10 堅物近衛騎士は恋心を明かさない


 そもそも、一年前の猟遊会までフェリクスはリルジェシカの存在すらろくに認識していなかったのだ。


 変わり者の男爵令嬢がいると貴族達の噂で聞いた程度で、それが誰かなど、気にしたこともなかった。


 けれど、猟遊会でセレシェーヌが窮地に陥った際、誰ひとりとして動けなかった中、颯爽さっそうと駆け寄り、後で投げつけられるだろう貴族達の嘲弄ちょうろうなど度外視して己の靴をセレシェーヌに譲ったリルジェシカの姿はまるで、そこだけ光が差しているかのように崇高で……。


 フェリクスの心に、鮮烈な印象を刻みつけた。


 だが、セレシェーヌがどうしても礼を言いたいからと探し当てたリルジェシカは、まるで小動物のようにおどおどしていて、猟遊会とは別人かと疑うほどだった。


 フェリクスに連れられてきたリルジェシカに、セレシェーヌは猟遊会の礼を言い、次いで、譲られた靴がとても素晴らしく、いったいどこの職人に作らせたのかと聞いた瞬間、リルジェシカが豹変ひょうへんした。


「本当ですか!? その靴、私が作ったんですっ!」


 頬を上気させ、瞳を輝かせて話すリルジェシカは、まるで一気に花が咲いたようなまばゆさで。


 ふつうなら、次期女王とお近づきになれれば、親兄弟の立身出世のために取り入ろうとするだろうに、セレシェーヌに靴作りを依頼されたリルジェシカは、俗な考えなど思い浮かびもせず、ただただ靴作りに打ち込んでいる様子で。


 リルジェシカがセレシェーヌのための靴を持って王城へ来る機会は、いつしかフェリクスにとって何よりも心待ちな時間となっていた。


『できれば、オーランド様ではなく、フェリクスと呼んでもらえると嬉しいな。ほら、王城にはわたしだけでなく兄上も勤めているから』


 兄を口実にして、初めてリルジェシカに「フ、フェリクス様」と呼ばれた時、どれほど胸が高鳴ったのか、リルジェシカ本人は知らぬだろう。


 少しずつ、他愛のない話もしてくれるようになり、打ち解けた笑顔を見せてくれるようになった矢先に――。


 リルジェシカとディプトン子爵令息との婚約が決まったのだ。


 あの時ほど、己の行動の遅さを悔やんだことはない。


 なぜ、もっと早くリルジェシカに想いを告げておかなかったのだと。


 男女の機微にうとそうなリルジェシカに遠慮して、見守っている場合ではなかった。もっと早く、オーランド伯爵家からマレット男爵に話を通しておくべきだった。


 貴族達の噂とは裏腹に、実際のリルジェシカは純真で愛らしくて、魅せられずにはいられない可憐な少女なのだから。


 だが、いくら悔やんでも後の祭り。


 婚約者のいるリルジェシカに想いを告げても困らせるだけ。自分にできることは、ただ、遠くからリルジェシカの幸せを祈ることだけだと……。


 心の内に秘めた想いを口にしたことなど、決してないのに。


「セ、セレシェーヌ殿下! わたしは……っ!」


「早くリルジェシカ嬢が気づいてくれるといいわね?」


「いいえ! そのようなこと!」


 セレシェーヌの言葉に、きっぱりとかぶりを振る。


「わたしはすぐにリルジェシカ嬢とどうこうなりたいとは考えておりません! 婚約を破棄されてすぐ次の話が舞い込めば、リルジェシカ嬢によからぬ噂が立ちましょう。それは、わたしの望むところではありません」


 社交界でのリルジェシカの評判は、お世辞にもよいものとは言えない。それをフェリクスの行いによってさらに落とすなど、言語道断だ。


 もともと、諦めねばならないといましめていた想いだ。あと数か月待つ程度、何ということもない。


「それに、兄上がまだ婚約者を決められていないというのに、次男のわたしが順番を逆にするわけには……」


 次期伯爵家当主である兄は、今年で二十一歳になるフェリクスより二つ年上だが、いまだに婚約者を決めていない。


 王配である叔父・アルティス似の美男で、文官として出世している兄だが、それゆえに婚約の申し込みが引きも切らず、両親も兄も決めかねている状態らしい。


 フェリクス自身、己が女性によく秋波しゅうはを送られているのは知っている。


 だが、しょせんは爵位も継げぬ次男坊。相手が求めているのは、いっときの火遊びの相手としてか、婿養子むこようしとして望まれているか……。どちらにしろ、心に想う相手がいるフェリクスにとっては、正直なところ迷惑でしかない。


 本心から真面目に告げたというのに、なぜかセレシェーヌの面輪が、あたためられた蜂蜜のように緩くなる。


「あらあら、リルジェシカ嬢ったら、大切に想われているのねぇ。浮いた噂ひとつない堅物騎士をどうやってそこまで虜にしたのか、ぜひとも聞いてみたいわね」


「セレシェーヌ殿下! からかわないでくださいっ!」


 くふくふと楽しげに笑う主人に、思わず強い声を出す。


「聞くも何も、セレシェーヌ殿下も常に一緒にいらしたではありませんか」


 呆れ混じりに告げると、紫の目が見開かれた。


「あら? 今日はわざわざ工房まで行ったのでしょう? 今までもそんな風に二人で逢って思いを深めていたのではないの?」


「違いますよ!」


 とんでもない! と、ぶんぶんと大きくかぶりを振る。


「婚約者のいる令嬢と二人きりで逢うなんて、誤解を招きかねない行動をするわけがありません! セレシェーヌ殿下のもとへお連れする際に二人で並んで歩く程度のことは何度かありましたが……。今日を除いてリルジェシカ嬢に逢いに行ったことなど、一度としてありません! そもそも、今日工房を訪ねた理由も、心配だったこともありますが、靴を依頼しようと思いまして……」


「あなたったら本当に生真面目ねぇ」


 感心とも呆れともつかぬ声を洩らしたセレシェーヌが、不意に、


「そうよ! 靴の依頼よ!」


 とふたたび身を乗り出す。

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