生業

 時刻は零時を回った。

 辺りは不気味なほどの静けさが支配し、足音だけが鮮明に聞こえる。


 指定された宿屋には明かりがついておらず、扉を押せば木の擦れる甲高い音が響いた。


 がらんどうとした内装の中に、ぽつんと一つの影が映る。

 ランタンに火が灯り、暗闇にエンデンの姿だけがはっきりと照らされる。


「時間通りだね。さあ、好きに寛いでくれたまえ。ここは宿屋なんだから」


「……とてもそうは見えないが」


「金は払っている。今日は僕とエリーゼと、まあついでに君のために貸し切ったのさ」


 ランタンを手に持ったまま、エンデンは両手を広げて宣言する。


「さっき決めたことだが。僕は正式にエリーゼと婚姻することにしたよ。ああもちろん、彼女の名前を出したら僕諸共処刑されてしまうから非公表でね」


「エリーゼ様の意見は聞かないのか」


「なにか勘違いをしていないか。

 婚姻とはいったが、実際は彼女が完全に僕の所有物になるということさ。

 外に出れば衛兵に追われ、捕まれば無残に殺されるに決まっている。

 そんな彼女が僕に依存する以外どうやって生きるというのだ。

 ああ、僕の麗しいエリーゼ。僕という世界でもっとも安全な鳥かごの中で共に生きようではないか」


 ラトスが今まで相対した罪人の中に、稀に正気を失い、精神に異常を来たしてしまった者がいた。


 彼はその様子に近い。何が彼をそうさせているのか……

 ともあれ、誘いに乗らなくてよかった。


 彼の手に渡れば、エリーゼの望む未来は潰える。

 いっそ無視してしまいたいが、こうして再び相対した以上、避けることも難しい。


「ところで……二人で、と伝えたはずだが」


 恍惚とした面持ちから一転、眉間にしわを寄せ、今にも噛みつきそうな表情を見せる。


 ラトスは至って無を貫き、淡々と言う。


「エリーゼ様は別の宿屋で休まれている。ここには来ない」


「あのさ、僕は君になんてこれっぽっちも興味ないんだよ。はっきりいって気に食わない。僕のエリーゼを盗んだ泥棒と対等に交渉しただけでも、僕は慈悲深い方だと思うんだが」


「憎まれることには慣れている。元より俺の仕事は奪うことだからだ」


「……本当に、エリーゼを渡す気はないんだな」


 ラトスは首肯する。対するエンデンは……笑い転げた。


 痛々しいほどに大きく、まるで喜劇を鑑賞しているかのように。

 ランタンが地面に落ちて割れた時、ピタリと笑い声が止んだ。


「バカだな君は。本当にバカだよ。冷静に考えてみなよ、アールハイド工業の子息が一生援助してくれるんだぞ。これ以上の贅沢がどこにあるのさ」


「では問おう。お前のいう鳥かごに入ったとして、エリーゼ様は自由でいられるのか。他国を巡り、さまざまな景色や文化に触れることはできるか」


「必要ないだろう。安全、平穏、不変が一番に決まっている」


「だからエリーゼ様は来ないのだ。身の程を知れ」


 我慢の限界、といった様子だった。

 怒りに震える手をラトスに向け、吠える。


「人殺し風情が……婚約者を奪っただけでなく、僕を愚弄する気か!」


 叫び声に呼応するように、各部屋からぞろぞろと傭兵が飛び出してくる。おそらく彼の雇った私兵だろう。


 入り口さえも塞がれ、ざっと目に映るだけでも十数人。見てくれはバラバラで装備の質もそれぞれ。


 どれも知っている武器だった。最先端の魔術を用いたらしいそれは見当たらない。


 安心した。ならば負ける確率はないに等しい。


「殺せ!」


 ラトスが丸腰だと一目でわかる。意気揚々と振りかざしてきた最初の一撃。


 不快な金属音。互いが擦れ合い、暗闇の中に火花が散る。


「ナイフ? いったいどこから⁉」


 袖から抜いたナイフで一撃をするりと受け流し、喉下に一閃。


 斬った傭兵と視線が交錯する。

 何が起こったのか、彼にはわからなかったのだろう。

 喉から勢いよく血が溢れ出しており、急速に遠のく意識の中でラトスを睨んでいた。


 生温かい返り血を浴びた瞬間、ラトスに刻みつけられた記憶が想起される。


「今はもうその名を語れないが、俺は死神の代行者として罪人の首を斬ってきた。命を奪う者として、そして法の剣として、あらゆる力に負けるようなことは断じてない……そう簡単に殺せると思うなよ」


 ラトスが今まで受けてきた訓練。それは人を殺すためのあらゆる知識と技術を身体に叩きこむことだった。


 人体を理解し、脆い部分を熟知する。最小限の動きで相手の命を奪う方法を会得している。


 時には陸軍学校に通い、純粋な武力を養ってきた。

 雨が降ろうと槍が降ろうと、襲撃に遭おうと逃走を謀られようと、処刑台の上で必ず罪人を処刑するためにすべてをこの身に刻みつけた。


「なに見てんだ、早く殺せよ!」


 エンデンの声に操られるように、次々と傭兵が襲ってくる。


 刃を躱し、斬る。


 背後に迫る影にナイフを投げつけ、額に突き刺す。


 胸ポケットから新たに取り出し、斬る。


 銀色に輝き流れる斬撃は吸い込まれるように傭兵の首を掠め、鮮血を誘発する。


 ああ……そうだ。最初からこうすればよかったんだ。


 俺がこの人生で得てきたものは、人を殺すための技術と知識のみ。

 もはや懐かしさすら感じている。


 俺は人を殺すしか能がない。

 しかしどうだろう。こうして邪魔者を排除することがエリーゼ様の自由に繋がるのなら、これ以上なく役に立っている。


 そうだ。俺は彼女の役に立ちたい。

 それがようやく得た、俺の意志。


 彼女のためならば、こんな軍人にもならないゴロツキ程度。


「死神の名において、貴殿の魂を地の底へと還す」

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