第23話 幽玄渓谷の当主

 穏健派の長老との会談の日、ベルとヒイロは身なりを整えて出発の準備をしていた。ベルは手製の足元までゆったりと包んだワンピース。ヒイロは詰襟つめえりのような服の上に黒のショールを羽織っている。

 側近二人は最後までついていくと言っていたが、ヒイロはそれを許さなかった。隠れ里を守る役目を与えられると、渋々と二人は身を引いた。

 血気盛んな魔族ゆえに穏健派と揉めてしまう可能性があるから、とヒイロはベルに耳打ちをした。ベルはそれを聞いて二人に草花の世話を頼むことにした。新しい仕事を二人は誇らしく思ったらしい。争うようにして水を組みに行った。子どもたちも笑いながら追いかけていった。


    *


 穏健派が集まっているのは、北の山岳地帯だという。険しい山々が広がり、まるで自然の要塞のようになっているらしい。例によって人間が足を踏み入れない場所だ。

 ベルとヒイロはロックに乗り、一時間かからずに穏健派の巣窟へと到達した。断崖絶壁の高所に入口はあった。魔力のない人間であれば、ロッククライミング方式で登るしかない場所だ。

 入口には槍を持った牛頭の門番が二人立っていた。彼らは訪問客に鼻息を荒くしていたが、ヒイロの顔を見ると不満気味に親指を立てて奥を差す。

 岩場をくり貫いた細い道は長く続いており、様相は峡谷の隠れ里に似ている。ヒイロは臆することなく足を踏み出した。

 それを睨みながら見送る門番に、ヒイロの肩から顔を出したベルが小さくお辞儀をする。門番は槍から手を放しそうになるほど驚いた様子。目を丸くして小さな妖精を見ていた。

「これから幽玄渓谷の当主を始めとする穏健派の者たちがいるが、怖がらなくていい。みな敵ではない。それに妖精ならば、丁重に扱われるだろう」

 ベルはヒイロの肩に乗せられ、物珍しそうに内部を見ている。岩肌が剥き出しで、魔族の荒々しさを表しているよう。明かりがないのは、夜を司る魔族は夜目が利くからだろうか。ヒイロは暗くても足元を気にする様子はなく、凹凸がある床を歩いてみせた。

 途中いくつか分かれ道があり、必ず武器を持った守衛が立っていた。守衛たちは無言で行くべき道を指差す。誰もが仏頂面だが、ヒイロの肩に乗るベルに気がつくと驚いていた。

「彼らの態度を不快に感じるかもしれないが、これでもかなり親切な方だ」

「そうなの?」

「基本的に我らは攻撃性の高い種族だからな」

 そう答えるヒイロの顔は理性的だ。ヒイロは再会してから攻撃的な部分をベルに見せてはいない。魔族の特徴とは無縁に見える。

 やがて通路の奥深くに木製の扉が現れた。高さ二メートル半ほど。少し大きめの扉だが、規格外というわけでもない。扉の向こうの主はこの扉を日常的に使用しているはずだから、見上げるほどの巨体ではなさそうだ。

 ヒイロが扉を叩く。「荒野の偉大なる捻れ角の一族の主だ。約束通り参じた」と名乗ると、「ああ、入るがいい」とベルの想像より若い声が返ってきた。

 部屋は魔族の強者とは思えない簡素なものだった。一般人の個人部屋程度の広さに、机、椅子、ベッドなど最小限の家具が置かれている。

 部屋の奥にロッキングチェアを揺らす者がいた。他には誰もいない。ということは、これが穏健派の主導者ということになる。

 齢八千歳を超える老齢とは思えないほど若々しい。人間でいうところの壮年期に見える。肉体は筋肉が盛り上がり、働き盛りを思わせる逞しさがある。顔は彫りが深くはっきりとしていて自信に満ち溢れた印象。髪は毛量がある長髪のオールバック。ベルは獅子のようだと思った。誇り高い獣の王のような威厳を感じる。

「よくもまあ来れたものだな小僧」

 長老は椅子に座ったまま、口端を持ち上げ、挑発的な顔をした。

 ヒイロの肩に乗っているベルには、間近で深く息を吸う音が聞こえた。次の瞬間——。

「これはこれは……。まだ隠居されていないとは驚いた。去り際を見誤ると、過去の栄光に泥を塗ることになるぞ」

 目を釣り上げて長老に負けず劣らず威を示す。両者は一歩も引かずに視線をぶつけ合う。まるで龍と虎の関係だ。ヒイロの「攻撃性の高い種族」という言葉はすぐに証明された。

——敵じゃないって言ってたのにっ……!

 焦ったベルはヒイロの肩から飛び降り、宙に浮かびながら口を開いた。

「初めまして。今日はわたしも会議に参加させてもらってもいいですか?」

 緊張で顔が強張り、喉が閉まる。二人の気を逸らすつもりだった。けれども、思ったよりもか細い声が出てしまった。相手に聞こえただろうか、と不安になる。

 それはベルの杞憂きゆうに過ぎなかった。長老は息をするのを忘れたかのようにベルを凝視している。

 ヒイロは元の冷静な表情に戻り、歯切れよく言った。

「私の命の恩人だ。我らと同じく創造神より使命を承った光の者も、この場に同席するのが道理というもの」

 いまだに「命の恩人」という言い回しには違和感があるものの、ベルはヒイロの言葉に従って頭を下げた。

「信じられん……。まだ大地に妖精を生み出す力があったとは」

 最初は驚き、やがて何かを考えるように天井を見上げる。「そうか」と呟いてから、長老は大口を開けて笑い始めた。岩壁に反響し、空気が振動する。

「あやつら捉えどころがないとは思っていたが、この局面で隠し球とは……」

 どこか懐かしむ笑み。始めの豪胆な印象に温かさが滲む。細めた目に皺が寄り、ベルに懐かしさを感じさせる。

——あ……。

 前世で何度も見た祖父の慈愛に満ちた微笑みに似ている。長い年を経た者が若者に対して浮かべる表情。若くは見えるが、確かに高齢者なのだろう。

「……おじいちゃん」

 意図せずベルの口から小さな言葉が零れ落ちる。慌てて口を押さえた。いくらなんでも場違いすぎる言葉だった。ヒイロにも長老にも声が届かなかったらしい。聞き返されることはなかった。

 長老に亡き祖父の面影を見たベルから肩の力が抜ける。強力な魔族であっても恐れることはない。

「まず、わたしの話を聞いてくれますか?」

 今度は滑らかな声が喉から出た。ヒイロに倣って魔族の覇者を堂々と真正面から見据えたのだった。

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