理想の自分 ワクチンX 桂望実 実業之日本社

 もしも自分の欠点を補うように性格を変えられる薬があったら……。

 性格補強ワクチンが実用化されている世界を描いたこの小説。

 脳の神経細胞に作用して、決断力や思いやりなど希望する補強したい性質の発現を促すワクチン。けれどそのワクチンの効果は永続的なものではなく、20年を目安に効果が切れてしまいます。その効果は大きく、人生を変えたいと思う者にとってはなくてはならないものになっていました。

 物語は最初にワクチンができてからちょうど20年を迎えるときに、ワクチンの主成分である細菌が死滅し培養できなくなるという危機から始まります。

 ワクチン接種第1号で、効果が消えてしまうことを恐れるワクチン製造会社ブリッジ社長の翔子、彼女の夫や社員たち、モニターとして20年前にワクチンを打ったクライアントたちを通して、ワクチンの効果は果たして本当に有益なものだったのかどうかが描かれていきます。

 この物語は、その人らしく生きるとはどういうことなのかを問うていると思います。

 ワクチンによって補強される性格は、その人の中に全くないものではありません。人なら大抵持ち合わせている性質ばかり。それらの性質の何がより強く表に出、何が弱く表れるのか、それこそがその人を形作る個性と呼ばれるものでしょう。神経質だったり大らかだったり気が強かったり弱かったり。

 誰だって多かれ少なかれ自分の性格が嫌になることはあります。もう少し楽観的になれたら、もう少し強気に出られたら、もう少し甘えられる性格なら……。

 誰もが様々な自分への不満と折り合いをつけながらうまく生きていくしかない。

 もしそれをかえられますよ、と言われたら?

 けれどそれは確かに「私」であるといえるのでしょうか?

 ワクチンのモニターたちは20年を振り返り、ワクチンを接種してよかったとは思うものの、やはり「何か」を失っていたことに気づき同じワクチンを入れようとは思わなくなっています。なんとなく、その20年が自分のもののように思えないのではないでしょうか?翔子自身も成功を追い求め成功を失わないようにあがきますが、それは果たして翔子自身の本当の望みだったのでしょうか?

 ワクチンの影響が消え、本来の自分に立ち返ったとき、翔子は意外な決断をします。

 綺麗にまとめすぎな結末とも思えますが、そこで語られる翔子の言葉から、あの後、彼女が彼女自身として彼女の人生と向き合ったことがうかがえるのです。

 嫌になって捨ててしまいたくなるようなこともある「自分」だけど、いわば借り物の「自分」で幸せになろうとしても、手に入る幸せも借り物なんじゃないでしょうか。

 そこには「私」の人生がないから。どうしようもなくてもいやでも私は「私」で生きていく他ないのだから。

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