第21話 蘇った誇り
夜の闇を、ひたすら走る。
途中で、将軍は馬を捨てた。両側が切り立った崖で、馬で通るには危険すぎたのだ。
ジュルベール将軍がつけてくれた軍曹に馬を託し、彼は一人、険しい岩場を進んでいく。
俺を胸の隠しに入れたまま。
からからから……。
真っ暗な中、乾いた音が聞こえた。
ブーツの下になって砕けた小石が、崖を滑り落ちていく音だ。
ほぼ直角に切り立った崖を、月明りが、煌々と照らす。まるで、この世ではないような、荒涼とした光景だった。
「ふうーーーっ」
長いため息が聞こえた。
「大丈夫か、グルノイユ」
……あんたの懐にいるんだよ。
……大丈夫に決まってる。
「俺が死んだら、お前も死ぬなあ」
他人事のように将軍がつぶやいた。
……死んだら、許さないからな!
……もちろん俺も、死にたくない。
せいいっぱいの想いを込めて、将軍の胸を蹴った。
「うん、大丈夫だ。俺は死なない。だから、お前も死なない」
ぼそぼそと聞こえた。
信頼するには、あまりにも、かさついた声だった。
岩場が終わると、湿地帯に出た。
「河が近いぞ」
将軍がつぶやく。
兵士たちが逃げ込んでいるリンツェンの森は、ゴドウィ河の東域に広がっている。
彼らは河を越えて、リュティス国内に帰ろうとしているのか……。
どおん、と、遠くから音が聞こえた。
……雷?
「砲声だ!」
鋭く、将軍が聞き分けた。
「近くに敵軍がいる」
……亡命軍?
将軍は耳を澄ませた。
「森から出ようとする兵士たちを、威嚇してるんだ」
ばらばらに森に逃げ込んだ兵士たちは、統率が取れていない。中には、暗い森を出て、平野に戻ろうとする者もいるだろう。
「まずいな。森から動かないでいてくれよ。頼む」
祈るように、将軍はつぶやいた。
ひときわ大きな砲声が聞こえた。
将軍は、地面に伏せた。
……気づかれた?
暗闇の中、はるか遠くが赤く光った。
「この暗さと距離では、悟られることはないと思う。だが、念のためだ」
濡れた土の上を、将軍は匍匐で進み始めた。
……うう、う。
……潰れる。
「あっ、悪い。お前のこと、忘れてた」
懐に手をやり、将軍は俺を掴みだした。
尻のポケットに、強引にねじ込む。
「そこなら安全だろ」
……尻のポケット。
……ロンウィ将軍の、尻。
自分を触らせて喜ぶ変態もいるから気をつけなくてはいけません……。
昔、公立小学校の先生が言っていた。
……これは、彼の変態性とは、何の関係もないよね?
ごわごわした布地の上からも、彼の尻が、固く引き締まっているのがわかる。鍛えられた軍人の尻だ。
って。
いやいやいや。尻レポしている場合じゃない。これじゃまるで、アレなのは、俺みたいじゃないか。おかしいのはいつだって、ロンウィ将軍の筈なのに。
第一、今は、そんな時じゃない。
俺は、必死で気持ちをそらせた。
夜の闇の中を、遠くに砲弾の音を聞きながら、湿った土の上を、長い時間、将軍は匍匐前進を続けた。
沼が近い。湿った土が、洗濯したてだったシャツを、どろどろにした。泥は、将軍の顔にも飛んで、人相の見分けさえつかない。
風向きによって、時折、火薬の匂いが漂ってくる。どーん、という遠雷のような響きと、地面の揺れに、肝を冷やす。
生きた心地がしなかった。
……将軍は、こんな人生を送っているのか。
生と死のはざまで、必死になって任務を遂行する。
失敗したら、即、死だ。
馬を全速力で飛ばし、泥の上を這いつくばって進み、ろくに食事を摂る時間もない。その上、今夜は徹夜だという。
……。
将軍がかわいそうになった。
かわいそうというのも、違う。
気の毒?
