不老翔太郎の混戦
美尾籠ロウ
第1話「逆転の図工」第1部
九月一日になった。つまり、小学校の最後の夏休みが終わってしまった、ということだ。
これまで六回の夏休みを体験してきた。けれど、そのなかでいちばん短い夏休みだった気がする。
酷暑の八月から一日過ぎたからと言って、すぐさま秋になってくれるわけじゃない。昨日と変わらず、太陽の力は猛烈過ぎるほど猛烈だ。
形だけの始業式のあと、教室に戻ると担任の
「よしっ!」
と一声放ち、一人満足気にうなずいた。夏休み明けの挨拶はそれだけだった。満足しているのは、萱場先生だけだ。そしてそのあとは、すぐに二学期の行事予定などの業務連絡に入った。相変わらず、変わり者の先生は通常営業だ。
萱場先生は一学期に、ぼくら生徒たちに何か、小さくない隠しごとをしていたはずだった。夏休み中、萱場先生の「秘密」にぼくたちが接近できる機会がなかった。ぼくはずっと気になってはいた。けれど今の萱場先生は、ぼくたちに隠し事をする前の、一学期はじめの頃の、ぼんやりして、のんびりして、どこかぬけていた萱場千種先生と変わっていないように見えた。
少し、くやしい。
始業式のあとのホームルームが終わると、不老は足早に教室を出て行ってしまった。
しかたなく独りで昇降口の下駄箱で靴を履き替えているときだった。いきなり、背中をぱちーんと叩かれた。
「痛っ!」
振り向かなくても、加害者が誰なのかはわかる。〈
「不老はとっとと先に帰っちゃったよ」
ぼくは口をへの字にした。
「不老君はどうでもいいの!」
怒った顔もきれいだなぁ……と思った気持ちをすぐさま押し殺して、ぼくは無表情を装った。
「へえ、どうでもいいの?」
「何なの、その物知り顔?」
金銀河がぐいっとぼくに顔を近づけてきた。
近い。近すぎる!
すっかり慌てふためいてしまった。猛暑日の気温の上に、さらに汗をかいてしまう。
「いや、その、えーと……いつも不老はクールだなあ、と思って」
「不老君はいつだってクールっていうより、冷酷なの。そんなことはどうでもいいの。それよりも、知ってた? 隣の三組に転校生が来たこと?」
「へえ、そうなんだ。でも……べつに不思議じゃないよね」
「呑気だなあ、御器所君は! ちょっとおかしな転校生だったの!」
「どんなふうに?」
そこで金銀河は、真顔になった。
「今朝ね、学校の正門で知らない男子にいきなり声をかけられたんだ。『御器所君っていう人はいる?』って」
「ほえっ? ぼくのことを?」
金銀河はうなずいた。
「『うちの四組にいるよ』って答えたんだけど、その男子の様子が、なんだか……とても奇妙だった」
「奇妙?」
ぼくが訊くと、金銀河は言葉を切ってさらに深刻そうな面持ちになった。
「その男子って、隣りの三組の転校生だった。でもね、前から御器所君のことを知ってるみたいだった」
「知り合い? そんな知り合いなんていないよ」
気味のいい話じゃない。
ぼくは、ふと隣の三組の下駄箱を振り返って見た。三組はまだホームルームが終わっていないようだった。あの教室に、何者かがいる。
「御器所君、狙われてるかも」
金銀河は真顔で言った。
「ほええっ? な、なんで?」
ぼくは間抜けな声を上げてしまった。
金銀河は、あくまでも真面目な口調で続けた。
「転校生の男子、あの子……カタギじゃないね」
金銀河は静かに言うと、昇降口から足早に歩み去って行ってしまった。
カタギじゃないだって?
