第30話 迷子、そして青春

 ヒック、ヒック、⋯⋯とハルの涙はとどまるところを知らなかった。

 子供の頃のことばかり、思い出す。

 転んで膝を擦りむいた時、アイスが溶けて落ちた時、トランプをしてババを引いちゃった時。

 その時の涙と、今の涙はどう違うんだろう?

 ハルの手は三年間ラケットを持ち続けてきたとは思えない程やわらかくて、それも子供の頃と変わらない。

 大丈夫だよ、と迷子になった時に撫でた頭と、その緩やかな丸みは変わらない。

 大きくなっただけで、僕たちの間にそれ程違いが生まれているとは思わなかった。

 でもそれは僕が考えなしだっただけなんだ。

 小さなハルはそれまで我慢してた分も泣いた。

 きっとずっと我慢してた。

 だから僕に、このヒョロヒョロで頼りない僕に、もたれかかるようなことになったんだろう。


「ハル、そろそろ出ないと」

 階段の下から母さんの呼ぶ声が聞こえる。

 大丈夫、と言ってハルは濡れた目をティッシュで丹念に拭くと、もう一枚で鼻をかんだ。

「ごめんね、せっかくの誕生日なのに重くて」

「僕たちの間に遠慮はいらないよ。ずっと一緒に育ったんだから」

 ハルは僕の目の奥をじっと見つめて、それから僕を抱きしめた。

「暖かいね」

「そうだね、もう冬だよ」

 寒い日は手を繋いで、体をぎゅっとくっつけておしくらまんじゅうのように公園で遊んだ。小さな手にドングリを持ちきれないほど拾ったりしながら。

 埋めておいたら芽が出るかもよ、と母さんはいつも同じことを言った。スミレちゃんは、元気なドングリならね、と言った。

「寒くなったらまたおいでよ。それか、すぐ呼んで。飛んでいくから」

「確かにアキは自転車漕ぐの速いよね」

 ふふっ、とハルは微笑んだ。

 小さな秘密は大きな悩みだった。僕はまだ戸惑いを持て余していた。偉そうなことを言って、もしかしたらその時にはハルを失望させる可能性も大だった。

 誕生日が来ても、僕はまだ十四でしかなかった。


 階下に下りると、母さんがカバンにスマホを入れて上着を手に持ったところだった。

「ハルも早く帰り支度しなさい。アキも一緒に送っていくんじゃないの?」

「あ、うん」

「だったら上着きて。凍っちゃうわよ。母さんは先に乗って暖気してくるから、アキはちゃんと鍵閉めてきてね」

 わかったよ、と答えると、母さんはローヒールの靴を引っかけて玄関からバタバタと出て行った。

 急いでる時はいつもそうだ。余裕があっても、母さんの中ではなくなるものらしい。母さんのf(x)は常に0に向かっている。なにもかも、時間がすべての余裕を洗い流して去っていく。

「⋯⋯また今度、迎えに来てくれる?」

 フリースのジャケットを羽織っていた僕は振り返った。

 車で送られるハルは赤いマフラーを外して、それを手袋と一緒に手に持っていた。

「寂しくなったら呼ぶから」

「うん、待ってて」

 ハルは爪先立ちで、僕の首に手を回した。

 目の前の僕に縋り付くだけの価値があるのか、甚だ疑問だった。それでもハルが縋り付くのは、たぶん、僕しかいなかったんだろう。

 かわいそう、とは思いたくなかった。守ってあげよう、そう思った。


 それともハルが爪先立ちするくらいには、僕も頼れる存在になったということだろうか?

 自惚れじゃないかな?

