八、王都の姫(三)

 王都城に天守閣は無い。代々王家が住むこの城は、戦に巻き込まれたことが無いからだ。敵を早期発見するための、やぐら代わりの天守閣は、作る必要が無かったものと言われている。

「相変わらず広い城ね」

 大手門を潜った宝劉は、城内を眺めて大きく息を吐く。

「久し振りだし、迷子になりそうだわ」

 そう言いつつ、確かな足取りで本丸に向かう。内堀を渡って門を潜り、庭園を抜ければ本丸御殿だ。

 舜䋝に戸を開けさせ、宝劉は家の敷居をまたぐ。

「ただいま帰りまし……」

「宝花!」

 抱きつかれた。

「久し振りだな、元気にしていたか? 無事に帰ってきてくれて何よりだよ。相変わらずかわいいなぁ」

 矢継ぎ早に言葉をかけられ、髪を撫でられて、宝劉は苦笑する。

「お久し振りです、兄様」

「ああ、その声を聞くのを、どれだけ待っていたことか。かわいい宝花、もう手離さないからね……」

 少々妹至上主義じみたこの男性こそ、宝劉の兄、飛劉である。

「道中、いろいろあったと聞いたが、怪我は無いか? 怖い思いはしなかったか? 本当に無事でよかった。お前にもし何かあったら余は……」

「陛下」

 後ろから強めの声をかけられ、飛劉はびくっとする。

「妹君とは言え、年頃の女性に突然抱きつくとは何事ですか。私は陛下をそんな変態にお育てした覚えはありませんよ?」

「れ、澪香、これは不可抗力だ。宝花があまりにもかわいいから、つい……」

「ついも何もございません。まったく、いつの間にやら布団を抜け出して、お身体の具合が悪くなったらどうします」

 澪香と呼ばれるこの男性は、飛劉の側近だ。

「さあ、布団にお戻りください。今日は朝から熱がおありでしょう」

 宝劉に一礼して、妹にくっつく主を引きはがし、飛劉を廊下の向こうに引っ張っていく。

「宝花、また後で部屋に来ておくれ。ゆっくり話そう」

 そう言いながら、飛劉は手を振って廊下の向こうにさらわれていった。

「……兄様、細くなったわね……」

 笑顔で兄を見送った宝劉は、眉をひそめてそう呟く。二年以上前から病弱ではあったが、ここまでやつれているとは思わなかった。

「もっと早く帰ってきた方が、良かったかしら……」

 宝劉は少し、寄り道や余計な事をして帰りが遅れた事を後悔した。

「殿下、マダじぃにも、ご挨拶なさった方が良いかと」

「そうね。行きましょう」

 三人は、本丸御殿の後ろにまわる。裏庭にある大きな池に、マダじぃは住んでいる。

「マダじぃ、いらっしゃいますか?」

 池の縁に立って呼ぶと、手前の岩に一匹の大山椒魚がのそのそずりずりと現れた。

「おお、宝劉、帰ったのだな」

 宝劉が生まれる前からここにおり、当たり前のように人語を話す。まだら模様のおじいちゃんなので、マダじぃと呼ばれていた。

「はい、ご挨拶にまいりました。お変わりなくお過ごしでしたでしょうか」

「おお、おお、もちろん元気にしておったぞ。お前さんも、元気そうで何よりじゃわい」

「ありがとう存じます」

 宝劉は満面の笑みを見せる。マダじぃと話すのは久しぶりだ。

「滞在していた里は、どうじゃったかの?」

「はい、とてものどかな所でした。里の皆さんも私に優しくしてくださって、平和な時間を過ごせました」

「そうかそうか」

 マダじぃは、小さな丸い目を動かす。

「おぬしにとって良い場所であったなら、何よりじゃ」

「はい」

 こうして宝劉に心を配ってくれるのも、嬉しい事だ。それもあって、宝劉はこのマダじぃを好いていた。

「旅の方はどうじゃ? 何やら誠家が動いておったようじゃが……」

「ご心配、ありがとう存じます。私には優秀な家臣たちがおりますから、何とかなりました」

「そうか、それは良かったのう」

 少し旅の話などをして、三人はその場を去る。大山椒魚は、あまり長く水から出ていると乾いてしまうため、マダじぃとの長話は難しい。

「やっぱり、マダじぃってかわいいわよね」

 鴬張りの廊下を歩きながら、宝劉が頬を緩める。

「大きい口と、つぶらな目がすごくかわいいわ。のっぺりしてて、手足が赤ちゃんみたいなの。もうたまらないわ」

「左様でございますか」

「そうですか」

 嬉しそうな宝劉に、彩香と舜䋝は何とか言葉を返す。正直、大山椒魚の何がどうかわいいのか、まったく分からなかった。でもまあ、宝劉が楽しそうならいいか、という感じである。

