第10話 低空飛行
「ただいま」と言ってそのまま部屋に上がろうとすると、母さんがリビングから顔を出して「遅かったじゃない」と言った。
「ちょっと友だちと話してた」
なるほどね、という顔をして「アキ、お茶にするから手を洗ってらっしゃいよ」とリビングに引っ込んで行った。
友だち。
もう確定なんだろうか?
人は見た目によらない。あんなに大人しそうな見かけをしておいて。女の子ってそんなものなのか?
だとしたらハルも見えないところで僕の知らないところがあるってこと?
⋯⋯こんなに長く一緒にいるのに? 男女の違いってそんなに大きいか?
基本的に僕は自分とハルの心は繋がってるものだと思っていた。
もちろん電波の悪いこともあるし、不通になることもある。メンテナンスも。
でも基本的にはいつも繋がっているんじゃないかと。
それは学校で、塾で、部活でこんなことがあったとか些細なことじゃなくて、心の中の本質のことだ。
ハルという人間がどんな人なのか、僕はよく知っているつもりでいた。
「アイスコーヒー? アイスティー?」
「アイスコーヒーかな」
「アイスティーもいいわよ。ポーションタイプのを買ったんだけど、美味しいのよ。アールグレイ。香りもしっかりしてるし」
結局、どっちを選んでもそっちに誘導されるんだ。母さんはそういう人だ。本人はまったくの善意なんだろうけど。
今日は暇だったから焼いちゃった、と手作りの桃のタルトが出てくる。どおりでいい匂いがしたわけだ。
そんなに暇ならハルのお母さんみたいにパートにでも出ればいいのに、と思うけど、母さんはどうにも内気な人なので家にいるのが性に合うのかもしれない。
「ねぇ、ピアノの楽譜ってまだある?」
その瞬間、母さんの顔がパッと輝いた。
いそいそと席を立って、本棚の下の開き戸をあける。
そこには懐かしい友だちのような楽譜たちが並んでいた。
「弾くの? なに弾くの? 最初は指慣らしよね、久しぶりだもの」
「うれしいの?」
「ピアノを弾く息子が欲しかったの」
なるほど、だから小学生の時は多少嫌がっても習わせてたのか。
一冊ずつ手に取る。
不思議にそれぞれに思い出がある。どうでもいいと思って弾いていたのに。
「ちゃんと調律もしてあるわよ」
「うん」
僕は迷った末にブルグミュラーを手に取った。
基礎を終えた時にやる練習曲集だ。
その中の、一曲目をとりあえず広げる。
音符は幸いまだ読めた。でも不安になる。鉛筆の、先生の書き込みがいくつかあった。
カバーをかけられたピアノはきちんと磨かれていた。蓋に手をかけて、そっと持ち上げる。指を挟まないように、と執拗に教わったことを思い出す。
「笑わないでよ」
「笑わない、笑わない」
真ん前に座って、ここだ、という位置に椅子を調整する。高さに違和感がある。背が伸びたからだろう。
すうっと息を吸う。
モードを切り替える。
頭の中にピアノの世界を作る。
久しぶりに弾くと思うように指が動くわけもなく、たどたどしく弾き終える。
「すごいじゃない。ね、また習う? 母さん、ショパンとか好きなんだけど、まだ習い始めればすぐ弾けるようになるんじゃない?」
「⋯⋯そんなに簡単だとは思わないけど」
すごい、アキくん天才と母さんは喜んで手を叩いた。
子供の頃、七五三みたいな格好をさせられて舞台の上でお決まりの拍手を受けたことを思い出した。いつでも壇上から見える位置に、ハルがいたことを思い出す。
ハルはいつも無表情だった。
そして発表会が終わって皆でご飯を食べに行ったりすると、隣同士に座ったハルは小声で「上手だったよ」と耳打ちをした。
僕は耳から溶けてしまうかと思った。
母さんはタルトを二人じゃ持て余すんじゃないかしら、と心配し始めた。父さんは甘い物が苦手だ。
スミレちゃん、今日は丁度休みじゃない、となって、なぜか僕も助手席に乗る。タルトを膝の上に乗せて。
車内はちょっと冷房が効きすぎていた。母さんに言わせると運転席は暑いんだそうだ。それなら後ろに座ればよかったなと思いながら車窓から外をなんとなく眺めている。
「あれ、ハルちゃんじゃない?」と言われた視界の中にはハルらしい女の子と、日に焼けた背の高い男が歩いていた。
