トロイメライ-夢想曲-
彼女が『意識』を持ったのがいつかはハッキリとしない。早くに亡くなった伴侶の写し身として創られた彼女にとっての世界は、その薄暗い部屋だけだったし、作らせた本人が天へ召された後彼女のいる部屋を訪れるものは殆どいなかったからだ。彼女にとって時間とは酷くゆっくりと流れる変化の乏しいものだった。多分、あの日までは。
だから、きっと彼女が意識を持ったと言いきれるのは、騒がしい外の空気を道連れに飛び込んで来た少年と出会った日なのだろう。
騒々しく開かれた扉からは光が射しこんでいた。つむじ風を起こしながら少年が走りこんで来た。こころなしか淀んでいた部屋の中の空気が入れ替わり始める。
まるで宝物を見つけたかのように感嘆の叫びを上げながら、少年は部屋中を駆け回った。
彼女にとってそれは初めての経験で、だからと言って何かが出来る訳でもなくそれまでと変わらず椅子に座ったままでいた。ただ、少年が酷く楽しそうだ、とは思った。
それから、少年はしばしば彼女の部屋を訪れるようになった。と言っても、特になにをと言う訳でもなく、部屋の隅の壊れたオルゴールを持ち上げてみたり、埃を被った肖像画をひっくり返したり、あるいは本棚に収まったままの古ぼけた書物を引っ張り出してみたりと好奇心の赴くままに行動していた。それにも飽きると、今度は積み重ねてあった椅子を一脚引きずって彼女の前に座りお喋りを始めた。
無論人形である彼女に返事が出来るはずもなく、少年が彼女の事を『お姉ちゃん』と呼び一方的に話し掛けているだけだったのだけど。夕日の赤さ、雨上がりの土の匂い、シンとした夜に降る雪の音、皇帝が住まう帝都の様子、あるいは今朝生まれた子犬の事。どんなに他愛のない事であっても少年は本当に楽しげに彼女に語った。返事もないのに、ただ感じた事思った事を言葉にするのが楽しいとでもいうように。
彼女もそれで十分だった。作られて以来ずっと部屋から出される事もなく、その部屋だけが唯一の世界であった彼女にとって全てが酷く興味深い事ばかりだったから。
少年のお喋りは続き、やがて彼女は少年の事をよく知るようになった。少年-クロードは療養の為に母方の祖父の持つ別荘であるこの邸に滞在している事。邸にいるのは侍女ばかりで、話し相手になってくれる同い年の子供も近所にいない事。今は体が弱く医者に激しい運動も止められているけれど、必ず健康になって帝国騎士団の一員になるのが夢だと言う事。
いつしか彼女はクロードが部屋に来る事を楽しみにするようになった。それは、クロードを通して外の世界に触れられるような気がしたからだったかもしれないし、ただ純粋にクロードに会える事が嬉しかったのかもしれない。今となってはハッキリとしないし、させようもない事だけれど。
一つだけ言い切れるとすれば、この時が彼女にとってもっとも幸せな時だったという事だろう。
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