第16話 アンラッキーアイテム

 学校にはハルがいない。

 そもそも学年も違うし、学校も違う。

 ハルに会いたかった。

 僕の中になかったはずの、もやっとするものが生まれて数日経った。ハルに触れて感じた気持ちは、簡単に「これが恋なのかな」と思えるものではなかった。

 ドキドキとトキメキは僕には違うものに感じられた。

 一体、この今までとは違ってしまった新しいもやもやをどうしたらいいのか、持て余していた。

 そばにいたい。

 隣りに感じていたい。

 そういう思いは適切なのか、それに関する答えは見つからない。

 会いたい。直接会って確かめたい。

 それが心の中の核にある気持ちだった。


 ハルは相変わらず『漢文の授業は舐めない方がいい』とか『嫌いなヤツの後ろに座っちゃった。最悪』なんて予備校帰りの電車からメッセージを飛ばしてきた。

 僕はその度に『心しておく』とか『残念だったね』と短い返事をかえした。

 少し長いやり取りをすることもあったけど、一言ずつしか送らない時が多くて、たぶん、僕たちはそれだけで足りていた。たくさんの言葉は必要なかった。

『ここにいるよ』という言葉の裏付けに、僕は短いメッセージを送った。熱烈でもなく、冷静でもなく。

 メッセージが行き来することで、僕の存在を思い出してほしかった。

 ハルが寂しくなければいいけど、と薄い水色へと変わってきた空を見上げる。


 昼休み、いつもより人気のない教室のベランダで、ひとり、ハルのことを考えながら遠くを見ていた。その方向にハルの学校があるわけではなかったので、気分の問題だ。

 遠くに気持ちを送っている、ということが重要だった。

 でもこんなことをしなくてもきっと、ハルだってこの教室の中の女子たちのようにおしゃべりで盛り上がっているに違いない。

 ハルが虐められてボッチなんじゃないかと思うのはさすがに杞憂だろう。ハルが寂しい理由は多分、そこにはない。

 なんにもできない自分を情けなく感じていると、隣りに意外な人物がやって来た。僕は内心、仰け反った。

 それは件の菊池さんだった。

 菊池さんは少し頬を紅潮させて、落ち着きなく僕の方を向いて立っていた。言いたいことがあるようにも見えなかった。


「⋯⋯あの、なにかしたかな?」

「気分を悪くしないで聞いてほしいんだけど、わたし、あきらめたわけじゃないから」

「ええ!?」

 彼女はジト目で僕を見た。

 純粋無垢なイメージを持たせる、トレードマークの長い三つ編みの先を、また指先で弄っている。要するに彼女だって平常心ではないのだ。鉄の心があるわけではない。

 僕はその真意を確かめようと、彼女の伏せた目を見た。黒いまつ毛は長く、黙っていたら美少女なのになぁと惜しい気持ちになる。

 とは言え、そうだとしても僕にはハルしかいないが。その点については申し訳ない。僕の心はハルだけで、いつでもキャパオーバーだ。なにしろたったひとつだけど、年上の彼女の気持ちを読むのは難しい。

 そもそも女の子の方が情緒の発達が早いというのに。


「あのー、ほかに好きな人がいたっていうのはわたしにとって、すごくショックだったけど、それは雷みたいなもので、落ちてしまえばどこかに行っちゃうんだよ」

 そうか?

 雷に打たれたらしばらくなにもできないと思うんだけど。

「だからね、こう考えてみたの。もしも小石川くんが彼女と両想いじゃないなら、そうなる前に好きになってもらえばいいじゃないっていう結論。なので今日は一緒に帰ろうね。小石川くん、自転車だよね? じゃあ、教室から駐輪場までは少なくとも一緒に帰れるね」

 マジか⋯⋯。

 そのパレードみたいなものに参加させられるのか⋯⋯。

 絶望的な僕を残して、じゃあね、と彼女は教室に戻った。

 グループの女の子たちとハイタッチし合っている。「やったね」とか「偉い」とかこっちまで聞こえてきて、顔が上げられない⋯⋯。

 第一、僕みたいな冴えない男にそんなに執念を燃やさなくてもいいんじゃないか? エネルギー効率が悪い。


 予鈴が鳴って教室に入ると、佐野が近づいてきて「お祭りだな」と言われた。

「女子にとって恋愛ってのは、自分が主人公の小説みたいなものだからな」

「⋯⋯それ本気で言ってる?」

「知らなかったの?」

 笑いながら佐野は席に帰っていった。余計なことを⋯⋯。

 数学の道具を出して、ふと目を閉じる。頭の中をメロディーが流れてくる。

『エリーゼのために』だ。

 僕の恋愛は今、果たしてどの辺なんだろうか?

