とある2人の話

もりおか

第1話:解散しよう


   

「お前さ、結婚したりしねぇの」

 思いがけない問い掛けに俺はペンを置いた。タクヤさんはこちらを見ずに小さな水槽で懸命に泳ぐメダカを眺めている。ネタで話したことはあるが、そういう類いの話を聞かれたのは、コンビを組んでからこの5年間で初めてのことだった。

「タクヤさん、予定あるんですか」

 そう聞き返すと、彼はフッと笑ってそれ以上何も聞いてこなかった。なんだったんだと思いながらも、俺はまたペンを取ってネタを書き始める。

 若手お笑い芸人の頂点を決める漫才グランプリ「No. 1」。結成してから毎年出場していたが、初戦敗退が続き、一昨年は2回戦で敗退。去年は3回戦へと進めたのに、俺がインフルエンザにかかったことにより出場を棄権していた。今年こそはなんとしても決勝進出、そして優勝杯をタクヤさんに持ってもらいたい。そのためにも、今までのネタではなく、何か新しいものを書き上げなくては。そう意気込んでバイトもそこそこに、毎日ネタ作りと練習に励んでいた。

 今日のタクヤさんはいつもと違って無口だ。俺の家へ来るときは、タバコが吸いたいだのビールが飲みたいだのと騒ぎ立てるのに、なんだか気味が悪い。

「帰るわ」

「え?」

 メダカに餌をやっていたかと思えば、もう玄関で靴を履いてる。ジャケットを肩にかけると、そのまま出て行ってしまった。丸投げかよ、と呟いたところで当の本人には届かない。俺は大きくため息をついて、温くなったコーヒーをガブ飲みした。


 タクヤさんは天才だ。ダイダイタイタイの漫才を初めて見たとき、全身に鳥肌が立ったことを覚えている。相方の水島さんがボケるとどっと笑いが起きるのも、全てはタクヤさんのツッコミが逸脱していたからだ。抑揚、呼吸、テンポ、全てのリズムが彼から生み出されている。この人はお笑いをするために生まれてきたんじゃないかとさえ思えた。解散してピン芸人になったときも、この人はこのまま上へ行くと俺は確信していた。

 だから、しばらくぶりに見かけたタクヤさんが俺のジムへやってきたときには正直驚いてしまった。

「お前、中田か?」

 声を聞くまで俺はその人が誰なのか全く気付かなかったのだ。無精髭を生やし、ヨレヨレのTシャツ、ぷっくりと出たお腹。これが養成所時代に憧れていたあのタクヤさんだなんて到底思えなかった。

 そういう俺自身もこのとき、芸人とは名ばかりで週6でジムのバイトをしていたわけだからそれをとやかく言える状態ではなかった。相方の佐々木ともうまくいかず、ただ毎日を忙しく過ごしている日々だった。この日に再会しなければ、今の俺は存在しなかったことは間違いない。俺のお笑い人生は全てこの人のおかげだ。だから、あの言葉を聞く日がくるなんて、考えたこともなかった。


 バイト帰りに電話で呼びつけられた俺は事務所へと足を運んだ。扉を開けると、タクヤさんが窓の外を眺めながらタバコを吸っていた。マネージャーは気まずそうにソファーへと腰を掛けている。

「No. 1の結果発表が事務所へと届きました。結果は残念ですが……」

 そうですか、と言って俺は頭を下げる。初戦敗退。2回戦に上がることもなく、俺たちが考えた渾身のネタは多くの人の目に止まらなかった。また次頑張りましょうと笑って励ましてくれるが、それに明るく返せるほど俺の心は強くはない。

 2人で事務所を後にすると、その足でいつもの居酒屋へと向かった。事務所から徒歩10分。焼き鳥が一本60円の激安飲み屋だ。事務所にくるときはなんとなく2人で寄って酒を交わした。だから今日もいつものようにだらだらと酒を飲んで時間を潰した。珍しく仕事の話は一切しなかった。

 千鳥足のタクヤさんを帰すのが不安で、俺はいつものように自分の部屋へと連れてきた。靴を脱がせてベッドへと寝転がらせる。

「飲み過ぎ」

「今日は抑えたよ」

 どの口がそんなことを言ってんだよ、と言い返すとタクヤさんは声を出して笑った。俺は、ジャケットを脱ぐと冷蔵庫から麦茶ポットを取り出してそのまま口を付けた。飲み干すと箱から麦茶のパックを一つ入れて水道水を足す。

「やめよっか」

 タクヤさんは背中をこちらにむけてだらしなく横たわっている。なんのことだか分からず、彼の背中を見つめた。

「もう、やめよう」

 

 ーー俺と漫才しないか?


