第2話 聖女ヘレーナの企み

 聖女ヘレーナは、美しい女性だった。

 淡いピンクブロンドの柔らかな巻き毛に、緑色の瞳。聖女としての力は国で一番とも言われていて、その容姿から女神と呼ばれることもあった。

「まぁ……やはり、許可は下りなかったのですね」

 悲しげに瞳を伏せて言うと、彼の護衛騎士であるエドヴァルドは眉を下げて頷いた。

「申し訳ございません」

「残念ですわ、わたくしは他の聖女様の負担を少しでも軽く出来ればと思って提案しましたのに……王女殿下には伝わらなかったのですね」

「あ、いえ、それは……王子殿下も同じ意見であると仰っていて。お二方とも、ヘレーナ様にかかる負担を心配されてのことです」

「わたくしのことは良いのです。他の方よりも強い力があるのですから、多少のことで倒れることはありません。……王女殿下はただ、あなたが長い間自分のもとを離れてしまうのが嫌なだけなのでしょう」

 そうなのだろうか、と、エドヴァルドは黙り込む。だとしたらその気持ちはとても嬉しいがーー自分に、その価値があるとは思えない。エドヴァルドの自己評価は低く、最近ではアクセリナの想いも疑ってしまうくらいになっていた。

「エドヴァルド様は王女殿下のために力をつけたいと思っているのに、それも認めてくださらないなんて……」

 両手を合わせ、辛そうな表情を見せる。エドヴァルドは苦笑して、首を振った。

「アクセリナ様に非はありません。全てオレが至らないだけのことで……あの方の婚約者だと言うのに……」

 ヘレーナははっとして、エドヴァルドとの距離を詰めた。彼の瞳を見つめて、眉を下げた悲しげな表情のまま言う。

「婚約者。そうですわ、エドヴァルド様。きっとそれが、問題なのです。あなたが婚約者であることが」

「――それは、どういう……」

「婚約者という肩書きを持ってしまっているために、あなたは制限されてしまう。……だからいっそ、一度婚約を解消したらどうかと思うの」

「……え?! そ、それは、……でも……」

「アクセリナ様のためですわ。あなたももっと強くなりたいのでしょう? 一度婚約を解消して、そしてアクセリナ様に相応しい力を身に付けたらまたプロポーズしたら良いのです」

 ヘレーナの瞳には悪心など少しもないように見えた。心からエドヴァルドを応援しているのだというように、その手を握りしめて「ね?」と微笑みかける。

 エドヴァルドは目を泳がせ、すぐには返事が出来なかった。

 彼にとってアクセリナは愛するひとで、また誰よりも尊敬する女性であった。聖女ヘレーナのことも尊敬しているが、それ以上にアクセリナのことは素晴らしいひとであると思っている。その感情は崇拝にも近く、またその感情ゆえにエドヴァルドは自信を失っていた。

 自分が彼女の夫で良いのか。

 王女の、いつか国王になるというひとの隣に立っていいのか。

 もっと相応しい相手がいるのではないか、自分では力不足なのではないか……そんなふうに思ってしまう。

 アクセリナは自分を好いてくれているようだが、それは本当に自分と同じ感情なのだろうか。ただの同情である可能性は、本当にないのだろうか。

「あなたが自信を身に付けて……そうね、花束を持って、もう一度結婚を申し込むのはどうでしょう? とてもロマンティックで素敵だと思いません? 王女殿下もきっと喜ばれると思いますわ」

「そ……そうでしょうか。本当に、アクセリナ様が……」

「えぇ、きっと。アクセリナ様も、あなたが婚約者だから仕方なく留め置いているだけで、そうでなければ修行を積むことを否定する理由がありませんもの」

 婚約者だから、仕方なく。

 その言葉が心に突き刺さり、ずきりと痛んだ。

 婚約をしてしまったから。制約を結んでしまったから。だからアクセリナは、自分に気を遣わなければならない。

 それは彼女にとっての負担なのではないだろうか。彼女の足枷になってしまっているのではないか。

 それはエドヴァルドの、望むところではない。

「……二週間後、また報告に上がります。そのときにお話してみようと思います」

「えぇ、それがいいわ。それじゃあまた見回りに行きましょう。わたくし、エドヴァルド様がいるととても調子が良いの。見回りの範囲が広がっても、エドヴァルド様にはぜひ一緒にいてもらいたいわ」

 そう言いながらヘレーナは、エドヴァルドの腕に手を絡ませた。

 その姿はまるで、恋人関係か、それ以上の関係に見えた。決して聖女と護衛騎士の距離ではないが――護衛の誰一人、「聖女」のやることに口出しは出来なかった。

 エドヴァルドも同様に。

 自分の力不足に思い悩む彼は、周囲がどんな目で自分達を見ているか気付いていない。

 ヘレーナの瞳に企みがあることなど、思ってもみないのである。



「ヘレーナ様」

 エドヴァルドがヘレーナの傍を離れると、入れ替わるようにやってきたのは第二王子スヴェンであった。

 ヘレーナはすぐに深く頭を下げ、スヴェンに礼をする。

「卿には、何と」

「婚約解消を勧めてみましたわ」

 スヴェンの目が微かに見開かれる。ヘレーナは瞳を細めて、柔らかく微笑んだ。

「恐らくこれが最後の機会ですわ、王子殿下。これで誤った答えを選んでしまったら、それまでです」

「……そう、か……」

 聖女ヘレーナの行動には、理由があった。

 彼女は半年前に聖女の力が認められた元侯爵令嬢で、その力は現在のフリッグ国の聖女の中で抜きん出ていた。彼女は国を愛するがゆえに、自らの力を国のために揮えることを喜びとしており、国を守る存在である王族たちにも尊敬の念を抱いていた。

