第19話 うさぎに追われて
リュティスの国境沿いには、北、中央、南と、3か所に別れて、軍が駐屯している。
ロンウィ軍は、中央軍だ。
中央軍と北軍は、ゴドウィ河の上流と中流を、それぞれ渡河してきた。
ロンウィ軍が上流、北軍が下流。
北軍の司令官は、クレジュールという名だ。ロンウィより、一回りほど年上だが、若いころ、他の国で傭兵をしていたので、階級は、同じになる。
今年の春、軍の再編があった。
ロンウィ軍は、兵力を削られ、歩兵連隊が、北軍へ送られた。
送られていったのは、ロンウィ将軍の、大切な兵士たちだ。
彼らは、元々は、リュティスの農民や、工場労働者だった。徴兵で軍に入り、勇敢な司令官の元、必死で戦ってきた。
常々、兵士たちの間で語られてきた言葉がある。
「ロンウィ将軍の麾下なら、出陣の時に、仲間に、『あばよ』って言わなくてもいいんだ。だって、生きて帰って来れるからね!」
公平に言って、クレジュール将軍もまた、有能な将軍だ。戦勝の数は、彼の北軍の方が、ロンウィ軍より多い。
ロンウィは、新天地での自分の兵たちの活躍を信じ、クレジュールに任せた。
だから、信じられなかった。
彼の兵士たちが、逃げた?
戦わずして?
「行軍する兵士らの足元を、野ウサギが駆け抜けたそうです。誰かが銃を撃って、それで、軍は、大混乱」
副官のレイが説明している。
「なんだと? 3個連隊がか? うさぎ一羽で?」
「はい。逃げていく兵士たちを、右翼司令官のオシャマ―ル大尉が、必死で引き留め、最後には、頭を下げてまで戦場に留まってくれるよう懇願したそうですが、収拾がつかなかったそうです」
「………………」
「右翼が潰走し、
「まずいな」
ロンウィ将軍はつぶやいた。
「いずれ、うちの中央軍と北軍が合わさって、一思いにエスターシュタットへ攻め入るつもりだったんだ。ここで、北軍が潰れると、兵力の大部分を失うことになる。そうなれば、我々中央軍も、ゴドウィ河の向こうへ引き下がらざるを得ない」
「撤退……」
「その言葉は嫌いだ」
レイの言葉を、ぴしゃりと将軍は遮った。
北軍、中央軍の活躍により、リュティス帝国の国境は、ゴドウィ河の東側まで拡大された。
ここで両軍がゴドウィ東岸から追い返され、西岸に撤退したら、リュティスの領土は、大幅に削られてしまう。
彼の愛する、ナタナエレ皇帝の領土が!
今のロンウィには、撤退の懸念を上回る心配があった。
「それで、やつらに怪我はないんだろうな?」
「やつら?」
「右翼だよ。俺んとこから連れていかれた、歩兵どもだ」
「死者、怪我人の報告は聞いていません。なにしろ、敵と出会う前に逃げてますからね」
ロンウィ将軍は、頭を抱えた。
「あいつらは今、どこに?」
「リンツェンの森に逃げ込んだということです」
「リンツェン……、一晩あれば行けるな」
「あなた自らが、行かれるのですか?」
「森に散らばった兵士たちを集め、右翼を再構成する」
ロンウィは立ち上がった。
「ご一緒に」
すかさず、レイが申し出る。
「ダメだ。馬2頭は目立つ。俺一人で行く。お前は要塞に残れ」
「おひとりで? 何を申されます。危険すぎます!」
「大丈夫だ」
にっこりとロンウィは笑った。
「リンツェンまで行けば、俺には兵が3000人もいる。キフル要塞の兵力より、遥かに多い。
「でも!」
「もしもの時は、お前が中央軍総司令官だ。皇帝に伝えてくれ。俺は、最後まで……」
将軍の瞳が揺らいだ。
言いかけたまま、身動きしない。
「将軍!」
あまりの不吉さに、思わず、レイが大声をあげた。レイは、この上官が、大好きだった。彼を失いたくない。
「いや」
ロンウィの背筋がしゃんと伸びた。
哀愁を帯び、曇りかけていた瞳に、再び力が満ちる。
「必ず帰る。俺は、ナタナエレ皇帝の、忠実なしもべだ。正義は皇帝にある。わが軍が負けるわけがない」
◇
ナタナエレ皇帝から贈られたばかりの葦毛を、ロンウィは、厩舎から引き出した。
それは、素晴らしい馬だった。太くたくましい4本の足。大きな尻。濡れた鼻、そして、素直な澄んだ瞳。
騎兵になってから、彼はすでに4頭の馬を死なせている。そして、ついこの間失明したコラーを始め、3頭の馬を、怪我で使い物にならなくしてきた。
馬を崇め、友としてきたロンウィにとって、それは、どれだけ辛いことだったか。
……皇帝からもらった馬を、死なせてしまうかもしれない。
一瞬、彼は、ためらった。が、これが最後の戦いになってもおかしくないのだと、思い直した。
ロンウィは、戦いに出る前は、いつも、死の覚悟をする。
戦場で、潔く死ぬ為だ。彼はまだ、30歳になったばかりなのだが。
死出の旅に赴くのなら、ナタナエレのくれた馬を供にしたいと、彼は願った。
ひらりと、ロンウィは、馬の背に跨った。
馬は、待ちかねたように、素晴らしいスピードで走り始めた。
少し行ったところで、ロンウィは、胸の辺りに違和感を感じた。
じくじく?