 跳躍的な部分? それとも考え込んじゃってる?

 それとも――静かな主題部分が足元を滑らかに流れているんだろうか?

 もしそうなら、それがいい。

 山あり谷ありより、僕たちはフラットな状態をキープしたい。それは、それ以上のことは僕にはハードワークだからだ。

 精神的に、僕はまだ大人ではない。

 恋に振り回されるところまで、まだうさぎ穴を落ちきっていない。まだその途中。

 もっともこの穴から今、戻ってこられる確証はないけど。

 離れているはずのハルが、くすりと笑った気がした。レンゲ畑の青臭い匂いが鼻を掠めた。


 予告通り、HRが終わると目の前に菊池さんが現れた。

「一緒に帰ろう?」とかわいく言ってきたけれど、その後ろ、少し離れたところに彼女のグループが集まって、皆、一様に悪意ある微笑みを浮かべていた。

 他人の恋愛を食い物にするような。

 少なくとも僕にはそう見えた。菊池さんには暖かい応援に思えたかもしれないけど。

 つまりスタートから憂鬱だった。

 前回と違って、今回は皆、僕たちの間に起こったことを知っている。すれ違う人たちにそう見られてる気がして、真っ直ぐ前を向けない。

 菊池さんは上機嫌で、今日、クラスであったことの総集編を話していた。女の子らしい抑揚のついたリズム感ある話し方は、気を抜くとBGMのように聴き逃しそうになる。

 僕は適当な男にならないように「うん」とか「おかしいね」とか、そんな言葉を会話に挟んだ。

 チーズバーガーのピクルスにはならなかったかもしれないけど、ケチャップくらいにはなったに違いない。

「でねー、お昼の話をしたらちえみちゃんがね」

 ちえみちゃんとは菊池さんのグループリーダーみたいな女子だ。

「うらやましい。そんな恋してるだけでうらやましいなぁって言ったの。だからわたし『苦しいだけだよ』って教えてあげたの。だって好きな人に自分以外に好きな人がいるなんて、どう考えても悲劇じゃない?」

 なるほど、これか。佐野が言いたかったのは。

 彼女は今、舞台の上の女優のようにスポットライトを浴びてるわけだ。


「ね? でも恋してるだけほかの子よりマシ。好きな男の子がいない子、多いもん」

「そういうことなの?」

「え?」

 そういうマウントなの? と本当は聞きたかった。

 それって好きとか嫌いの問題じゃないじゃん。

 菊池さんは僕の一言を、深く考えているようだった。どこで間違えたのか、わからないらしい。

「好きな男の子がいることが、もし菊池さんにとって大切なことなら、悪いけどほかの、もっと同じような考えの男を当たった方がいいよ。僕は好きな人がいるけど、そのことで誰かと比べて優劣はつけないから」

 彼女は階段の上の段で立ち止まったまま、なにも言わなかった。頭の中がまたいろいろな予想を立てているのかもしれない。

 でも僕は少なくともハルを好きな気持ちは皆に隠したい。話してしまったらもったいない。垂れ流して相談するのは、本当に深刻に困った時だけにしたい。

 大切な人を話の種にしたくない。


 その時、スマホが通知を告げた。

 ポケットからゴソゴソとスマホを取り出すと『射手座、今日のラッキーアイテムは傘』、いや、すごくよく晴れてるし。『アンラッキーなのは三つ編み。なんかおかしくない?』。

 ふふっと笑いを浮かべるハルの顔が目に浮かんだ。これから予備校なのかもしれない。

 電車の中なのか、歩きスマホなのか。まったく。

 射手座は僕の星座だ。

 アンラッキーなのは、三つ編み。

 まさに目の前にいる。

 当惑した顔をした彼女は、今までになく心細そうに「もしかしてすごい迷惑なの?」と訊いた。

 僕は唾を飲み込んだ。ド直球すぎて、どう答えていいのかわからない。

 ハルの占いはアンラッキーアイテムだけで、対処法は書いてなかった。

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