4

もう止めて、と、光はもう一度口にした。

夢の中で喋っているみたいに、唇は上滑りした。

 「俺が母親じゃないことくらい、和巳さんだって分かってるだろ。」

 涼の視線が痛かった。これまで一度も裏切ったことのない幼馴染だ。こんな目を見たことはこれまでなかった。

 わかっているよ。

 和巳が呟いた。

 その声はごく小さかったので、傍らの光にしか聞こえなかっただろう。

 秋の夕風が吹いていた。その透明な涼しさは、光を妙に物悲しくさせた。

 だから、これまで口にせずにいた言葉が、勝手に喉から転がり出てきたのだ。

 「分かってるくせに、俺に母親を重ねるのは卑怯だよ。」

 びくりと、目に見えて和巳の肩が弾んだ。

 光はそれを悲しい気持ちで見ていた。

 重ねてほしくないと思う。母親ではなく自分を見てほしいと思う。けれど、光が玲子に全く似ていなかったら、和巳はここまで光に執着しはしなかっただろう。

 白い肌と、酷薄な感じのする切れ長の目。薄い唇と細面な輪郭。そのどれもを、光は玲子から受け継いでいた。

 そしておそらくは、体内の冷たさや変温動物みたいな雰囲気までも。そうでなければ、光はここまで観音通りの売れっ妓にはなれなかったはずだ。

 光の頬に、熱い感触が伝った。

 それが涙だと分かるのに、数秒を有した。

 光はそれを手のひらで拭うと、帰って、と和巳の背中を押した。

 帰ってよ。もう二度と顔も見たくない。

 和巳はよろけるように一歩、前へ進んだ。そして、もう一歩。

 そして短い沈黙の後、和巳は光に手を伸ばした。

 光はその手を振り払った。

 また短い沈黙があって、その後和巳はくるりと踵を返し、光に背を向けた。

 去っていく、和巳の後ろ姿。

 そこに光が手を伸ばしたのを見たのは涼だけだったし、光の目から涙のしずくがはらはらと散ったのを見たのも、彼が崩れ落ちるようにアスファルトにしゃがみこんだのを見たのも涼だけだった。

 その場から光が立ち上がるには、数分を有した。

 光がうずくまり、やがて立ち上がる姿を、涼はタバコに火をつけ肺に紫煙をくゆらせながらずっと見ていた。

 すっくと地に足をつけて立った光は、まだ涙の跡が揺れる両目で涼を見上げた。

 とんでもないことを言われるな、と、涼の勘が騒いでいた。

 光はかすかに笑っていた。そして笑ったままの唇で、ひどく蠱惑的な声を出した。

 それは、街灯の下で客を引くときに出しているのであろう声音で。

 「涼。一緒に死んで。」





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