インディアンサマー[autumn]

月波結

第1話 白いワンピースとブルーのアイスバー

陽晶ハルアキ』という名前はナンセンスだと、子供の頃からずっと思っている。


 そもそも春と秋は真逆の季節だし、なによりどちらも、なんだかもやっとしてはっきりしない。

 生まれたばかりの僕を『ハルアキ』にしようと言い出したのは実は父親だと聞いた時は驚いた。例の、学校で調べてこいと言われる名前の由来、アレで判明したことだ。

 父さんが言うには『陽』というのは文字通り陽の光を示し、『晶』というのは水晶のように光を通す透き通った心を表現したのだと言う。光のスペクトルを思い出させる。虹色の帯。

『陽晶』、自分でも実に落ち着かない名前だ。漢字のバランスが悪い。何度書いても腑に落ちない。

 けれどそう名付けられてしまったのでは赤ん坊に文句は言えまい。

 僕は多分、永遠に『陽晶』だ。改名しない限り。


 ――ひとつ問題があるとしたら、それはひとつ違いの従姉弟の名前が『千遥ちはる』だということだ。

 確かに文字は違うけど、歳もひとつ違いだし、紛らわしい名前は普通、避けるものじゃないかと思う。

 少なくとも自分ならそうする。

 自分の子なんだ。誰かの子供じゃない。オリジナリティのある名前を付けてあげたい。勿論、字の座りのいい名前を。

 だけどうちの両親はそんなことに頓着しなかったらしい。まぁ普通よりちょっと変わった親だとは思うけど。


 そんなわけで僕たちは『ハル』と『アキ』と呼ばれている。日の光がやわらかく差し込み生命力を養うのが千遥で、僕は次の芽吹きまでの休み時間を作り出す。

 なんて言えば聞こえがいいけど、秋より春がいいように感じるのはいわゆる隣の芝生効果なんだろうか?

 随分長くそのことを考えている。

 でもまだ答えが出ない。

 自分は日照時間がどんどん減っていく秋なんだと思うと、ちょっと切なくなる。ちょっと、だけど。


 そんな話を実はハル本人に話したことがある。あれは僕のアイデンティティが揺らいでいた中二の夏休みのことだ。

 夏はいい。

 僕とハルは隣同士で座っても、どちらの天秤に傾くことなく平行でいられる。安心感がある。


 ばあちゃん家の縁側で、緑色の渦巻き蚊取が細い煙をくゆらせていた。大人たちは夕飯の支度と、久々に会った挨拶の続きでごちゃまぜだった。

「ふたりで遊んでいなさいよ」と無理やり背中を押されて追いやられ「ちょっと」と言うと、「従姉弟分でしょう。少し話せばすぐに打ち解けるわよ」と気がつけば縁側だった。

 遊ぶと言っても、もう小さい子供じゃない。

 追いかけっこもしないし、かくれんぼもしない。

 昔は広い庭に出て、暑くても寒くてもかくれんぼをした。相手の考えをどう読むのか。つまり、ハルならどんな気持ちで隠れるのか、それを読むのが楽しくて、いつもワクワクした。