二人は並んで歩いて、時々、男の方が屈んでハルの顔を覗き込む。母さんはいやらしくスピードを控えめにした。
イラッとする。
ハルは笑っていた。
「ねぇねぇ、ハルちゃん、気付いてなかったわよね? 彼氏、イケメンだった? よく見た?」
「⋯⋯見ないよ。母さん、悪趣味」
「受験生なのに余裕あるなぁ。ハルちゃんはモテるよね、きっと。かわいくて、しっかりしてるし」
その言葉はもっと僕を苛立たせた。
ハルを『かわいい』と『しっかりしてる』の二つで表現してほしくない。もっとたくさん、いいところがある。
母さんはハンドルを持ちながらひとり盛り上がってたけど、僕はほとんど返事をしなかった。
思春期だと思わせておけばいい。
自分の母親とそっくりの人がいる慣れないリビングで、落ち着かない気持ちでソファに座っていた。この家にはどうにも馴染めない。
母親同士が似ているから、余計にそう思うのかもしれない。
行儀良くしていれば、母さんとスミレちゃんは勝手に盛り上がってるだろう。たまに降ってくる無茶ぶりを上手くかわせば問題ない。
二人が予想通り盛り上がってると、ハルが帰ってきた。
ハルは「ただいま」と家に上がると洗面台に手を洗いに行ったようだった。
嫌な予感しかしなかった。
余計なことを言われなければいいと思った。
言われて恥ずかしがるハルなんて見たくなかった。
「あ、サクラさん、いらっしゃい。車があったからそうかなって」
「タルト持ってきたの」
「うれしい。食べていいの?」
「もちろんよ。こういう時は娘が欲しかったなぁって思うのよねぇ」
よく言うよ。さっきは同じ口でピアノを弾く息子が欲しかったって言ってたのに。
僕は黙って、スミレちゃんの淹れてくれたアールグレイを飲んでいた。こういうところが双子なんだ。
「そう、聞いてよ」
ほら来た。知らないフリっていうのを母さんは多分、知らない。ハルの気持ちも考えてほしい。
「アキがね、ピアノを弾いたのよ。中学に入って初めて! ちょっと感動しちゃった」
「⋯⋯大袈裟」
すると僕の向かいに座っていたハルの目がパッと僕を捉えた。
「また始めるの?」
その目はなぜか意外にも期待に満ちていて、ガッカリさせたくない気持ちでいっぱいになる。
でも僕は自分で決めたことは翻したくないし、才能がないのに時間をかけるのは滑稽だと思っていた。
毎日二時間練習して、母さんの言う通りショパンを弾けるようになってもそれはただの自己満だ。
「やらないよ。僕だって受験生になるし」
「⋯⋯なんだ。わたし、好きだったよ、アキの弾くピアノ。上手く言えないけど、あれはアキの音だった」
上手だったわよね、とスミレちゃんまで言い出して、早くこの話題が終わればいいのにと心底思った。
指を傷めるといけないから、バスケのチームには入ったらいけないとか、レッスンがあるから早く帰らなくちゃいけないとか、僕には多くの不満があった。
体育の成績が低空飛行でも、体を動かしたいという衝動はいつでもあって、教室で過ごす昼休みは孤独だった。
でもハルがそう言うなら、なにか簡単で有名な曲を少し練習してもいいかもしれない。
ハルのためだけに弾くリサイタルだ。
「――なのよ」
ふっと自分の世界から戻ると、ハルが赤い顔をして俯いていた。母さんはにやにや笑っている。
スミレちゃんまでにこにこして「年頃なんだからいいのよ。親の出る幕はないわ」と言った。
ハルは余計に赤くなって、手に持ったアールグレイのグラスは微かに震えていた。
「⋯⋯つき合ってるわけじゃないから」
顔を上げると、ハルははっきり僕の目を見てそう言った。
「照れなくてもいいのよ。男の子らしい子で格好良かったし。アキに彼女ができたらわたしも複雑な気分になるのかなぁ」
スミレちゃんは「だからサクラは子離れしなさいよ」と言った。
「つき合ってない。ほんと」とハルは言うと、食べかけのタルトを残して部屋に行ってしまった。
「サクラ、そういうところ直さないとアキにも嫌われるわよ」
スミレちゃんに怒られて母さんは見てわかるくらいシュンと萎んだ。
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