第六話 それとも現実か
「…………ぁ、はぁ、はぁ……」
目を覚ました僕は、運動した後と同じくらい呼吸が乱れていた。
僕はゆっくりと身を起こす。
額、首、背中……。汗をかける場所であろうありとあらゆる部位がじっとりと濡れている。その感触が先程まで見ていた光景に再び僕を引き摺り込んできそうだ。
——どうせ皆大人になれないんだから!!
——私は、巡より×××の方が良かった。
——じゃあね。ばいばい。
脳内で佐久桃花の言葉が、一言一句違えずに再生される。
あのときの彼女の絶望、怒り、悲しみ、憎しみをそのまま含んで。
僕はベッドから降りられないまま、膝を抱えて両手で顔を覆った。すると、ひたりと生温かい液体の感触が手に伝わった。額の汗が落ちてきて顔を濡らしているのかと思ったが、どうやらそれは涙のようだ。
夢を見て泣くなんていつぶりだろうか。そもそも泣いたことなんてあっただろうか?
…………いや、待て。
これは、本当に夢だったのか?
それとも、現実なのか?
現実だとしたら、今日は夏休み初日。
昨日あの場面を見てしまった後、僕は一体どうやって帰ってきて今日に至るのか?
夢だとしたら、今日は夏休み前々日。
夢の中で夢を何度も見ていることになる。そんなことが果たしてあり得るのか?
いや、こうやって思考している今も、夢だったら?
僕は確認するためにスマートフォンを探した。いつも置いてあるはずの枕元にはない。寝ている間に落としてしまったのか、床に転がってしまっていた。ちゃんとカーペットを敷いてあるから画面は無事、のはずだ。
ベッドから身を乗り出してそれを拾い上げる。目に映った手は、見てとれるくらいに震えていた。
そして、画面をタップして今日の日付、現在の時刻を表示させる。
それを見たくてスマートフォンを触っているはずなのに、画面が点く前に何故か僕はぎゅっときつく目を瞑ってしまった。
「…………は、……はぁっ、はあっ!」
上手く呼吸ができない。
心臓の鼓動が全身に響くくらい、どきどきとうるさく鳴っている。
額から眉間、頬、首を伝う汗。
目を閉じたことで零れ落ちてくる涙。
Tシャツの下で、背中をたらりと垂れる汗の感触。
あのときの彼女と同じくらい、しっとりと濡れている手。
力を込めすぎて瞼の裏で弾ける色鮮やかな火花。
どうか、夢であって。
全部、全部。
何度も繰り返し見た同じ場面も、彼女が自殺してしまうということも、「何をやったって意味がない」と叫んだ彼女の絶望も。
僕はゆっくりと目を開けた。
画面はまた暗くなってしまっていたので、もう一度画面に触れる。
7月26日。夏休みの前々日。
「夢か………………」
呟いた声は溜息混じりで、部屋の中の重くずっしりとした空気に溶けていく。
僕はベッドから降りて身支度を始めた。
精巧に作り込まれた夢——それも、何度も同じ場面が繰り返されるというものを見たからか眠っていたのに体や頭が休まった気がしない。どこか意識がぼんやりとし、手足に重い枷が付いているかのように動きが遅くなる。僕はまだしたことがないからわからないけれど、徹夜をした後はこういう感じになるのだろうか。
目覚ましをセットしている時間より30分も遅く目覚めてしまったから本当は急がなければならないのだが、テキパキと動くことが出来ない。
今日はアラームが鳴ったような気がしなかったのだが、夢の中の夢と同じように無意識に止めてしまっていたか、それとも昨晩セットし忘れたかのどちらかだろう。
疲労からか脳が甘いものを欲している気がする。僕はキッチンに向かうとミニクロワッサンをオーブントースターに放り込み、温めている間に制服に着替え荷物の準備をした。
チン、と軽快な音を立てて焼き上がりが告げられる。僕は皿に乗せたクロワッサンを立ったまま頬張った。行儀が悪い、と心の中で善意を持った僕が注意してくるが、大丈夫だよどうせ僕しかいないんだから、と怠惰な僕が答える。
牛乳をぐびりと一気飲みして胃に流し込むと、僕は歯を磨いて口を濯ぎ、それから荷物を持って家を出た。
通学路にはちらほらと学生の姿が見える。時間的には、このまま歩いて行ったらホームルームにギリギリ間に合うくらいだろうか。
学もいるだろうか、と目を凝らしてみたがそれらしき人の姿はない。もしかして今日の僕、学より遅いのだろうか。
せかせかと早足で歩く。
歩いているときは意外と気にならないものだが、信号などで立ち止まるとぶわっと汗が噴き出してくる。
今朝体を伝っていたじっとりとした汗とはどことなく違っていてさらりとしている、ような気がした。どちらにせよ気持ちの良いものではないことに変わらないのだが。
汗を拭いながら学校まで辿り着いた。
廊下を歩いていると、扉の隙間から漏れたエアコンの冷たい空気が微かに漂っていて外よりは涼しい。
自分の教室の扉を開け、席に着いたところでチャイムが鳴った。本当にギリギリだったのか。後で学辺りに「寝坊したのか」とでも聞かれそうだ。……いや、彼はこの後のテスト返しで頭がいっぱいか。
担任がホームルームを始め、連絡事項を話している間、僕はちらりと佐久桃花を盗み見た。
仲の良い幼馴染。疎遠な仲。恋人。
夢の中で関係がころころと変わっていたからか、この現実ではどのような間柄だったのかわからなくなってしまっている。
なんて、呼んでいたっけ。
佐久? それとも桃花?
ぼーっと見ていたら、視線を感じたのか彼女と目が合ってしまった。
「…………ぁ」
「……」
ふいっと逸らされてしまう。
目が合ったときに笑いかけたりするような間柄ではないらしい。
僕も一度は顔を前に戻したが、再び彼女を盗み見る。
すると、
——ごめんね。
不意に頭の中に、夢の中の彼女の言葉がよぎる。
ごめんね、って何が?
夢の中の登場人物の台詞なんて、現実離れしていたっておかしくはない。
それなのに、どうしてこんなにも引っかかるのだろう。
夢の中で夢を見る、というのを何度も繰り返したから?
夢が妙に精巧で、匂いや汗の感触、太陽の眩しさなどが鮮明に残っているから?
僕はファンタジー小説などは普段読まない。
それなのに、とんでもなく現実離れした考えが浮かんでしまっていた。
もしかして、今まで見ていた夢は夢ではない?
全部現実で、この7月26日から27日をループしている、の、か?
佐久桃花が自殺した場面を見た、もしくは自殺したことを知った直後に毎回目が覚めている。そして安堵する。夢で良かった、って。
ひょっとして、彼女がこの何度も同じ日付を繰り返す世界を創っているのか?
自殺することによって、タイムリープを引き起こしているとしたら……?
夢ではないのだとしたら、彼女は自殺の恐怖とか痛み……いや、それどころではない、尋常ではない苦痛、最早拷問と言っても良い恐ろしい感覚を何度も味わっていることになる。
一体、何故。
何度も何度も、自分を殺してまで?
彼女は何のために、そんなことをしているのだろうか。
ただの夢だ。不思議な、少し現実に近いけれど、でも現実ではないただの夢。
そう思うことが出来なくなっている僕は、あの世界に取り込まれてしまったのだろうか。
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