第29話 恋と愛

    *


 ヒイロが戻ってきたのは、それから一週間後の夜。

 アオから知らせを受けたベルは、毛布代わりにかけていた葉っぱを放り出してヒイロの部屋に向かう。言葉を考える時間の猶予はたくさんあった。何回も頭の中で謝罪の予行練習をしてきた。それでも廊下を羽ばたいて進んでいると、否応なしに心臓が早鐘を打つ。それまでは冷静に考えていたことが吹き飛んでしまいそうだ。

 途中でアカとアオに会って話を聞くと、移住計画の報告が終わったところとのことだった。今ならヒイロは一人。二人で話ができる。

 ベルは出入口から部屋の中を覗く。ちょうどヒイロと目が合ってしまい、驚いて顔を引っ込める。再びおずおずと顔を出し、バツの悪さに小さな声で話しかける。

「お帰りなさい……」

 間が悪かった。机で書き物をしているヒイロがふと顔を上げた瞬間だった。覚悟をしてきたはずが、きょかれたベルは最初に何を話すか分からなくなってしまった。

「……大丈夫だった?」

 頭をフル回転させて出てきた言葉の中身のなさに自分で落胆した。

「つつがなく」

 ヒイロはペンを置き、姿勢を正す。いつもと変わらない態度だ。ベルは少し安心をする。

——ちゃんと話さないとダメ……!

 自分を鼓舞こぶし、喉を鳴らしてから今度ははっきりと喋った。

「話があるんだけど、時間ある?」

 ヒイロは机の書類を揃え、ペンと合わせて端に置いた。

「訪問の記録をつけていただけだ。今聞こう」

「じゃあ……この前のことなんだけど、わたしの態度よくなかったなって。他にも謝りたくて——」

 ぽつりぽつりと話し始めるベル。

 ヒイロはそこで手のひらを見せて「待った」の仕草をする。

「おいで」

 静かな部屋に溶ける優しい声。差し出される手。ベルは花の蜜に誘われる蝶のように近づいていった。

 ヒイロの部屋は居住するに不都合のない程度の家具が置かれた簡素な部屋だ。多くが木製でできている。ここに住み始めてそれほど時間は経っていないというのに、書類棚には羊皮紙が積まれている。一般的な魔族の特徴からすると、随分と几帳面に思える。

 ベルは初めてヒイロの部屋に入った。話すときは出入口の外からだった。妙に緊張する。男性の生活臭が落ち着かない。

 ヒイロは机にクッションを置き、ベル用のクッションを作る。ベルを手のひらに乗せ、そこにそっと乗せる。

「そんなに気落ちする必要はないぞ」

「ううん! わたし、こっちの常識を知らなくて、失礼なことをしちゃった。他にも気がつかないだけでしてたかも……。ごめんなさい」

 ヒイロは考える素振りを見せて、細い息を吐く。

「こちらこそ、すまなかった。お前を悩ませてしまった。私はお前の真心が嬉しかった。あえて水を差す必要はないと、黙っていたことがあだになったな」

 冷淡にも見えてしまう端正たんせいな顔が、眉尻が下がって申し訳なさそうにしている。

「謝らないでっ!」

 ヒイロは誠心誠意謝罪している。それに比べ、刺繍をしているときに、ベルは少し浮かれていた。心からの謝罪を前に、自分の心が酷くよこしまに思えて情けなくなる。

「ヒイロは悪くないもの……。夫婦なんて勘違いされたら、普通は気分が悪いよね。ごめん」

 ベルが俯くと長い耳も下がる。無知な自分を恥じて涙が出そうになる。

「ベル」

 ヒイロは両手をベルを囲むように置いた。

「気分が悪いなどということはない。むしろ光栄に思った。お前のような直向ひたむきで優しい者に栄誉を与えられて」

 その眼差しは真っ直ぐで熱がこもっている。ベルだけを見つめていた。

「わたしはそんなんじゃ……」

 ベルは頬を赤らめて慣れない視線に戸惑う。刺繍を贈ったときと同じ、言い表せない感情が胸の内にある。それを受け入れていいものか迷った。

 ベルの身体は小鳥のように小さい。身長は少し伸びたが、体型は凹凸がないままだ。子どもの身体とも違う。一切の性を感じさせないような作りになっている。自然の化身のような存在だからだろうか。以前の想い人には、女性として見られていなかったはずだ。あのときは悲しいばかりだったが、今思えばそれも仕方がない気がする。

 だから、今渦巻いている感情を認められない。自分とは関係ないものと思ってしまう。前回みたいに傷つきたくはない。ベルが自分の気持ちに蓋をしようとしたとき——。

 ヒイロがベルを両手ですくい、顔の高さまで持ち上げた。

「——ベル。どうか怒らないで聞いて欲しい。お前が感情を吐露とろするとき、様々な表情を見せるとき、どうしても私には愛しく思えてしまう。離れがたいと願ってしまう」

 目に火花が散るとは、このことだった。今まで抑えていた感情が吹き上がり、涙となってぽろぽろ零れ出した。止めようと思っても、止められない。

「ふ…………っ……」

 口から出た一声。それがきっかけで子どものように声を上げて泣き始めた。涙を抑えようと両手で顔を覆う。それでも感情は止まらない。

「ベル、すまない。泣かせるつもりでは……」

 ヒイロの声が動揺している。

「ち、ちがうの……」

 勝手に出てくる涙の合間に、ベルはつっかえながら言葉を紡いだ。これだけは誤解されたくない。

「わたしっ、う、嬉しいの……。こ、こんなわたしに、愛しいだ、なんて……っ」

 涙で濡れた顔を見せ、震える口の端を何とか持ち上げて笑みの形を作る。不恰好かもしれないが、今できる精一杯の笑顔だ。

「ベル……」

 ヒイロもベルを包み込むような温かい笑みを浮かべて顔を近づける。

「共に生きよう。私の妖精よ」

「うん……!」

 ベルは少し顔を上げて目を瞑った。唇に柔らかいものが触れる。そこから身体中がじんわりと温かくなる。怖がっていた感情を受け入れた途端、幸福感に満ち溢れた。

——女神様、これが愛ってことなの……?


 *****


 棚に山となって積まれている書類を見たベルが感嘆の溜息をつく。

「こんなに沢山の書類を作って、働き者なんだね」

 座っている場所はヒイロの肩だ。

「というわけではない。人間から魔王と言われていたときからだ。様々なところから書状は来るし、全体を把握しなければならなかった。私一人の問題ではないから、間違いがあってはならないと思ってな。紙に記すことで思考の整理もできる。習慣化したようなものだな」

 書類棚を真っ直ぐに見つめる横顔に、ベルは強い責任感を見出した。やはり王の素養がある。

「わたし、言葉は生まれつき話せたけど、文字は教えてもらってないから分からないの。今度、教えてくれる?」

 頬に手を当てて茶目っ気のある顔で笑うベルに、

「我らの言葉は学ぶのに百年以上かかるが、たっぷり時間はある。計画が成功したら始めよう」

 と言って、ヒイロは小さな額に唇で触れた。

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