次の小目標
「二日も過ぎている……」
信じられない、といった様子で新聞を眺めているとルミカは至って呑気に切り返す。
「そういえばまだ言ってなかったね。いやはや、人間どこまで疲労すれば丸二日も寝られるのやら。まあ、ジェイから聞いた話よりもずっと過酷な道であったことはわかるがね」
エリーゼと出会い、王都を出てから常に緊張という重荷を背負い、一睡もせずに彼女を護り続けた。
それでも、ラトスの力だけでは護りきれなかった。
己の不甲斐なさを思うと今すぐにでも自らの首を斬ってしまいたい。
だんだんと記憶が鮮明になってきた。
ラトスたちを追い込んだゼタの顔が浮かび上がり、また怒りがぶり返してくる。
「ゼタ……俺たちを追い込んだ男は、必ずまたやってきます。それに本軍もなにか理由をでっちあげてダリアに入国してくるはずです」
「その件で昨日報道がありました。近いうちに両国陸軍が軍事演習をするそうです。カーローンへの牽制が目的か、それとも……まあこればっかりは考えてもわかんねえっす」
「ならば一刻も早くダリアを出なければなりません。なにかリスタルシアに行く方法はありませんか」
「まあまあ落ち着いて、先に注文をしよう。アタシのおすすめは」
「俺は急いでいるんです。こんなところで呑気にしている時間など」
「落ち着け、と言っている」
声音を下げてルミカが睨む。
その言葉で自分が思っている以上に焦りが前に出ていたことに気づき、両の拳を緩める。
「……すみません」
焦燥に駆られ、不安に煽られている理由はわかっていた。
己の感情がわからず混乱していた時も、罪悪感に苛まれていた時も、救ってくれたのは他ならぬエリーゼの存在。
彼女が隣にいないことがこれだけ不安になるなど、想像すらしていなかった。
「ここはもうロスィカではないし、アタシたちは君を通報しようだなんて少しも考えていない。少しは気を緩めてみたらどうだ」
「いいえ。未だ治療中のエリーゼを差し置いて俺は呑気に観光などできません」
「……はぁ。ジェイ、これは重症だな」
まったくです、とジェイコブもまた煙草に火をつけて答える。少なくとも誉め言葉ではなさそうだ。
「別に忘れろと言っているわけじゃない。
ただ、今の君は初対面のアタシから見てもいろいろなものを背負いすぎている。
君にとってはまだ目標にたどり着いていないのかもしれない。けれど今、こうしてロスィカ脱出という小目標を達成した。まずはそれを喜んでもいいんじゃないかな」
ラトスは答えない。決して背負っているとは思っておらず、むしろこれが自身のやりたいこと……願いなのだと自覚している。
無理をしているつもりなどはない。だが……
小目標を達成した。ルミカの言葉に感化され、じりじりと肩を焼いていた熱が消えていった。
「少なくともダリアにいるうちはアタシが身元を保証しよう。安心したまえ、これでも一派閥の中ではそれなりの地位がある。アタシを糾弾できる者などそういない」
「俺にはわかりません。逃亡の時も今も、流浪者同然の俺たちを何故助けるのですか」
疑問だった。ルミカ・モノクロームの狙いが見えない以上、不用意に彼女の手を借りることはできない。
気づかないうちに彼女の作り上げた罠に嵌り、自分の身もエリーゼも護れなくなった、では取り返しがつかない。
ラトスの問いにルミカはわざとらしく考える仕草をし、手を叩く。
「君のことが好きだからさ」
驚きのあまりラトスは声が出ない。隣のジェイコブは煙を吸ってむせていた。
「好意を抱かれるようなことをした覚えはありませんが」
「冗談だよ。まあ理由はいろいろあるけれど、職業柄普段関わるのは魔術にしか興味のない変態ばかりでね。そうでない人間との交流はアタシにとって貴重なんだ。つまらない論文の揚げ足取り合戦や、協会内の派閥争いなんかよりもずっと面白い」
いまいち共感することができず渋い顔をしていると、ルミカの指が向けられる。