 だって、自信がない。

 昨日までの十三の僕と、今日からの十四の僕はたった一日を跨いだだけなんだから。書類に書く年齢が変わったくらいで、なにも本質は変わらないように思える。

 だってほら、こんなことだけで体中がハルでいっぱいになる。


「ごめん、行こう。急がないとサクラさん、怒っちゃう」

「そうだね、急ごう」

 ハルは上がり框に腰をかけ、ファーのついたかわいいブーツを丹念に履いた。

 僕は履き古したハイカットのコンバースの紐を、緩く結んだ。


 スミレちゃんは「お誕生日おめでとう、アキ」となにかの包みをくれた。大きな包みだった。

「ハルがお世話になっちゃって」

「別にもう、世話することなんてないわよ。二人でイチャイチャしてるのにわたしが付き合っただけ」

 その台詞に頭が爆発する。スミレちゃんの横で手を振るハルの顔が見られない。母さんは無神経だ。絶対面白がってる。

 赤面しながら黙っていると、奥からハルのお父さんが現れた――。前に会ったのはいつだったか。

「アキくんも十四か、オジサンも歳をとるわけだね。誕生日、おめでとう。用意してなかったから、こんなものしかあげられないけど」

 それは一冊の本だった。それほど厚くなく、でもズッシリしてるので普通に読む本ではないことがわかった。

「オジサン、ありがとう。よかったらまたうちにも遊びに来てください。それでまたカメラの使い方を教えて」

 オジサンは苦笑した。

 わかった、そのうちね、と言葉を濁した。

 母さんはアイドリングストップしてない車内でハンドルに片手をかけたまま「克己さん、アキにプレゼントをありがとう。二人をよろしくね」と言った。

 オジサンは母さんに気圧されて見えた。

 そして「家族は大切だと思ってるよ」と答えた。

 それが少しでもハルの心の癒しになるといいな、と僕は思った。


 家までさほど遠くない中、母さんがアイスクリームを食べたいと言い出した。

 さっきケーキを食べたばかりなのに、と言うと、別腹ってやつよ、と言い返してきた。

 どうせ運転してるのは母さんだし、僕はどこにだって連れて行かれるだけだ。あのコンビニに売られているアイスの種類を考える。

 ケーキを食べた後だから、さっぱりした抹茶もいいかもしれない、と考えていると「ねぇ」と声がかかった。

「ハル、なんだって?」

「⋯⋯それ、聞く?」

「一応、ハルのオバサンだからね。若い頃、スミレが子育て、ワンオペで大変だった時、ハルの面倒もまとめて見てたし、我が子と変わらないわよ」

 そうなんだ、と自分たちがいつでも二人一緒だった理由を知らされる。

 暢気に駆けずり回っていたけど、スミレちゃんはその頃、苦労してたんだ。それを母さんが支える側だったことに少し驚く。

「わたしたちが一卵性双生児だからって、代わってあげられないことばかりになったの、大人になるにつれて。始まりは一緒だったのに、どんどんそこから離れていったのよ。不思議ね」

 僕がハルについて思っていたことと、ずいぶん似ていた。

 人はひとりひとり、別々の道を歩くことになるという事実を母さんは話した。


「上手く言えないけど、ハルはすごく寂しがってる。僕なんかがハルを助けてあげれるとは思わないけど、でも、できることはしてあげたいんだ」

 ウィンカーを左に出して、母さんは車をいつもは寄らないコンビニに停めた。

 なんでもリピーターな母さんにしては珍しいことだった。

 そうしてふう、とため息をついた。大きなため息だ。

 まだハンドルから手を離さないまま、母さんは確かにそう言った。

「同情は時には必要だけど、その波に飲み込まれたらダメよ。わたしたちと違って、あなたたちは双子でもないし性別も違うんだから、残酷かもしれないけど、あまりしてあげられることは多いと思えない。それから、あまり深入りしないであげて。いい、あんたとハルは姉弟でもないんだからね」


 それは真剣な忠告だった。

 自分はハルに頼られて少し浮かれ気味だったのかもしれない。母さんの言うことが、いつになくほかの大人が言うような正論に聞こえた。

「⋯⋯わかった」

「まだ、不安定な年頃なのよ、あなたたちは。困難は自分たちだけで解決できないってことを大人は知ってる。そんなことないって思ううちは子供なのよ」

 行こう、と母さんはエンジンを止めて車を降りた。

 暗に自分の責任について問われた気がした。

 すきだから、という気持ちだけでなにができるんだろう?

 なにもできない。

 僕にできるのはたぶん、寂しいハルを迎えに行ってあげることくらいだ。そこから先はなにも思いつかない。

 ⋯⋯ハグして、キスしてあげたらいいの?

 そんなの、なんの解決にもならないということを、僕はなぜか知っていた。それは多分、子供の頃だけの話だ。


 結局アイスが決まらなくてぐるぐるコンビニを回っていると、ちょっと驚くことがあった。

 さっき入ってきて同じようにスイーツコーナーで迷っていたのは弥生さんだった。

 どうしようかと考える。

 でも逃げたり隠れたりはできないだろう、と腹を括る。

 不自然にならないよう十分に注意を払って、声をかける。

 母さんは雑誌コーナーで、付録付きの女性向け雑誌を丹念に物色していた。

「弥生さん」

 声をかけると事務的に振り向いた彼女は明らかに驚いて、それから目を逸らした。

「突然声をかけてごめん。でもいるのが見えたから」

「うん、挨拶くらいするよね⋯⋯」

 ショートカットから出ている耳の先が真っ赤だった。そしてたぶん、僕も真っ赤だった。

「なにを買いに来たの?」

「アイスにするつもりだったんだけど、こっちのスイーツも気になっちゃって」

「僕もぐるぐる迷ってたんだ」

 変に二人の間の空気が温度を高くなり、お互いの鼓動が聞こえるんじゃないかと心配になる。少なくとも僕の心臓は強い鼓動を打っていたし、彼女も普通には見えなかった。

 それ以上、会話を続けるのは難しい気がして、話を切り上げようと思った。母さんがいつ戻るかわからないし。

「それじゃあ、また明日」

 彼女に背を向けようとすると「待って」と呼び止められる。歩き出した一歩を引っ込める。

「陽晶くん、あの、お誕生日おめでとう」

「⋯⋯ありがとう」

「お祝いしたいなと思ってたんだけど、学校、休みだったから。それだけ、またね!」

 彼女は颯爽とプリンをひとつ持ってレジに向かって行った。


「見たわよ」

 お約束の展開にげんなりする。

 弥生さんはドアを出る前に一度、こっちを見て、母さんがいるのを見ると小さく頭を下げてそそくさと立ち去った。

「あの子、良さそうな子じゃない」

「同じクラスの子だよ」

「ふぅん? アキには一生ハル以外の女の子との縁なんてないかと思った。杞憂だったわね。あー、いいものを見た! 青春を摂取したわ」

 母さんはご機嫌で、迷わずハーゲンダッツのチョコレートを手に取った。僕も置いていかれないように抹茶を手にした。

 そう言えば彼女はマフラーも巻いていなかった。

 真っ白く細い首筋がひどく寒そうだった。家が近いのかもしれない。彼女にも暖かい家がある。

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