 多分、ハルも同じだった。

 僕たちの季節は真逆でも、気持ちはかなりいい線にシンクロしていた。

 それが、子供特有のものだったとしても。


 ハルは親戚の集まりという特別な場所だからか、珍しく真っ白なコットンの薄いワンピースに紺色の薄手のカーディガンを着ていた。

 いつもよりグッと女の子らしかった。

 肩までのパッツンした髪はいつも通りで、焼けた肌にうなじだけがほんのり白く見えた。

 そう、ハルはかわいい女の子だった。僕だけがそう思ったわけではあるまい。

 誰にでも気さくで友だちも多く、部活のテニスウェアもよく似合っていた。

 子供の頃に比べると、会う回数が少し減って、その分、彼女の違いに目が行った。

 ここが違う。あれも違う。

 たったひとつ違うだけなのに、女の子はどんどん変わっていくように見えた。その横顔がなにを考えているのか、わからない。

 水色のアイスバーを齧るハルの目が、いつもと同じダサい僕を見る。

 恥ずかしくなる。

 これっぽっちも筋肉なんてなく、流行りの髪型でもなく、夏なのに皆が履くようなハーフパンツを履く勇気さえない僕は、彼女の目線に少し怯んだ。

 言うなれば怖気付いた。


 そんな彼女は依然、凛としたまま、自分の左側に手のひらを置き「座って」と一言口にした。

 会う度に少しずつ女の子らしさを増していく彼女に、僕はいつも堂々とした態度は取れなかった。彼女は言わば『姉』だった。

 僕は蝉時雨の降り注ぐ、日当たりのいい庭に面した縁台にゆるりと腰を下ろした。座っているだけでも肌に日光が熱い。

 ハルはなにも言わなかった。

 また前を向いてアイスバーを口にした。確かに早く食べないと、溶けて取り返しのつかないことになる。きっとみんな大騒ぎだ。せっかくの白いワンピースが水色に染まる。

 しかし彼女はそういったことにまるで気にしない横顔を見せて、アイスを食べ続けた。そうして食べ終わると、手にアイスの汁がついたのか、ぺろりと手の甲をひと舐めした。

「あげる」と唐突に僕に棒を差し出し、戸惑っているとそこには『アタリ』という三文字が見えた。


 さて、と彼女はひと仕事を終えたという顔をした。

 瞳が輝き、僕の方をくるりと振り向いた。

「アキ、会わない間に声変わりしたでしょう?」

 思わぬ質問に、すぐに声が出ない。かぁっと耳の先まで赤くなるのを感じる。膝の上でぐっと手を握りしめ、下を向く。

 変わったのはハルだけじゃなかった。

 このところ珍しくあまり会わなかったんだ。僕だって変化する。

「背も伸びたよね? 成長期だもんね。いいなぁ、男の子は、成長期長くて。わたしなんか永遠に百五十六」

「うん」とよくわからない返答をして、ハルの身長を考える。そうか、百六十ないんだ。

 気がついたら僕の方が伸びていたのは知っていた。女の子の平均身長は知らない。

 でも百七十の僕は、百五十六の彼女の身長をかわいらしく思った。

 僕なんかにそんな権利はないんだけど。


「やっぱり手、洗ってくる。ベタベタだ。アキもそこに座るの、程々にした方がいいよ。蚊がすごいの」

 颯爽と立ち上がった僕の従姉妹のスカートが、座っていた僕の目線ギリギリ下で揺れる。

 うわーっと思う。

 石鹸の香りがした。これが女の子の香りだ。

「あー、もうやだ。やっぱり刺された。スカートなんてやめればよかった。痒い! ムヒあるかな」

 だから言ったでしょう、と誰かの声がかかる。ハルの足音がぺたぺたと遠のいていく。

 彼女の香りは一気にムヒの香りになる。言われなくてもそれは想像。ほんのひと塗りの軟膏で全体の香りが変わることはない。多分、石鹸の香りのままだ。

 足元を気にしたハルは僕を不意に見て、一言、「新しい眼鏡、似合ってる」と言い残しその場を去った。


 はぁ。

 よく考えてみたら僕からは一言も喋らなかった。ハルの言葉のひとつひとつに心が反応しただけだ。

 そんなんでいいのか、僕。

 確かにハルはひとつ上の従姉妹なわけだけど、もっと気さくに話してもいいはずだ。緊張なんて昔はしなかったのに。

 縁台に座ったまま、アタリ棒を眺めていた。

 アタリ棒のついていたアイスの、凍るような青を思い出す。それを齧る白い健康的な歯。

 白と青のコントラストにハルを感じる。夏空のようなハルを。

 ハルの体温を、乾き始めたアタリ棒に感じていた。

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