第36話 日常、愛されるということ

 寒かったでしょう、と僕たちの間に座った婦警さんがやさしそうに語りかけてくれる。

 僕は恥ずかしくて「はい」とも「いいえ」とも答えることができなかった。ただ、黙って下を向いていた。

 ハルはずっと黙って窓の外を見ている。

 ガラスに反射するハルと目が合わないかと期待する。

 ハルはぼんやりと、それでいて厳しい目で自分にこもっていた。


 僕たちを震え上がらせた海は、線路を挟んだバイパス道路を走るパトカーの中からはまったく見えなかった。

 見えないけど向こう側に海があるのかと思うと、不思議と懐かしい気持ちになった。子守唄のような潮騒の音を思い出す。

 ビニールシートがはためいて、波打ち際で僕を遊ばせている父さんに「無理よ、風が強くて敷けないわ」と母さんが大きな声を出す。

 父さんは笑って母さんに言う。

「四隅になにか重いものを置くんだよ。お弁当とか、水筒とか飛ばないものをね」

 忘れていた思い出がふっと脳裏に浮かぶ。

 父さんに抱き上げられて砂浜の母さんのところまで戻る。

 父さんのTシャツは僕の足のせいでびしょ濡れに、ビニールシートは砂だらけになっていた。

 懐かしい、夏の思い出。


 カーステレオは少し気の早いクリスマスソングを流している。

 サンタは今年、僕にプレゼントをくれないだろう。僕は『良い子リスト』から確実に外された。悪い子になった。

「二人だけでどうするつもりだったの?」

 婦警さんがやんわり訊く。

 ハルは「予定なんてないの」と答えた。

 それはさっきまでのことのようで、それでいてこれから先のことのようにも聞こえた。

 もうそばにはいられないかもしれない、という考えがふっと頭に浮かんで消えていく。

 僕とハルに限ってそんなことはない。ずっと、これからも一緒だ。

 だからハル、余計な心配はしないでとりあえず家に帰ろう。答えはきっとそこにあるから。


「アキ!」

 車がハルの家の前に着くと、まだ完全に停車する前に母さんが飛び出した。

 隣にいた警官が必死に止める。

 アキ、アキ、と何度も呼ぶ声が聞こえる。ああ、よかった。僕は愛されている。

 一方ハルは警察官を振り払い、ひとりで家の中に入ってしまった。

「ハル!」と呼び止めたスミレちゃんはハルが自室に入るドアの閉まる音を聞いて、戻ってきた。そうして警官に頭を下げた。

「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

 深く、深く頭を下げた。警官は「なにもなくて良かったですね」とスミレちゃんに頭を上げさせた。

 スミレちゃんは――僕が覚えている限り初めて、人前で涙を見せた。ううっ、と嗚咽を漏らし、その声は夜の静寂を壊した。

 母さんがそばに寄り添い、スミレちゃんの背中をやさしく撫でる。気が付くと、ガレージの前にハルのお父さんがいて、なにかを悔やんでる顔をしていた。

 スミレちゃんの涙は簡単に止まることなく、僕の父さんがその間、警官の質問に答えていた。

 抱き合うスミレちゃんと母さんは二人でひとつになり、まるでどちらがどちらなのかわからなくなりそうだ。二人がひとつの卵の分割から生まれたということ、それを本当の意味で知った気がした。


 とりあえず今日は疲れてるから解散しましょう、と平常心を取り戻したスミレちゃんが提案すると、母さんが、そうね、家に帰りたいわ、と答えすべて決まった。

 僕はハルのことが心配で、明かりの灯らないハルの部屋をずっと気にしていた。母さんが「そういう気持ちになることって誰にでもあることよ。それにハルに必要なのは休むこと。今頃、安心して寝てるかもしれないじゃない」と言った。

 確かに、帰ってきたという思いが僕に与えた安心感は想像できないほど大きかった。

 父さんは運転しながら「怒らなくちゃいけないところだけど、よくハルちゃんを守ったな。父さんはお前が誇らしい」と言った。母さんは、そんなこと言わないでよ、といつものように声を上げたけれど、僕は父さんの低いチェロのような声で心が和んだ。


 ――こうして一連の騒動は終わりを迎えた。


 翌日は母さんの言い付けで学校を休んだ。

 お風呂に入ってベッドに入ると、慣れ親しんだベッドが僕を待っていた。入ると暖かくて、母さんが湯たんぽを入れておいてくれたことに気付く。

 僕にやさしい両親がいることに感謝する。愛されていることにも――。

 そこで記憶は途絶えて、気が付けば太陽は真上に近く、乾いた空気は雲の存在を許さず昨日とは打って変わった晴天だった。

 父さんはいつも通り仕事に行っていて、母さんは、目が覚めたの、と朝食の支度をしてくれる。

 ご飯とトースト、どっちがいい、と訊かれ、迷った末にトーストと答えた。

 想像通り、この前タルトを焼いた時の残りのリンゴで作ったジャムが出てきた。

 リンゴのジャムはとても甘くて、少ししあわせな気持ちになる。目玉焼きを焼いている間にお湯は沸いて、卵と一緒にカプチーノが現れる。

 ああ、これがうちの、そして僕の香りだ。

 ぶっ飛ばされるかもしれないけど、偽りのない、それが事実だ。


『陽晶くん、風邪、大丈夫? 空気が乾燥してるから気をつけて。早く良くなりますように』


 弥生さんからメッセージが届いたのはベッドに転がっていた時のことだ。うとうとしていたところに、スマホが振動して目が覚める。

 まだなにも知らない弥生さんからのメッセージは、日常を感じさせた。なんの危険もなく、僕を脅かすこともなくやって来る毎日。

 それは本当は父さんや母さんの愛情で守られているものなんだ。今回はそれを思い知った。

 そしてその日常の中に、いろんな人がいる。

 母さんや父さん、ハルやスミレちゃん、佐野、唐澤、弥生さん、守口ちえみ⋯⋯。

 暖かいメッセージを見つめて、なんて言ったらいいのかわからない。

 本当のことはとても一言では説明できないし、ただ一言「ありがとう」と返すのは少ない気がした。

 僕は考えた。

 どう答えるのがいちばん最良かと。

 迷った末に送ったメッセージ。


『弥生さん、心配してくれてありがとう。早く良くなって、弥生さんに会いたいな』


 戸惑う彼女の顔が、ディスプレイを通して見える気がした。でもその気持ちに嘘はなかった。

 彼女に早く会って、どこかで捻れてしまった日常を早く取り戻したい、そう思ったから――。


『うれしい言葉、ありがとう。待ってるね。ノートは取っておくから、しっかり治してね』


 考えあぐねたのか、一呼吸遅れた返事にはそう書かれていた。彼女らしい、真っ直ぐな答えだった。


 唐澤は彼女をどう思っているんだろう?

 今でも彼女を想っているんだろうか?

 もしそうなら、僕は早めに撤退した方がいいかもしれない。ただの友だちだとしても、ただのは許容範囲外だろうから。

 彼女のことを本当に想っているアイツのところへ、彼女を見送るべきかもしれない。

 それが僕にできる、二人へのお返しだ。

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