嘘つきの姫の話・弍
「主」
曼珠の呼びかけに、呆然として池を見ていた紫苑がのろのろと顔を上げた。怯えをたたえた顔に向けて、曼珠は笑いかける。
「僕にお暇を頂戴」
なにかを堪えるように、小さな唇がわなないた。
「……そう。そうね、あなたも私に仕えていてはいけないわ。罪を犯した主の元からは早く離れて」
「そうじゃないよ。この男は僕が殺した」
きっぱりと言い切る曼珠に、紫苑が目を見開く。
「曼珠。あなた、何を言っているの……? 罪は罪よ。兄様は私が殺したの。ちゃんと身体を整えたら、名乗り出ます」
やはり、彼女は強い。
だが、その潔癖なまでの強さと気高さが、今はいっそ痛々しく映る。
「違うよ」
真っ赤な衝立の向こうに立つ小さな主人に、曼珠は膝をついた。
「君は、自分の身を守るために愚かな獣を殺しただけだ」
あんな、人語を解すだけのケダモノのために彼女が罪に問われるなどあってはならない。
では、真実を明るみに出すか。
一瞬浮かんだ考えを、曼珠はすぐに打ち捨てた。
紫苑はさっき、「身体を整えたら」と言っていた。己が兄を殺したことは認めても、何をされたかは言いたくのだろう。当然だ。
さらに悪いのは彼女の立場だった。
後ろ盾もなく世継ぎ争いからも無縁だという、今までは平和に過ごせていた理由が仇となる。
それはすなわち、誰も彼女を庇えるものがいないということと同義なのだ。
人は、言葉だけで他人を殺せる生き物である。
たとえ紫苑に非がないとて、真実を知られて何も言われないはずがない。
誹謗中傷やことの矮小化。一の公子を正当化したり擁護する輩とて出てくるだろう。考えただけで
無言で考え続ける曼珠を見つめる紫苑の頬を、涙が幾筋も伝っていった。血溜まりに透明な雫が弾け、歪な斑模様を形作っていく。
今すぐその涙を拭ってやりたい衝動を拳を握ることで堪え、曼珠は頭を下げた。
「人としての君の兄は、僕が殺した」
「でも……」
「断言するよ。僕がもう少し早く来ていたら、間違いなくあれを殺していた。……君にやらせてしまって、守れなくて、ごめん」
許してほしい、などと口が裂けても言えはしない。ただ、これ以上彼女が傷つくところだけは見たくなかった。
「せめて、責任を取らせてほしい」
紫苑からの答えはない。曼珠は続けた。
「僕は今すぐ
本当の凶器は曼珠が池に投げ捨てた。池をさらいでもしない限りは、まず見つかることはないだろう。見つかったとて、証拠にはなり得ない。
一の公子はよく癇癪を起こしては物に当たっていた。池に文鎮くらい投げていても不思議ではないのだ。
「曼珠、お前が強いのは知っています。けれど、私には逃げきれるとは思えない」
ようやく、震える声が頭上から降ってきた。
「逃げきるよ」
答え、曼珠は顔を上げた。
「逃げきって、必ず君を迎えにくると約束する。僕は君のために咲いた鬼灯だ。君が命じてくれれば、必ず果たしてみせる」
「その時は……私も一緒に連れて行ってくれますか?」
「当然。――君は、こんなところ逃げても良いんだ。籠の鍵なんて僕がいくらでも壊してあげる」
少女の顔が苦しげに歪んだ。罪悪感に躊躇する心が激しく揺れ動いているのが、曼珠にはわかった。自分一人だけが何の罰も受けずにいてもよいのかと、幼い顔が語っている。
「必ず迎えに来るから。その代わり、君の嘘を一つだけ僕に頂戴」
気がつけば、曼珠はそう口にしていた。罪の意識と、曼珠に対する後めたさから目を逸らさせるための逃げ道。
「嘘?」
「そう、嘘。――嘘が大嫌いな正直者の姫様の、最初で最後の嘘を僕のためについて欲しい。決して、自分が殺したと言ってはいけないよ」
紫苑の胸が大きく上下した。
「それが、私にできることなら」
「ありがと」
破顔し、曼珠はもう一度深く頭を下げた。頭上から落ちた髪が、眼前を覆い少女の姿を隠す。と、不意にその髪が一房掬い上げられた。
視界の端で、
「これ、お気に入りなの。陽が当たった時のお前の髪と似ているでしょう? だから、お守り代わりに預けておくわ」
結びを仕上げたのだろう微かな衝撃が、曼珠の頭を揺らした。
「だから、ちゃんと返すのですよ」
紫苑の手が離れた。顔を上げた曼珠に、彼女は常と変わらず控え目に微笑んだ。
「曼珠、命令です。生きなさい。そして、必ず迎えに来てくださいね」
◆◇◆◇
「守りたかったんだ」
小さく、曼珠は呟いた。
心を守れなかったのなら、せめて命だけでも守ろうと思った。けれど、間に合わなかったのだ。
固く閉じた瞼の裏で、いつものように白い紙が舞う。
曼珠は間に合わなかったのだ。二度も。
自分が追われ、逃げている間は彼女に疑いの目は向けられないだろうと。そう思っていた。
だから必死に逃げたし、生きようとした。
けれど、結局は全て掌の上だったのだろう。自分のいない間に、彼女は一人で死んだ。それを知ったのは、全てが終わって何日も経ってからだった。
面白おかしく書き立てられた瓦版が信じられず、へたり込んだ自分の頭上で紙を舞わせていた空の何と青かったことか。
どう生きればよいのかわからなくて、でも死ぬこともできなくて。
心は死にたがっているはずなのに、生き汚く動く体は突きつけられる死を受け入れることはなかった。
それが嫌で嫌で仕方なく、自棄のように鬼を狩っていたはずなのに。
――お前、死にたいのか?
あの夜、自分はまた縋ってしまった。
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