3章 夜をわたる
第12話 葉桜のカケラ
元カレの結婚報告ほど、いらない報告はない。
とりあえず、わたしはSNS上に表示されているハートマークをタップした。
『結婚することになりました』というコメントと婚姻届の写真に、わたしの『いいね』がついた。
長い溜息を吐いて、スマートフォンをカバンに潜り込ます。ちょうど、降りるべき駅で電車のドアが閉まったところだった。
最悪。
わたしは、もう一度溜息を吐き出した。
大丈夫、大丈夫。
全然、大丈夫。
自分に言い聞かせてみる。
実際、元カレと別れたのはもう半年も前のことだ。半年も前のことに傷つくなんておかしくないか。いや、待てよ。付き合って半年も経たずに結婚?
もう一度スマートフォンを取り出して、元カレのアカウントを開いた。彼がフォローしている中に、絶対嫁がいるはずだ。
二百人ちかいフォロワーの羅列をスクロールして、ふと指を止めた。
何やってるんだ。わたし。
こんなことしたって、むなしいだけなのに。
元カレの
いつかこういう日がくるって、なんとなくわかっていたのだ。ただ、自分から切り出さなかっただけ。
けれど、その後の言葉がわたしを打ちのめした。
『なんていうか、重いんだよね』
続けてメッセージが送られてくる。
『恵理はさ、自分がないっていうか。一緒にいて、楽しくない』
むかつく、男。
重いとか、楽しくないとか、果ては自分がないって何様?
湧き上がってきた感情を、ゆっくり呼吸することで抑え込む。
怒りは六秒も続かないらしい。だから、六秒耐えればいいとかなんとか……。SNSで見たような気がする。
『そっか、さよなら。またね』
またね、なんて嘘だけど。もう絶対、あんたみたいな男とは付き合わない。だって……。
だって、努力してきたわたしが、可哀想じゃない。
電車が地下のトンネルに入った。窓に微かな水滴がついている。雨が降り出したのだろう。
ゴウンゴウンとうなるような電車の音は、わたしの感情に似ている。
今でもわたしの中に残る「どうして?」という感情。擬音で例えるなら、もやもやだ。
どうして自分がその感情を持ったのかわからないし、どう処理すればいいかわからない。自分でもわからない感情を、どう他人に話せばいいというのだろう。
このまま誰もいないアパートに帰る気がしなかった。かといって、どこかのバーに入ってお酒を飲む気分でもないわたしは、とりあえず終点まで向かう。
終点の街は、海が見える街だ。
わたしとあの子が出会った場所。
電車の振動の中、目を閉じる。
今でも忘れられない光景がある。
目の前に現れるのは、葉桜の木。その下で泣き出しそうな顔をしてわたしを見つめる、すみれの姿。
紺色のセーラー服。学校指定のかばんを握りしめている。海風が吹いて、わたしたちのスカートを順番に揺らした。
「どうして恵理ちゃんは」
小動物みたいな目を潤ませて、すみれは言った。
「私なんかと仲良くしてくれるの?」
その光景が忘れられない。
今でも目の奥の方が熱くなって、奥歯を噛みしめて「ばかだね」って叱ってやりたくなる。
改札を出ると、やはり雨だった。
霧が舞い降りてくるみたいな、雨。春も終わりだなって、わたしはなんとなく思った。
折りたたみ傘をさして、すみれの働く雑貨屋に向かう。普段から、こまめに連絡を取り合っているわけではないけれど、すみれとは高校以来ずっと一緒にいる仲だ。
うわべだけの友達とは違って、すみれと一緒にいると何故だか落ち着く。だから、少しだけ、ほんの少しだけ、今日傷ついたわたしは、すみれに会ってこのもやもやを吹き飛ばしたいと思ったのだ。
雑貨屋ポラリスは、まだ十八時だというのに扉の前には『CLOSE』の看板が出ていた。
わたしはスマートフォンを取り出して、すみれに電話をかけた。
トゥルルル。トゥルルル。
この電子音は、思い出したくない過去を呼び寄せる音だ。
トゥルルル。
──重いんだよね。
トゥルルル。
──自分がないっていうか。
トゥルルル。
──『結婚することになりました』
トゥルルル。トゥルルル。トゥルルル。
早く電話に出て、お願い。
軽いめまいを覚えて、電話を切った。溜息をつく。
「どうして?」
涙が出たのは、すみれが電話に出なかったからじゃない。もやもや感情のせいだ。
目を閉じれば、葉桜の光景。
両手で顔を覆った、高校生のわたしが泣いている。
「どうして? 好きになって欲しいだけなのに。どうして?」
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