
こうして漸く、一家揃って隣国へと渡る事が出来た。メルバ公爵から子爵位を譲り受け、隣国での生活がスタートした。
表向きメルバ公爵家が執り仕切っていた商会も引き継いだ。原石の買い付け先はシトラス公爵家から隣国内に変更したが、加工した物を帝国貴族に高く売るのは変わらない。
クズ石の売却先も穀物の買い付け先もなくなり、帝国に残ったのは高い宝飾品の買い付けルートのみ。穀物の買い付け先は他にもあるだろうが、今までよりかなり値が上がるだろう。
シトラス公爵家名義で行っていた輸出も、公爵家が無くなったことで停止している。国外から外貨を得る手段が無くなったにも関わらず、宝飾品や穀物を国外から買い付けているのだ。いずれ帝国の財政は破綻するだろう。気付いたときには手遅れだろうが。
隣国に渡ってから三年後、かつて『氷の薔薇姫』と呼ばれていた令嬢は、子爵位を継いだ兄と結婚し、第一子を身籠もっていた。
隣国に渡ってから婚約した二人は、結婚する前から仲睦まじい姿を至る所で見せており、結婚してからは互いに思い合う理想の夫婦だと周りには憧れる者が多くいた。
まるで"氷の仮面"を被っていた時間を取り戻すかのように、夫は常に妻を笑顔にしようと溺愛し、妻は夫に蕩けるような笑みを向けた。
そこには笑顔が溢れ、周りが見れば氷も一瞬で蒸発するのではないかと思うほど熱く、幸せに満ちていた。
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