違う。もっと、自分に引き付けた感情だ。
……そばにいてあげたい。
……抱きしめてあげたい。
戦場から帰ってきた彼が、多少アレなのは、仕方のないことかもしれない。俺は、もっと優しく、彼に接するべきなのかもしれない。
でも、戦闘から帰って、彼が癒しを求めるのは、かわいい女の子の胸なんだ。
わかってる。
わかってるよ、そんなこと。
◇
木々がまばらに増え、やがて森になった。
将軍は立ち上がった。
さらに森の奥深くに進んでいく。
小高い丘に到着すると、大声で彼は叫んだ。
「諸君! 俺だ! ロンウィ・ヴォルムスだ! 諸君を迎えに来た。出て来い! さあ、早く!」
「ロンウィ将軍?」
「本当に?」
「ロンウィ・ヴォルムス将軍?」
あちらの木の根元、こちらの下草の影から、次々と兵士たちが姿を現した。。
無精ひげで顔中を覆われ、目だけをぎらつかせている。追い詰められた獣のような死に物狂いの瞳に、次第に、理性の光が灯っていく。
「将軍!」
「ロンウィ将軍だ!」
薄汚れた兵士たちは、一斉に、彼らの将軍に飛びついた。
「将軍は、俺たちを見捨てなかった!」
「俺たちを迎えに来てくれた!」
笑い、よろめきながら、将軍は、彼らを受け止めた。泥だらけの将軍の姿は、たちまち、兵士の輪の中でもみくちゃにされ、見えなくなった。
感動的な光景だった。
彼の尻ポケットのカエルさえ、熱いものがこみあげてくるような……。
兵士たちは、彼らの将軍を、岩の上に担ぎ上げた。
足を踏ん張り、ロンウィ将軍は、檄を飛ばす。
「諸君。ナタナエレ皇帝は、諸君に期待しておられる。俺についてこい。共にに戦おう。偉大なるナタナエレ皇帝の、栄誉の為に。我らが母国、リュティスの為に!」
兵士たちは顔を見合わせた。
短い時間だった。
即座に声が上がった。
「戦おう!」
「そうだ。戦おう!」
前列の兵士から上がった声は、次第に大きなうねりとなって、森の中に広がっていく。
「ロンウィ将軍が一緒なら、俺たちは戦える」
「将軍が指揮を執ってくれるなら!」
「俺たちは再び、誇りを持つことができるんだ。兵士としての誇りを!」
「ロンウィ将軍」
熱狂する兵士らを、なんとかかき分け、将校が出てきた。
感嘆に潤んだ瞳で、彼は、岩の上のロンウィ将軍を見上げた。
「あなたは、私がどうしてもできなかったことを、たった一声で成し遂げた」
「オシャマール大尉」
ロンウィ将軍は、すぐに、彼が誰だかわかったようだ。
「あなたの軍をお借りしていいかな?」
「ぜひに。指令権の全てをあなたに託します、ロンウィ・ヴォルムス将軍」
将校たちが集まってきて、連隊の再編が始まった。
点呼がなされ、健康状態が確認される。
行軍の道行きと、これから先の計画の説明が始まった。
兵士たちの顔に生き生きとした表情が蘇った。
農民だった、あるいは、工場で搾取されていた彼らは、今、兵士の誇りを取り戻したのだ。
皇帝ナタナエレに仕える、兵士としての誇りを。
ぽろんと、俺は、将軍の尻ポケットからこぼれ出た。
なんだか、ひどく高揚していた。
俺も一緒に戦いたい。
将軍の下で。
ロンウィ将軍の指揮の元で!
真剣にそう思った。
森は、兵士たちの熱気とやる気で満ちていた。
熱くなった空気の中に、一陣の風が吹いてきた。
……ん?
……何の臭いだ?
それは、不穏な臭気だった。
太古の祖先の記憶が立ち上ってくる。
支配と恐怖。
自由に動かない体。恐ろしい金縛り。
思わず俺は、辺りを見渡した。
誰も気がつかない。
だが、俺にはわかった。
だってやつらは、カエルの天敵だから。
大変だ!
森の北側には、
「森の北の端より、平原に出る。我々の標的は、エスターシュタット軍の中央だ……」
ロンウィ将軍が説明する声が聞こえる。
ダメだ!
森の北には、信じられない数の蝮がいる。
無事に通り抜けることなんて、到底、できやしない!
思わず俺は飛び跳ねた。
もちろん、誰にも気づかれることはなかった。
……どうしよう。
「南からは、クレジュール将軍の部隊がやってくる。西から行く諸君らと連携して、敵を挟み撃ちにする……」
そもそも挟み撃ちは、ロンウィ将軍の提案だ。リュティス亡命軍と戦いたくない一心で、彼は、人のいいクレジュール将軍を論破した。
だが、彼の歩兵連隊が、このまま森の北に向かったら。
蝮の巣のど真ん中に足を踏み入れてしまったら。
蝮には毒がある。人間を、簡単に殺すことができるほどの、猛毒が。その上、この匂いから判断すると、北にいるのは、大蛇ばかりだ。
ウサギ一羽で潰走するような軍隊だ。蝮の大群の只中にいるとわかったら、噛まれる前から、大変な混乱に陥るだろう。行軍どころではない。
再び、歩兵連隊は離散する。
そして、待ちぼうけを食わされたと知らずに、クレジュール将軍は、定刻通りに敵軍本隊に飛び込み、……、
……壊滅する。
全ては、ロンウィ将軍による、計画変更のせいだ。亡命軍と戦いたくない。無事に亡命兵士達を逃がしたい、という。
今までのクズぶりなんて、メじゃない。
このまま作戦を強行すれば、ロンウィ将軍は、世界最凶のろくでなしになってしまう……。
「開戦は、明朝5時。それまでに、森の北の外れに到着する必要がある」
俺にできることは。
ロンウィ将軍と、彼の兵士たちを救うために、俺にできることは!
焦った頭で、必死に考えた。
あるとしたら、たったひとつ。
うまくいくかどうかわからない。
だが……、
……。
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