ぼくだって「カタギ」じゃないんだけど。
モヤモヤした思いを抱えつつ、灼熱の太陽光線に焼かれつつ、ぼくは一人で校門を出た。
「なあ、御器所」
そこで、いきなり呼び止められた。
駆け足で追いついてきたのは、同じ六年四組の
とにかく、そんな人物のほうから声をかけて来るなんて意外だった。
「俺に妹いるじゃん?」
唐突に有松は言った。
「あ、そうなんだ」
「妹の友だちが、いじめられてるかもしれないんだよ」
「ええっ?」
ぼくは鋭く声を上げた。「いじめ」という言葉には、敏感に心が動かされてしまう。
「四年二組の
「いやぁ、知らないけど」
はじめて聞く名前だ。そもそも四年生に知り合いはいない。
「俺もよく知らないよ。四年のやつのことなんて、べつにどうだっていいじゃん。けど、妹がうっせえんだ。二学期が始まって、『瑠衣ちゃんがクラスの中で浮いちゃったら可愛そう』とか言うんだ」
「はあ、確かに心配だね」
「俺はべつに心配とか思ってないじゃん。でも
クラスでナンバー・ワンのお調子者である桜山俊介に、輪をかけて調子がいい有松篤志が妹思いだということは、今の言葉からよくわかった。そして有松篤志の妹が友だち思いだということも、よくわかった。
けれど、まだ話が見えない。
「えーと、それで……何したらいいの?」
「で、どこよ?」
平然とした表情で有松篤志が訊く。
「んーっと、どこって?」
「不老がいるんだろ? どこ?」
そこでようやくぼくにも有松篤志の言葉の意味がわかった。
やっぱり、必要とされているのはぼくじゃなかった。有松篤志がほんとうに話したい相手とは、不老翔太郎という男だったんだ。
ぼくが必要とされる機会なんてない。
ムッとしながら、ぼくは答えた。
「不老は先に帰っちゃった」
「ええっ? なんで?」
有松篤志が心の底から意外そうに眼を瞠った
訊き返されても困る。ぼくは不老翔太郎のお目付け役でもないし、子守でもない。我が家の業界用語を使うならば、ぼくは不老の「子分」でもないし「舎弟」でもない。
「で、不老に何をして欲しいの?」
ぼくが問いかけると、有松篤志はもう校門の外に向かって歩き出していた。
「不老がいないんじゃしょうがないけど、とにかくちゃんと話しといてくれよな」
「話すって? どんな事件なのかまだ聞いてないよ」
すると有松篤志は眼を見開いた。
「は? 事件? 事件なんて起きたのか?」
「いや、だって、ぼくと不老に用があるなら、小本なんとかって子が事件に巻き込まれたんじゃないの?」
有松篤志は呆れ顔になった。
「なんだそりゃ? すごい妄想だあ!」
ニヤニヤしている有松篤志の顔を見返し、ぼくはため息を付いた。
「じゃあ、まだ事件は起きてないのか……」
「『まだ』ってことは、これから事件が起きるわけ? 何だそれ?」
「じゃあ、何のためにぼくと不老に用があったの?」
ぼくが言い返すと、有松篤志は眉をしかめた。
「俺だってさ、いじめがあるって聞いたら少しは気になるじゃん。いやべつに、侑愛のやつが心配とか思ってないし、妹の友だちのことなんか知らないし、ほんと面倒くさいんだけどさ、とにかく侑愛が――妹がめちゃくちゃうるさいから、しかたないじゃん? こういうときって、不老だったら解決してくれるじゃんね?」
早口に有松篤志は言うと、「じゃあ、頼むわ」と言い残して、駆けるようにして校門から去って行ってしまった。
ちゃんと本当の気持ちを言葉にしてしゃべればいいのに――と、走り去る有松篤志の背中を見ながら思った。
帰宅して自分の部屋のドアを開けた瞬間、ぼくは「きゃっ」と声を上げてしまった。
「学校帰りに買い食いする特濃生チョコアイスバーは美味しかったかい、御器所君?」
平然として冷静すぎるほどの声。
ぼくは眼を疑った。
不老翔太郎が、あろうことがぼくのベッドの上に仰向けに寝そべっている。天井を見上げながら両手の指先を合わせていた。まるで中途半端なミイラ男のような体勢だ。
「な、な、な、な、な、な、何してんの、不老!」
どうしてこの男は、まるで自分の家であるかのように〈御器所組〉長男のぼくの部屋で堂々とくつろいでいられるんだ?
不老翔太郎はぼくのベッドの上で、ぴょこんと上体を起こすと、にやりと不敵な笑みを見せた。
「おっと、これは失敬。特濃生チョコアイスバーは、さほど君のお気に召さなかったようだね。しかし、アイスを食べすぎるのは健康的ではないな。一日に三つとは、さすがに多すぎるよ」
もういい加減に、不老翔太郎という男の多弁に慣れてもいいはずだけれど、どうしてもぼくには慣れることができない。
「不老! 先に独りで帰ったはずじゃん! ぼくを尾行してたの? ずるいことするなあ!」
不老翔太郎はわざとらしくあくびをした。
「御器所君、僕がそんなことをすると、君は本気で思っているのかい? 君との関係は決して短くないのに、見くびられるなんてたいへんに心外だな」
不老は早口にまくしたてた。
「じゃあなんで、独りでとっとと教室から出てったの?」
「無論、すぐにまたここで会えるからさ」
こともなげに答える。〈御器所組〉本部の扉を叩いて、その中に入るのを許される人間なんて、数えるほどしか存在しない。
「ぼくがアイスを食べたことがわかったのは?」
不老は「ふう」と声を漏らすと、ふたたびぼくのベッドにあおむけに寝転がった。
