5 靴職人令嬢、両親に婚約破棄を打ち明ける


 婚約破棄を言い渡されたことを、いつまでも両親に黙っているわけにはいかない。貴族の中で変わり者と噂され、年頃になっても縁談のえの字も出ない娘に婚約者ができたことを、誰よりも喜んでくれた二人なのだ。


 滅多に家から出ることのない母と違い、当主である父は他の貴族達とのつきあいもある。口さがない貴族から心無い言葉で娘の婚約破棄を知らされるよりも、リルジェシカ自身から事情を説明したほうがいいに決まっている。


 マレット男爵家は貧乏なので、住み込みの奉公人はいない。食事や洗濯、掃除をしてくれる通いの家政婦をひとり雇っているだけだ。


 翌朝、リルジェシカが作った小麦粥こむぎがゆだけが小さなテーブルに載る三人きりの朝食の席で、リルジェシカは意を決して両親に話しかけた。


「あのね、お父様。お母様。お話しておきたいことがあって……」


 リルジェシカの表情に感じるものがあったのだろう。リルジェシカの対面に並んで座っていた両親が、顔を見合わせたかと思うと、身を乗り出す。


「どうしたんだい? リルジェシカ。靴の材料で必要なものでもできたのかい? あまり高価なものは用意できないが、可愛い娘のためならしばらくの間、さらにおかずを減らしたって……っ!」


「それとも、セレシェーヌ殿下に何か失礼をしてしまって沈んでいるのかしら? 大丈夫よ、リルジェシカ。あなたは靴作りのことになると、ちょっと我を忘れてしまうところがあるけれど、あなたがとってもいい子だというのは、私達が知っていますからね。聡明なセレシェーヌ殿下も、きっとわかってくださるわ」


「違うの! そうじゃなくて……っ」


 靴作りを応援してくれる愛情深い両親の言葉に、リルジェシカはあわててぶんぶんとかぶりを振る。


「お父様! 簡単におかずを減らすなんておっしゃらないでください! これ以上減らしたら、お父様が栄養不足で倒れてしまうわ」


 体重をかけすぎれば、すぐに傾いてしまいそうなテーブルに置かれた皿は各自の前に一枚きりで、入っているのは安価な大麦の粥だ。


 昼食や夕食だって、薄いパンと野菜くずのスープだけなのだから、これ以上はいくら粗食に慣れていても身体を壊してしまう。


 セレシェーヌから靴の代金をもらっているとはいえ、借金まである男爵家の家計は火の車だ。


「そうじゃなくてね。その、えっと……」


 リルジェシカ自身は婚約が破棄になって、哀しむどころか喜んでいるくらいだが、年頃の娘に婚約者がいないことをずっと嘆き、ダブラスとの婚約を心から喜んでいた両親は、どれほど衝撃を受けることだろう。


 どう伝えれば少しでも両親の悲嘆をやわらげられるだろうかと、視線を落として言い淀んでいたリルジェシカは、ふいに優しい手に頭を撫でられた。


 驚いて顔を上げた拍子に、立ち上がって小さなテーブルに身を乗り出し、リルジェシカの頭を撫でていた父親と視線が合う。


 優しい笑みを浮かべた父が、もう一度、大きく娘の髪を撫でた。


「わたし達の可愛いリルジェシカ。何があろうと、わたし達はお前の味方だよ。お前が話したくないというのなら、無理に聞き出すつもりはない。お前が話してもいい気持ちになるまで、ゆっくり待とう」


 父の言葉に、母もまた笑顔で頷き、同意する。


「お父様、お母様……っ」


 両親の愛情深さに、目頭が熱くなる。そうだ。両親のためにも、リルジェシカの口からちゃんと話しておかなくては。


 心無い貴族達の噂で知ったら、二人がどれほど哀しむだろう。


 ぴんと背筋を伸ばしたリルジェシカは、椅子に座り直した父を真っ直ぐに見つめる。


「あのね、お父様。私、昨日、ダブラス様に婚約破棄を言い渡されたの」


 顔を強張らせ、息を吞んだ両親に、あわてて言を次ぐ。


「大丈夫! 私自身はこれっぽっちも傷ついていないから心配しないで! ただ、婚約を喜んでいたお父様とお母様に申し訳なくて……。それと……」


「ドルリー商会のことを気にしているのかい?」


 言い淀んだリルジェシカの心を読んだような言葉に、こくりと頷く。


 ドルリー商会はこの家の借り入れ相手だ。滞りがちな月々の返済を、裕福なディプトン子爵との婚約のおかげで大目に見てもらっていたのは否めない。


 婚約破棄を知れば、借金の取り立てが厳しくなるのは間違いないだろう。


「お前には苦労をかけてばかりですまないね。ただでさえ、靴の代金も家に入れてもらっているのに……。だが、心配はいらないよ。さすがに、いきなり借金をすべて返せなどという無体は言わないだろう」


「はい……」


 安心させるように微笑んで告げる父に、素直にこくりと頷く。頬に片手を当て、吐息したのは母だ。


「あなたが、ダブラス様との婚約を嫌がっていたなんて……。ごめんなさいね、気づいてあげられなくて。優しいあなたのことだもの。きっと、私達が喜んでいたから言い出せなかったのね」


「その……。ごめんなさい……っ」


 心を見抜いたような母の言葉に、リルジェシカはふるふるとかぶりを振って謝罪する。


「私にはもったいない婚約だとわかっていたの。でも……」


 ダブラスはいつも、リルジェシカの靴作りを馬鹿にしていた。貴族の令嬢が平民の職人の真似なんて、恥というものを知らないのか、と。


 そんな相手をどうして好きになれるだろう。


 娘が婚約者にそんなことを言われていると知れば、両親は心を痛めるだろう。だから、リルジェシカは決してダブラスに投げつけられた言葉を両親に告げなかった。


 リルジェシカにとっては、もう両親に隠し事をしなくていいということも、婚約破棄で嬉しいことのひとつだ。


「謝らないでリルジェシカ」


 母が包み込むような笑顔を向けてくれる。


「あなたがいい子だというのは、親である私達が、一番よく知っているもの。きっといつか、素敵な方が現れるわ。すぐには気持ちは切り替えられないだろうけれど……」


「あっ! その点は大丈夫! 靴作りに夢中になっていれば、嫌なことも全部忘れてしまうもの!」


 即答したリルジェシカに、両親がそろって吹き出す。


「リルジェシカは本当に靴作りが好きだな。この後も、レブト親方の工房に行くんだろう?」


「うんっ!」


「でも、あまり根を詰めないようにね。セレシェーヌ殿下のご依頼は、ひとまず終わったのでしょう?」


「うん。でも、もっともっと靴を作って、腕を磨きたいから……!」


 言いづらかったことを両親に話せて心が軽い。


 皿に残っていた粥をかきこむと、「じゃあ、工房に行ってきます!」とリルジェシカは勢いよく立ち上がった。


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