「さて、兄様の所に行きましょうか」

「ええ」

「はい」

 飛劉の部屋は、城の奥まった場所にある。万が一賊が入って来ても護れるように、と言うのが大きな理由だが、単に国王本人が、この部屋を気に入っているというのが大きい。

 妹君の部屋が近くにあるからであろうと、城の中では噂をしていた。

「兄様、宝劉です。参りました」

「宝花!」

 部屋の中から嬉しそうな声がする。

 小姓に襖を開けさせ、宝劉が顔を見せると、飛劉は満面の笑みで妹を迎えた。

「宝花、よく来てくれた」

 笑顔の反面、歓迎する声は弱々しい。側近、澪香の手を借りて布団から起きあがり、咳を一つした。

 澪香に差し出された白湯を飲み、一息ついて宝劉に向き直る。

「その顔を、もっと近くで見せておくれ。相変わらずかわいいなぁ」

 髪を撫でられ、宝劉は苦笑する。

「その言葉、先程もお聞きしましたわ、兄様」

「そうかい? でも、妹には一秒ごとにでも、かわいいって言っていたいじゃないか」

「ありがとう存じます」

 飛劉は妹を撫でる手を止めない。

「怪我をしたりはしなかったか? 怖い目にあったりはしていないか? 旅の道中、大変だったと聞いている」

「はい。大きな怪我はしておりません。怖い事も……特には無かったかと」

「ならば良い。無事に帰ってきてくれて嬉しいよ」

「私も無事に帰ってこられて、嬉しいです」

 その時、部屋の戸を叩く音がした。

「何です?」

 澪香が尋ねる。

「はい、誠に恐れながら、陛下に至急のご報告がございます」

 声の主は、どうやら国の重臣のようだ。

「入れ」

「はっ」

 政治に関わる重臣が入ってきた途端、飛劉の顔つきが変わった。

 眉は凛々しく上がり、眼は静かな光を帯びる。口元にも知性と威厳を湛え、背筋も伸びて雰囲気が変わる。

(あら……)

 その様子に、宝劉は思わず姿勢を正す。王の気品と威厳に、部屋の空気が変わったのを感じた。

(相変わらずね、兄様も)

 変態じみたシスコンでも、病弱な身体で床に臥せっていても、この人は王だ。一国を肩に背負い、その頂点に立つ者として、今の飛劉は相応しい空気をまとっている。だから自分は、この兄を自慢に思うのだろうと、宝劉は感じるのだった。

「どうした、宝花。疲れたのか?」

 重臣が出て行くと、飛劉は優しい兄に戻った。

「疲れたのだな、かわいそうに。長い旅路であったゆえなぁ。疲れていてもかわいいが、その脚が痛むのは、余もつらいぞ」

 ついでにシスコンにも戻った。

「ええ、すみません。少し旅の疲れが出たようです」

 宝劉は兄の言葉に甘え、退出する事にする。

「自室へ戻って、休ませていただいてもよろしいですか?」

「もう行ってしまうのか……?」

 飛劉は目に見えてしょんぼりする。

「兄様、私は帰ってまいりましたから。これからはまた、お傍におります」

「そうか」

 飛劉の表情が明るくなる。

「また、余の部屋に来るが良い。いつでも歓迎する」

「はい、ありがとう存じます。それでは」

 宝劉は軽く頭を下げた。

「ああ、そうだ」

 そう言って、立ち上がろうとする宝劉を呼び止め、飛劉は再び王の気配をまとう。

「よく帰った、宝劉」

 王の言葉が自分に向けられるだけで、どうしてもこうも身が引き締まるのか。

 言葉にならない不意の緊張に、宝劉は三つ指をついて応じたのだった。

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