 王女アクセリナに対しても然り、である。

 そんな彼女がなぜ、相思相愛の二人の仲を裂くような真似をしているのか。

「スヴェン王子殿下。あなたももうとっくに察しておられますでしょう? 今の彼に、王配たる器はないと……」

 きっかけは、姉アクセリナの結婚が延期になったことだった。

 婚約者として紹介されたエドヴァルドは決して頼りがいがあるようには見えなかったが、婚約者として立つうちにじきに自覚を持つだろうと思っていた。何よりあの気の強いアクセリナが心から愛した相手である、いずれ彼女の隣に並ぶに相応しい存在となると信じていた。

 だがどれほど時間が経っても、エドヴァルドは一向に自信を身に付けず、劣等感ばかりが大きくなっていた。彼は決して弱くはない、頭も悪くはない。公爵子息としての振る舞いも良く、人からも好かれている。だというのに彼は、ずっと自分に自信を持てないでいる。不安を抱いたまま迷いのある心で、アクセリナの隣に並ぶのに躊躇していた。

 これが例えば、アクセリナの方がエドヴァルドの元へ嫁ぐというのなら、何ら問題はなかったのかもしれない。だがアクセリナは国王になることを目指しており、エドヴァルドもそれを理解して婚約者となったはずだった。

 それが、一年前の結婚式の延期。

 アクセリナの落ち込みようは、見られたものではなかった。もちろん人前ではいつものように振る舞っていたが、夜中部屋で一人声を殺して泣いていたのを知っている。アクセリナという人間を良く知る兄弟にとって、それは衝撃にも近い感覚だった。

 それからスヴェンの中に疑問が湧いた。エドヴァルドは本当に、アクセリナの伴侶となるに相応しい男なのか、と。

 確かに彼は、アクセリナを愛している。愛しているがゆえに、自分の力不足を感じてしまっているのだろう。

 だけれど、そのままでいい訳がない。いつまでもずるずると、結婚を先延ばしにすることも間違っている。そもそもアクセリナを本当に支える気があるのなら、たとえ未熟でも腹をくくる必要があるのではないか。

 そう思うのは、スヴェンだけではなかった。

 エドヴァルドと行動をともにするようになったヘレーナもまた、彼の態度に疑問を抱いていたのだ。

「わたくしはこの国が好きですから。あの方が王配になるのだとしたら、今は不安しかありません。自信がない、未熟だと、一体いつまで言い続けているのでしょうか。その自信はいつになったら、つくのでしょうか?」

「全くその通りだ。……俺は何度もそのことを卿に伝えている。姉をいつまで待たせておくつもりだとも言った。だがずっと、もう少し、あと少しと言い続けて……本当に結婚する気があるのかすら、疑わしく思えてくる」

「わたくしの行動については、王女殿下に報告されているのでしょう? 王女殿下は、何と?」

「……噂は噂に過ぎない、と。まだ彼を信じているとのことだ」

「まぁ……それは、素晴らしい愛、ですわね……」

 決して本心ではない言葉を、ヘレーナは漏らす。

 彼女は今あえて、エドヴァルドに好意を持っているふりをしていた。

 これで心揺さぶられるようでは、王配には決して相応しくない。そしてアクセリナもまた、国王にはなれないだろう。

 悪役を買って出たヘレーナを最初は止めたスヴェンであったが、彼女の意志は堅く、国王陛下にも許可を得た上でいわゆるハニートラップを仕掛けるに至った。スヴェンたちの父である国王もやはり、エドヴァルドに思うところがあるのだろう。

 今まで我儘を言うこと無く、王族として厳しい教育にも耐えてきた第一王女の初めての恋。それを叶えてやりたい親心はあるのだろうが、現実は決して甘くはない。今のエドヴァルドでは確実に、アクセリナの弱点となってしまう。

「だが、もし……もしエドヴァルド卿がヘレーナ様の言葉を鵜呑みにして姉さんに婚約解消を求めたら、流石に姉さんも心を決めると思う」

「そうでなくては困りますわ。……出来れば、わたくしの言葉など聞かなかったことにすることがハッピーエンドへの道なのですけれど」

 本当に、と、スヴェンも思う。

 このやり方はアクセリナの心を酷く傷つけてしまうだろう。

 だがエドヴァルドを深く想っているアクセリナは、ギリギリまで彼を信じたいと思っている。彼がどれだけ優柔不断でも、いつか……と、期待を抱いて。

(ヘレーナ様も言っていたが、そのいつか、は、一体いつになるんだ?)

 彼はいつまで、姉を待たせ続けるのだろうか。いつまで迷い続けるのだろうか。

 そんな男がこれから先、王配として姉の隣に立ち続けることが出来るのだろうか。

 

 姉の幸せを願いたいとは思う。だが自分たちは王族だ。

 何よりアクセリナは国王になる夢を持っている。けれど今、たった一人の男のために、その夢が壊れてしまう可能性だってあるのだ。

「スヴェン王子殿下。結果がどうあれ、わたくしはお役目を全ういたします。王女殿下には恨まれてしまいますけれど、いずれそのお詫びもさせていただきたく」

「あぁ。……悪いな、損な役回りをさせてしまって」

「いいえ、これも国のため。恋愛に振り回されるような王では、この国が滅んでしまいますもの」

 これからのエドヴァルドの行動で未来が変わるのは本人だけではなく、アクセリナもだ。

 もし婚約解消と言うことになれば、彼女は一体どうするのか。

 願わくば、そんな未来がなければいい。その考えが甘いことを理解しながらもスヴェンは、思わずにいられなかった。

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