じゅくじゅく?
湿り気が……。
「おい! 一緒に来ていいとは、一言も言ってなかったはずだぞ!」
馬の上に身を伏せ、全速力で走らせながら、ロンウィは叫ぶ。
叫ぶそばから、口元から、風が言葉を引き千切っていく。
「なんでレイのところで、じっとしていない!?」
返事はない。
げこげこ鳴く声もしない。
ロンウィは慌てた。目についた大木の陰に、馬を止める。
胸の隠しの中で、グルノイユは、目を回していた。あまりのスピードに、カエルの三半規管がついてこれなかったようだ。
川べりからは、少し離れてしまっている。ここに、グルノイユを置き去りにするわけにはいかない。
「馬鹿者めが」
そういうロンウィの声は、優しかった。
彼はグルノイユを胸の隠しに戻し、再び、全速力で馬を走らせた。
◇
ロンウィ将軍についていったのは、彼のことが、心配だったからじゃない。
長くつややかな黒髪からもわかるように、将軍は、生命力の強い人だ。簡単にやられるタマじゃない。
それに、将軍には、心配してくれる女の子がたくさんいる。なにも、俺が、そばについていなくても。彼が帰ってくるのは、どうせ、女の子たちのベッドなんだし!
だがまあ、今夜は、あの女の子たちは、待ちぼうけなわけだ。メラニーとスカーレットと言ったっけ? 川辺で将軍を誘っていたあの子たちは。
そう思うと、少し、気持ちが晴れた。
これは、隠密の作戦だ。将軍は単身、前の部下たちが逃げ込んだ森へ向かう。
北軍の陣へ向かうには、敵がうようよしている場所を、突っ切らなければならない。軍服では、すぐにリュティスの将校だとバレてしまう。
危険すぎる。
彼は、私服で移動するだろう。
2枚しかないシャツの、1枚は、物干し竿に翻っていた。だから俺は、洗濯が済んだばかりの、もう一枚のシャツの中にもぐり込んだ。
眠くなったから。
ちょうどいいところに、リネンが畳んでおいてあったから。
それだけだ。
慌ただしく駆け込んできた将軍は、俺が潜んでいたシャツを羽織り……。
ロンウィ将軍のシャツは、いい匂いだった。彼が服を身に着けると、その匂いは、一層、強くなった。なんてあたたかく、よく乾いていて、素朴な匂いなんだろう……。
幸せを身近に感じさせる匂いだ。
ずっとこの匂いに包まれていたいと思わせるような……。
俺は知らなかった。
こんなに馬が、猛スピードで走るなんて。普段、のっそりしている将軍が、こんなにも俊敏に馬を操るなんて。
最初は、服の合わせ目からこっそり外を覗いて、スリルを楽しんでいた。知らない景色が、流れるように後ろへ飛び去っていく。
ところが、だんだん、気分が悪くなってきた。どうやら俺の脳が、目からの情報についていけなくなったようだ。
ううう、目が回る。
気持ち悪い。
ううううううう……。
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