葯野駅にて
篆書体で葯野駅と書かれた大きな看板が掛けられたその駅は、ずいぶん昔からあると聞く黄白色の木造建築で、なんでも北陸で初めて建造された駅舎らしい。
正面から見て右側には屋根付きの駐輪場があり、この駅から通学する高校生はもちろん、大学・専門学校に通っているだろう私服の学生や、ちらほらスーツを着たおじさんたちも利用している。
入り口を入ってすぐの仕切りのない待合室には、単語帳を真下ににらめっこして、ついでに前髪も一緒に下りているせいではたして読めているのかわからない女子高生や、じっと目をつぶって電車を待つサラリーマンの中高年男性などが、ぱらぱらと秩序なく座っている。
そんな静かに座る人たちだけではなく、なかにはせわしく喋る人たちもいる。
しばしば見かける二人組の女子高生で、彼女らにとって定位置の自動販売機の隣に座り、一人は——話を聞くにイモリんという名前——鏡で半マスクの顔を確認しながら、やけに耳につくとがった声で——おそらく学校の誰かのことを——毒づいている。
聞いていたもう一方のほうはやたら多くのキーホルダ―がついたスマホをジャラジャラ鳴かせ、——仕組みは謎だが喋るときだけ縦にピクピク振動する癖があるようで——身体を小刻みに跳ねさせながら潰れた声で毒を乗せ返している。
「〇〇がしまっておくって言ってたくせに、ポールしかしまってなかったんだって。ボールもネットも置きっぱなしで」
「てかっ、やべぇじゃん、あいつwww」
——部活の片づけの話だろうか。
「まじ言ってることとやってること違いすぎだわ」
「てかっ、それで結局イモリんが怒られるのマジ意味わかんないってwww」
「そのせいで昨日、私一人で片付けさせられたんだけど」
「てかっ、それ先生の逆いじめじゃねってwww」
二人とも寺木の高校のとは違う制服を着ているから、別の学校の生徒だ。どちらもやたらスカートが短い。
僕は待合室をさっさと通り過ぎて、ひとつしかないちゃっちい改札を抜けてホームに移る。
一応こんな田舎でもこの駅には改札のとなりに駅員室があり、そこに駅員さんが常駐しているが、改札を通り抜けるときに定期券を見せるよう催促されたことがない。
だからいつも定期券をしまいっぱなしで、そこを通ってしまう。
ホームにもいくらか人はいて、田舎だから混雑することは決してなく、まばらに各々の好きなところに立っている感じだ。
しばらく立っていたら何度も聞いた到着メロディが鳴り始めた。
タッタラッタ、ターラーターラー、タッタータッター
タッタラッタ、ターラーターラー、タッタラッタッター
…………カーン……カーン…カーンカーンカーン
踏切が閉まる。
僕は黙って待つ。
………そして彼が来る。
すらっと伸びた手にモノトーンな灰黒色の傘を持ち、スタイリッシュな長い両脚が広い歩幅でホームを歩くさまは軽快ともゆったりともとれるテンポで、その心地よい歩調が優しく風を包みこみ、まるで柔らかく春の喜びを伝えるような風となって僕の肌へと届く。
僕はこの時間が訪れるたびに、自分がどん底から空の上へ舞い上がっているのか、重さのない平坦な日常から奈落の底へ突き落されているのかどちらなのかわからなくなる。
ただひとつ言えることは、これは———今見ているこの風景もこの息苦しい心臓の鼓動もすべて————自分自身が望んでつくった高校生活のひとコマなのだ。
息をのむようにして彼の方向に目をやろうとする。
彼は僕に気づかない。
気づかず改札を横に抜ける彼をちらりと見る。
白く透明感のある肌に、小さくまとまったあご先から耳まで引き締まった無駄のない麗美な曲線を描いた輪郭。
細長くまっすぐに伸びた首に乗っかったその横顔は遠目にもはっきり認識できるほど、それぞれのパーツが十分な大きさを持ちながらも整合的に配置され、その美しさに正面からも見たいという衝動が押し寄せる。
「列車が到着しまーす。黄色い線の内側でお待ちくださーい」
ここで僕の浮いた気持ちは途切れた。
彼——同じ高校で同学年別クラスの結城(ゆしろ)——はバドミントン部で、通学時はいつも右手にバドミントンラケットを収めたカバーを持っている。ちらっとそのカバーを眺めた後、電車の進行方向に顔を向けてから後ろの車両に入っていった。
電車が進む方向にいた僕は、結城がこちらを向いたとたん思わず顔をそむけ、そそくさと電車の入り口に走っていき、そのままジャンプするくらいの勢いで乗り込んだ。
車内に入っていつものことだがどこに座ろうか迷う。
僕らが使うこの電車は旧式の構造をしており、出入口の両脇に一つずつ二人座りの縦座席が壁に平行に置かれ、それ以外の座席はすべて車体の中央部にある四人座りのボックス席になっている。
まだ通勤ラッシュよりも前の時間だから席が埋まるということはないが、できれば一人で座れるところがいいなと思って座席の間をふらふらしていたら、例の二人組が同じ車両に入ってきた。
「なんで二両しかないんだよ!狭いだろがっ!」
「てかっ、ド田舎だからしょうがなくねってwww」
そうなのだ。この時間の電車は車両が二つしかついていないのだ。だからこうやって高確率で二人組と鉢あってしまう。嫌なわけじゃないが。
「今週末さーイオン行かなーい?WEGOで服買いたいー」
「……うち、先月キーボード買ったばっかだから、お金ないんだよねー」
「じゃあ服選ぶの手伝ってよ」
「いいよー。ってか、うち、イモリんみたいにファッションのセンスないけど大丈夫なのかってwww」
「エミも服に興味持てばいいじゃん」
「うちはバンドばっかだからさー」
どうやらイモリんじゃないほうはエミというらしい。あいかわらずスマホをジャラジャラ鳴かせて身体は縦に振動している。
二人組は後部車両に近い二人用の座席に座り、ずっと途切れることなくペラペラ喋っている。
——それでは出発しまーす
電車が走りだしたので僕もいい加減座らないとと思い、焦ってすぐ左のボックス席に身を落とす。
別に聞き耳を立てているわけじゃないが、エミというほうはバンドをやっているのか。
僕はなんとなく中学からやっていたハンドボールを高校でも続けているが、正直そこまで思い入れがあるわけじゃない。高校に入学したばかりのとき、バンドとか合唱部とかに憧れて、部見学いってみようかなと思ったけど、そういうのは一部のセンスある人たちしかできないんだろうなぁと決めつけて、結局運動部の見学しか行かなかった。
今思えばもったいなかったな。かといって今から始めるのもなんか恥ずかしいし、そもそも何から始めたらいいのかもわかんないからな。
そう思い続けて高校生活の最初の一年が終わってしまい、今にいたる。
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