 あの時と同じトーンだ。真剣な眼差しで俺の肩をつかんで言ったあのときと。

「なに、言ってんすか」

 シンクに麦茶をドンと置くと、タクヤさんはゆっくりと起き上がった。

「お前も今年28歳だし、バイトとライブで毎日しんどいだろ。彼女もそろそろ結婚したいって思ってんじゃないのか」

 突然のことに彼が何を言っているのか全く理解ができなかった。いや、理解したくなかっただけなのかもしれない。

「俺もそろそろ32になるし、潮時だと思うんだわ。お前のこと、このまま付き合わせるわけにもいかないしさ」

 そう言うと、胸ポケットからタバコを取り出して火をつける。煙が天井に向かってゆっくり伸びていた。

「お笑いやめようと思ってたし、良い機会だと思うんだ。お前も彼女との将来、ちゃんと考えてやった方がいい」

 笑顔を浮かべながらもタクヤさんはこっちを見ようとしない。嘘をついているのはバレバレだった。お笑いのために生まれてきたようなこの人が、それを辞めたいなんて、そんなこと本心から言うはずがなかった。そう、言わせているのは俺だ。俺のせいだ。

「芸歴ももう少しで10年、ムッキーズも5年やったし、俺はそれなりに満足してる。今日もお前とこうやって酒が飲めて、嬉しかったよ」

 灰皿を持っていくと無言で差し出した。やれやれという仕草をして彼は火を消す。と、同時に俺はタクヤさんの胸ぐらを掴んで叫んだ。

「俺は、1ミリも満足してません!あんたがお笑いなんて辞めれるとでも思ってんのか?お笑いのためだけに生きてるようなあんたが」

 彼は何も言わずにただ俺の目を見つめていた。俺が泣いていたからだ。

「あんたとお笑いをするためだけに生きている。俺はタクヤさんを上に、絶対に頂点へと連れて行く!だ、だから…」

 声が裏返る。今までずっと思っていた感情がドバドバと溢れでてきた。子供みたいに恥ずかしげもなく大粒の涙を流して鼻水も垂らしてる。きっと誰にも見せたことがないくらい泣いている。でも、絶対に彼へ伝えたかった。

「だから、俺と死ぬまでずっと漫才をやってほしい」

 いや、言い方が悪い。もはやこれは告白、プロポーズだ。そういう意味で言ったんじゃない。上手く言葉が出てこない、だめだ、俺もおかしくなっている。

 タクヤさんはひとまず落ち着けと俺をなだめる。ようやく手を離すと隣に腰をかけた。こんなに泣いたのは20年ぶりくらいかもしれない。

「急にすみませんでした。でも、俺はそれくらいタクヤさんのお笑いが好きなんです」

「そっか」

 そう言うと、彼は照れ臭そうに俺の肩に手を置いた。

「お前のこと誘ったのは俺だから、俺の人生にこのまま巻き込むのは悪いと思ってたんだ。そんなことなかったんだな」

 俺は無言のまま頷いた。

「お前の人生の中に、俺がいたんだな。ありがとう」

 そう言って、俺の肩をポンポンと叩く。

「俺も、ずっとお前と漫才がしたいよ。死ぬまで」

 タクヤさんは顔を赤らめながら微笑んだ。俺はもう一度頷くと手を差し出した。彼は手を取ってそれをギュッと握り返す。

 友情、それとは違う何かで俺たちは結ばれている。だから怖がっている暇なんてないんだ、これからもう一歩踏み出そう。そう思った。





「ちなみに、こんな時まで、俺に彼女がいる設定で話すのやめてください。いないの知ってるでしょ」

「そうだったっけ」

 

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