「最初の僕の発言は、単なる根拠のない推論に過ぎなかったことは認めよう。けれど、今この瞬間には、もはや必要かつ充分な条件を満たしていることが判明した。君の左の足首がそれを雄弁に実証してくれているじゃないか」
「へ? 足首?」
あいかわらず退屈そうに不老は続けた。
「僕は御器所君の思考を心底から理解しているつもりだ。君がまさに今日、九月一日から発売開始の新商品『特濃生チョコアイスバー』を真っ先に食べたいと思わないはずがない。この新製品を売っているコンビニエンス・ストアは、学校からこの家までのあいだには一軒しかない。そこで、君の左足首だ!」
「えーと、まだ全然見えない」
「昨日の交通事故を君は知らないみたいだねえ」
「へ? 交通事故なんてあったっけ?」
「スマートな携帯電話を持っているわりには、君はスマートに活用していないようだね」
「はいはい、どうせぼくはスマートじゃないですよ」
「今日未明、ちょうどコンビニエンス・ストアのすぐ脇の交差点で、午前一時半頃、セメントを積んだトラックが飲酒運転の乗用車と出会い頭に衝突した。その際に、トラックの積み荷のセメント袋が周囲の路上に落下した。しかもその後、深夜三時過ぎにほんの短時間だが一時間に十ミリという弱いにわか雨が降り、セメントのぬかるみが道路に染み付いた。今まさに君の履いている靴下の左足首に付着したその灰色の染みこそ、そのセメントだ。それに君のシャツの胸元には茶色とオレンジ色、緑色の染みが付着している。茶色の染みは『特濃生チョコアイスバー』に間違いなかろう。そして、オレンジ色は同じコンビニで先月から売っている『ジューシー・オレンジアイス』、緑色の染みは『ミルキー・マンゴー・アイスバー』の染み以外の何物でもない。すなわち君は三つのアイスを続けざまに食べたのさ。おなかを壊さないのが実に不思議だねえ! トイレに行かなくても大丈夫なのかい?」
不老翔太郎の物言いには、もう腹も立たない。なんだかすっかり疲れてしまった。
床の上にへたり込んだとき、ドアがノックされた。ドアを開けたのは、うちの組の「若い衆」の一人、ハマさんだった。手足が細く長くて髪は短く刈り上げている。まるで漫画のキャラみたいな人だ。
「お坊ちゃん、お客人です」
ハマさんは言った。その顔に浮かんだ、にやにや笑いがとても気になる。
「ぼくに? 誰?」
「玄関でお待ちです。行けばおわかりですよ。なかなか面白いお友だちがおいでなんですねえ」
ハマさんの笑みがさらに大きくなった。
「うん、今行くよ」
ぼくが答えると同時に、背後で不老翔太郎がベッドからぴょこんと起き上がった。
廊下を進むと、あろうことか我が〈御器所組〉の「若い衆」が集まっていた。みんなハマさんと同様ににやにやと、何やら怪しげな笑い顔を浮かべている。
これは、悪い予感がする。
「お坊ちゃん、あちらがお客人でございますよ」
わざとらしくていねいな口調で言ったのは、元力士の巨漢、キヨさんだ。にやにや笑いどころか、笑いをこらえるのが必死という様子で、両肩をぷるぷると痙攣させている。
「ガチだよ」
そうささやくのはノリ兄ちゃんだった。若い衆のなかでは最年少の十七歳。ぼくにタメ口で話すのは、唯一ノリ兄ちゃんだけだ。
「へ? ガチって? 何?」
訊ねたが、ノリ兄ちゃんは満面の笑みでぼくの背中をポンポンと叩くだけで、答えてはくれなかった。
ぼくは玄関に向かった。
玄関の三和土には、一人の男の子が立っていた。歳はぼくと同じくらいだろう。髪は短く刈り上げていて、やはりぼくと同じくらいに小柄だった。もちろん、横幅と体重はぼくのほうがずっと大きい。
男の子はぼくを見上げると、ハッとした面持ちになり、頬をこわばらせた。
次の瞬間、ぼくはぽかんと口を開けてしまった。
男の子は一気に腰を落として膝を曲げた。右腕を、手のひらを上にして、前に差し出す。
そして信じがたい言葉を言い放った。
「お控えなすって!」
「へ、へえっ?」
ほとんど悲鳴みたいな声を上げてしまった。
いったい何なの?
ぼくは助けを求めて、背後を振り返った。脇の廊下から「若い衆」がみんなぼくのほうを見ながら笑いをこらえている。あろうことか、その後ろでは母さんまでが、必死に口をおさえて肩を震わせている。
え? マジ?
「お控えなすって!」
男の子はまた言い、右手のひらをぐいっと差しのべた。。
うわぁ、マジでマジだ。
ガチで、本物じゃん!
いや、ぼくだって「本物」といえば、間違いなく「本物」なんだけど。
母さんと一緒に――というか、母さんになかば強引に観せられた――昭和時代のヤクザ映画のワン・シーンを、思い返していた。
ぼくはもう一度、助けを求めるように背後を振り返った。廊下の脇で、母さんは笑いながらぼくにうなずいている。
うわぁ、本当にガチでそんな局面なのか!
誰も助けてくれないようだった。いくら〈御器所組〉の長男だからといって、ほんとうに「アレ」をやらなきゃいけないのか? 信じられない。
確か、今は二十一世紀だったと記憶してるけど、どこかで時空がゆがんでる?
やっぱり、やらなくちゃ駄目?
ぼくに〈御器所組〉のみんなの視線が突き刺さっていた。
やらなきゃ駄目かぁ。
しかたがない。
意を決した。大きく息を吸い込む。
「えーと……お、お、お控えなすって!」
ぼくは慌てて同じポーズを取った。たどたどしく裏返った声で返答する。
「逆転の図工」第2部へつづく
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