「もうひとつは、君と同じ目をしていた人を知っているからだよ。とにかく頑固で決めたことは絶対に曲げない真面目すぎる人をね」
「その人の願いは、叶ったのですか」
「どうだか。叶ったといえば叶ったし、そうでないともいえる」
嘘と真実が混じり合った気配を感じた。
直感に任せた部分は多いが、おそらくこれまでまったく見せなかったルミカの心からの言葉。
それを問おうと身を乗り出したが、都合よく店員が割って入ってくる。
三つのティーカップと一切れのケーキだけ置いて立ち去ったものの、会話は見事に途切れてしまった。
「まずはそれでも飲んで気を鎮めたまえ。紅茶の香りは心を落ち着かせてくれるよ」
差し出された紅茶を口に近づけると、どこか嗅ぎ慣れた匂いがして動きを止める。
ロスィカにあった喫茶店でも似たような匂いを感じたことがある。
同じ茶葉なのか、それとも似ているだけの別の品種なのか定かではない。
かつての王都での暮らしが脳裏を過ぎる。
当時はなんとも思わなかったこの香りが今は懐かしいとすら感じられて……ほんの僅かにラトスの頬が緩む。
「しかしまあ、随分お姫様にご執心だね。一緒にいるうちに恋でも患ってしまったのかな?」
「いやいや姐さん。ふたりを見るに惚れてんのはお嬢の方ですぜ」
「こい、ですか……」
特定の個人に好意を持ち、結ばれたいと願う気持ち──恋。
もちろん知らない単語ではない。しかし日常の中ではまず現れない言葉で、ラトスは理解するのに時間を要した。
ラトスの世間上の性別は男。決められた相手と婚姻関係を結び、非公表の婿と子どもを授かることしか許されていなかった。
生涯恋と無縁であったラトスは、幼少からより一層遠ざけられていたように感じた。
エリーゼと恋をする。それはきっと素晴らしいことなのだろう。
「俺にその資格はありません」
「何を言う。もう一般人となった君たちは誰と結ばれてもいい。恋愛がどうだのと咎める人はいないさ」
好きな人と結ばれることも自由の一つ。エリーゼも似たようなことを言っていた。
『護れない貴方に、私の傍にいる資格はあるのかしら』
──夢に出てきたあれはエリーゼ本人ではない。わかっている、それでももし……目覚めた彼女に同じことを言われたら。
それに、ラトスは未だ女性であると告げられずにいる。
時間が経つほどに打ち明けづらくなるなど、考えたこともなかった。
世間の語る恋など、俺に許されるはずがない。
「咎められなかったとしても、エリーゼが俺に好意を抱くことはないでしょう」
「旦那、それ本気で言ってます?」
「はい。なにか間違ったことを言ったでしょうか」
真剣に答えたつもりだったが、ジェイコブは目を逸らし、深く頭を抱えてしまった。
対するルミカは堪えきれないといったにやけ顔でラトスを見ており、つい声音を下げてしまう。
「おかしなことがあれば仰ってください。俺はそういった察しが悪いらしいので」
「いやいや、今の君にいうことはないよ」
わざとらしく音を立ててティーカップを置き、ルミカは真剣な面持ちを作る。
「よし。ではラトス・オーメルン、君に一つ目の依頼を授けよう」
依頼。つまり逃亡の援助から治療に至るまでの清算となる。
ジェイコブの言葉を借りるのなら、命は金で買えない。
どれだけ危険で無謀なものだとしてもラトスに拒否する選択肢はない。エリーゼに危害を加えない範囲であればいくらでも協力する。
それだけの覚悟を以て、ルミカの次の言葉を待った。
「今日一日、君はアタシの助手になってもらうね」
「…………はぁ」
意図が理解できない。なんら前触れもなく予想の中にもなかった提案に、ラトスは唖然とした。
心から出た疑問の声は、今まででもっとも間の抜けた声だったかもしれない。
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