六、騒街の姫(一)
その街に足を踏み入れた途端、宝劉は微かな邪気に気付いた。はっきりとしている訳ではないが、確かに空気が違う。
「何かあったのかしら」
愛馬の上で眉を曇らせると、隣を歩いていた彩香が首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「ええ、ちょっとね」
どうしたものか。
この程度、神様のちょっとした不機嫌かもしれない。供物が気に入らなかったとか、背中がかゆいのに手が届かないとか。
しかし、もし大事の起こる前兆だったら? 邪気が一定以上になると、その神は闇に心を呑まれて邪神になってしまう。そうなると、この街どころか朱倭国全体が、大変な事になる。
蟻の穴から堤も崩れると言うし、気になる事は解決しておく方が良いだろう。
「少し邪気が漂っているようだから、寄り道するわ。このまま真っ直ぐ進んでちょうだい」
早く宝劉を城に帰したい従者たちは不満そうな顔をするが、神に関わる事とあっては無下にできない。
邪気を辿る宝劉に従って馬を進めていくと、大きな神社に到着した。立派な鳥居と社の屋根は朱く塗られ、地面には砂利が敷かれている。
「ここね」
宝劉は馬を降り、一礼して鳥居をくぐる。家臣たちもそれにならい、一行は砂利を踏んで境内に入った。
参道を歩いていると、庭の掃除をしていた神官が紅の髪に気付いた。
「こんにちは」
彩香が声をかける。
「宮司さんを呼んでいただけますか?」
神官は一礼して、奥の方へ駆けていった。
手水舎で身を清め、拝殿の前で待っていると、宮司が出て来た。白い髪と、温厚な顔つきをしており、優しそうな印象を受ける。
「ご挨拶申し上げます。私が、この神社の宮司でございます」
深々と頭を下げて自己紹介すると、宮司は一行を社務所へ案内した。
「馬は、そこの者にお預けください。責任をもってお預かりいたします」
「頼みます」
舜䋝が二頭の馬を神官に渡し、五人は社務所の中に入る。
神官に茶を淹れてもらうと、さっそく本題に入った。
「実は、この付近に邪気が漂っているようなのです」
彩香が言うと、神官たちは顔を見合わせた。
「何か、心当たりがおありのようですわね」
「はい」
宮司の話によると、この神社には長い事、毎日参拝する者がいた。心願成就したのか、最近はその姿を見た神官はいない。
「関係があるのかは分かりませんが、心当たりがあるとすれば、そのくらいです」
「なるほど」
彩香は宝劉に向き直る。
「いかがいたしましょう」
「そうね、ご本神にお話をうかがいたいわ」
「承知いたしました」
宮司に向き直り、彩香は言葉を続けた。
「本殿にご案内いただけますか。殿下が、神様とお話ししたいそうです」
「はい、今すぐ」
宮司は一行を神社の奥に案内する。
「こちらが拝殿と幣殿、奥が本殿となっております」
「ありがとうございます」
青空の下、社は堂々と鎮座している。邪気は確かに、本殿の方から漂ってきていた。
「さて、じゃあみんなはここで待っててちょうだい。ちょっと行ってくるわ」
神社の本殿に入れるのは、劉家と神官だけと決まっている。いくら宝劉の付き人といえど、本殿の中に立ち入ることはできない。
「行ってらっしゃいませ」
「気を付けてくださいね」
「何かあったら、すぐ呼んでくださいねー」
「ここで待機しております」
四人に見送られ、宝劉はひとり本殿に向かった。
「失礼いたします」
挨拶して扉を開ける。神は奥のご神体の方を向き、床に座っていた。
「劉家の者か」
大きな角を生やし碧い肌をした人型の神は、振り返らずに訊く。
「はい。宝劉と申します」
邪気の源は、間違いなくこの神だ。宝劉は改めて気を引き締めた。
「旅の途中、この街へ入りましたところ、微かな邪気が漂っておりました。何か大事がおありかと思い、参った次第でございます」
「……そうか、私はそんなに邪気を発していたか」
神は静かに、宝劉の方を向いて座り直す。
その両眼は、かたく閉ざされていた。
「百日参りをした、盲目の男がいた」
神は語り始める。
「その男は、正に百日間、この神社に来た。日照りの時も、荒天の時も」
だから、神はその願いを叶えた。一度でいいから、愛する妻と子の姿を見たいという男の願いを。
「三日という約束だった。三日後の、月が南の空へ上る前に、ここへ眼を返しに来るのだと、約束した」
しかし男は来なかった。
「もう、今日で十日になる。探し出そうにも、眼を貸した今の私では、どうにもならぬ」
神との約束を破るというのは、人と神とが作り上げてきた信頼を裏切る行為だ。
「私は、怒っているつもりはなかった。明日になればきっと、と我慢しているつもりだった。しかしそれだけ邪気を発しているとなると……私は怒っているようだな」
自分の感情に気付いた神の口調が変わった。怒りは邪気を増幅させ、宝劉をたじろがせる。
「怒りをお収めください。私たちが、その男を探し出しますゆえ」
「誠か?」
「はい。ですからどうか、もうしばしお待ちください。貴神の眼を、取り返してまいります」
「……分かった」
神は静かに言った。
「彼の者の名は、連孝という。必ず、眼を取り返してほしい。頼むぞ」
「御意」
本殿から退出した宝劉は、大きく息をついた。
この神社に寄って良かった。どうやら街に漂っていたのは、絶対に無視してはいけない邪気だったようだ。
「おかえりなさいませ。いかがでしたか?」
彩香が主人を出迎える。
「仕事よ。残念だけど、この街にしばらく滞在する事になりそうだわ」
宝劉は神と話した事を家臣たちに伝える。
「それは……大事ですね」
舜䋝が眉をひそめる。
「俺たちだけで見つかりますかねぇ」
燿は気楽に構えているように見えるが、声には余裕がない。
「必要になったら、街の役人も動員しましょう」
空鴉が冷静に言った。
このまま放っておく事はできない。神から眼を借りた男を、探さなければ。
とりあえず、まずは宿に旅の荷物を置いて身軽になりたい。
「この街には本陣があったはずです。行きましょう」
舜䋝がそう言って、神官から馬を引き取って来る。
近くの駐在所に居た役人に案内させ宿に着いた頃には、もう陽が傾き始めていた。
「男性の捜索は、明日からにいたしませんか」
馬から降りる宝劉に手を貸しながら、彩香が言う。
「もう夕方ですし、殿下もお疲れでしょう」
「そうね」
宝劉は了承する。
「明日から、あの神社を中心に男の家を探しましょう。百日参りができたんだもの。そう離れてないはずよ」
「御意」
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