第2話 妻の異変と不安な夢

 その夜、オルガニウスは妻に添い寝を命じた。

 気が弱くなると彼は誰かの温もりと優しい声であやされることを求めた。


「そして王子様は幸せに過ごしました」


 アイシアが話すのは彼女の好きなおとぎ話だった。

 寝物語を聞かせるようにと、彼が命じたのだ。


 更には自分が眠るまで子守唄を歌い続けるように告げる。ここまで来ると大半の女性は呆れかえる。


 だが新妻は嫌な顔一つせずに鷹揚にうなずいた。


「私は絵本の読み聞かせも得意なんですよ」


 あまりに毒気なく言うもので、彼も「そうか」とつい素直にうなずいてしまう。

 そして、男女の営みすらもしないまま彼はアイシアに寝物語を促す。

 新婚初夜について彼はすっかり失念していた。


 彼女の声音はとても心地が良く、読み上げる物語も一切不幸な要素がない平和な話だった。オルガニウスは非常に気分よく瞼が重くなっていくのを感じていた。

 しかし、その穏やかな眠気は突然断ち切られる。

 

「地獄の業火に焼かれるがいい」


 突然そんな不穏な囁きが耳を刺す。

 あまりに唐突で、オルガニウスは目をしばたたかせる。

 ここにいるのは自分と妻のみ。

 彼女がそれを口にした可能性が高い。

 物語の一節だろうか。

 彼は動揺を悟られないように唾を飲み込む。


「妻に寝物語だ? 子守唄を歌え? 幼児か、この男は。公爵ともあろう男が情けない。あぁ見苦しい、おぞましい。気色が悪い。死ね」


 その声は普段の妻とは思えぬほどにあまりに冷たい。まるで地獄の底から響いてくるような恐ろしげな声音だ。彼は腹を立てるのも忘れてただ慄然とした。


「どうかしましたか? 旦那様」


 アイシアは何事もないように微笑みを浮かべる。


「あ、あ……いや」


 普段の彼ならば普通にその呟きを咎めただろう。

 たとえ何かの聞き違いであっても延々と責め立てたはずだ。

 しかし、彼女の美しい微笑みと柔らかい声音にどこか気圧される。


 何かの間違いかもしれない。

 自分の耳を疑うことになった。


「この物語は著者の幼い頃の体験を反映していると思いました。特に主人公が無意識的に避けている行為について感じるところがあります。忌避すべき経験と自然に対する畏れ。複雑な表現色彩と繊細な言葉選びが見事だと思います」


 アイシアはオルガニウスが選んだ小説の感想や講釈を述べている。

 彼が三日かけて読んだ本を一日で読むよう指示した。

 話に耳を傾けている限り、彼女の地頭は悪くないと感じる。

 普段の態度はわざと惚けているのだろうかと疑う気持ちが湧く。


 彼は頭の良い女に見下されることはあまり好まない。

 一方で頭の悪い女は嫌う。

 要は自分が馬鹿にされない程度の知性という塩梅を求める。

 あらゆる点で粘着気味に性格の悪い男である。


 模範的回答をする妻に面白くなさを感じた。「その解釈はおかしい」と言いがかりをつける。


「著者の言葉選びは品位に欠ける。育ちの悪さや陰湿さに根差したものだろう。お前の解釈ではあまりに著者に対して好意的に擦り寄り過ぎており、本質を見失っている。批判精神を失っては客観的な視点から物事を見ることはできん。これだから女は」


 瞬間、指の先端にチクリと針を刺したような痛みが走った。

 ふと、自身の手を見る。

 彼にとって極めておぞましいものが指に絡まっていた。


「ひぃっ!」


 沢蟹さわがに だった。

 彼の幼い日の心の傷である。

 母親と沢へ遊びに来ている際、彼は沢蟹を見つけて悪戯をした。

 その結果ハサミで指を痛めてしまい、涙を流す。

 母に助けを求めたが、息子に興味のない彼女は聞こうともしない。

 一人声を殺して泣きじゃくり、しまいには足を滑らせて転んだ。


 大人から見れば何のことはない光景だ。

 ただ子どもが愚図って転んだというだけのこと。


 しかし、運悪く使用人すらもその際の彼から目を離していた。おかげで自力で沢から這い上がらねばならなかった。彼は世界中の誰からも見放されたような、とてつもない孤独感にさいなまれたのだった。


 おかげで沢にも蟹にも碌な印象がない。

 見るだけで寒気がしてくるほどだ。

 

 そんな沢蟹が何故か屋内で這い回っている。

 必死に振り払うが、一匹二匹とどこからが現れてはまとわりついてくる。

 痛みは大したことはないがあまりに不快感が強い。


「おいっ! こっちを見ろ、俺を助けろ!!」


 アイシアに向かって叫び声を上げる。

 だがこんな時に限って、彼女は手にした本に視線を落としている。

 まるで何も聞こえていないかのように涼しい顔だ。

 オルガニウスはただ見苦しく喚く。

 

 彼女がこちらを見たかと思うと、またあの不気味な声音が響く。


「情けない。そのようなもので大の男が狼狽え騒ぎ喚き散らす。目に入れるのもおぞましい」

  

 冷徹とも言える言葉がオルガニウスの胸を刺す。


「お、お前は私の妻だろう! 何様のつもりだ! 黙って夫の言うことに従え!」


 絶望的な気分になりながら抗議する。

 しかし、彼女の口から放たれたのは予想だにしない言葉だった。


「妻? 私はお前が投げ潰した沢蟹だよ。突然水の中の居心地の良い場所から引き揚げられ、あまつさえ岩に叩きつけられた。この苦痛、理不尽さをどう晴らしてくれようぞ」


 妻の愛らしい唇から不穏な文言が漏れ出る。

 まるで小説の一節を諳んじているようにも聞こえた。


 そうこうしているうちに、全身に沢蟹がまとわりつく。


「ぎゃあぁぁぁ!! 助けて母上!!」


 喉の奥から絞り出すような絶叫が破裂した。

 気が付くと、天井が目に入った。

 使用人が傍に控えている。


「旦那様は突然気を失われたそうです。口から泡を噴かれて」


 アイシアは先ほどまで彼を介抱していたが、薬湯を煎じている最中だと話す。


「沢蟹は?」


 身体のどこを見ても刺されたり挟まれたりした痕跡は見当たらない。

 使用人は押し黙り、何かを口にしようとして言い淀む。

 長く彼に仕えている者ほど、ほんの些細な不興を買うだけで面倒な思いをすることを学んでいる。

 オルガニウスは首を振り、「いや、夢の話だ」と呟いた。


 しばらくするとアイシアが心配そうな面持ちで現れた。

 先ほどの彼女とはまるで違う。

 その落差が、うすら寒い恐怖を与えた。


 明らかにおかしい。

 ここ数日の異変。

 間違いなく、あのアイシアの周辺で不可解な出来事が起こっている。

 妖しい術の使い手か、食事に幻を見せる毒でも盛ったか。

 いずれにせよ、これ以上は許容することができない。

 あの女、まともな人間ではない。

 このままにしては、災いが起こる。

 本能的な不安と恐怖が彼の心を支配していた。

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