希少本
静寂を愛する書の邸。いまだ拡張が続く邸の中でも奥まった古い場所にある、必然的に古書の集まった一角には人気が無い。これを良いことに、長机を独占し、占領し、巻物だ、辞書だ、なんだのが無秩序に広げられている。暗黒時代の大陸地図に、古文字で書かれた歴史書。手元にはインクと羽ペン。そして、何か記述していたのだろう描きかけの紙、の側に転がる一人の居眠り娘。頬は開かれた本に押し付けられ、立てた辞書は光石の明かりを良い具合に遮っている。静かな空間と、古い紙の匂いは妙に落ち着き、それなりに腹が満たされ眠りを誘う午後のことだった。
すぅ、すぅ、安らかな吐息。長い銀色の前髪が目元を隠し、柔らかく室内の光を反射する。何かを掴んでいたような中途半端な形に曲げられた手は顔の横に。そのすぐ傍には手から滑り落ちたペンが転がっている。
「ン……」
それなりに安らかな眠りにまどろむ。遠くのほうで、誰かが歩く音がする。ぱらぱらぱらと、何処からか入り込んだ風が開いた本のページを無秩序に捲る。
同じ風が、重たげな前髪を鼻先まで下ろして来て顔を擽る。
「……ん……ぅ…ぁくしゅ!」
鼻先の異物に、思わず大きなくしゃみを邸の一角に響かせる。自分のくしゃみに、驚いてぱっと顔を上げて、虹色の瞳を丸くして周囲を見渡した。跳ね起きたは良いものの、ここは自室のベッドではなく書の邸。実に三順、周囲に目を巡らせ、漸く己が書の邸に調べ物に来ていながら居眠りをしたのだと思い出す。
「……ふぁ……。つい、眠ちゃったんだ……。疲れてるなぁ」
欠伸をかみ殺し、口元を抑える。
「……迂闊。調べものは、沢山あったのに」
寝起きで起伏の少ない声に、僅かに苦笑いめいた色が乗る。ぺらりと、風がやたらめったらにめくっていた本のページを開き直す。
「……しっかし、何でこうもバラバラに、分類もされずに置いてあるかなぁ。欲しい本が中々出て来ないじゃない」
頬杖を突いて本の一文を指先で撫でた。小さく息をつく。娘の視線の先には、参考資料として名を出されている著書の名がある。
「『異界伝承』……読みたかったのに。『協会』の『写本』は貸し出されたままだし。あーあ。さすがに、『暗黒時代』の本は、書の館にもないのかしらねぇ」
そして、改めるように先ほどメモを取っていた紙を眺める。眠気が訪れていた時のものだろう、ミミズがのたくったような文字群に眉根を寄せた。
「……にしても、あたし一体何を書いたんだろ? ……酷すぎるわ」
はて、と小首を真剣に傾げてしまった。
「……まあ。過ぎたことは、仕方がない、よね」
物事に必要なことは、きっと割り切りだろう。ある程度できちんと見切りをつけなくては。そんな、馬鹿みたいに堅苦しいことを考えて、後でメモ用紙にでも使おうと紙を畳んでしまい込む。小さく息をついて、積み上げた本のタイトルに目を通して次に読むべき本を手にした。並んだ本は、基本的には魔法、それから伝承。何かの気の迷いで、「大陸東部食紀行」とかいう本も紛れていたりもするが、それはひっそりと一番下で裏返しになっていた。
「……さて、もう少しがんばるとしましょうか」
と軽く伸びをし、こきこきと肩をまわして、灰色のローブの娘はまた沢山の本と文字との格闘を再開するのだった。
***
世界中のありとあらゆる書物の収集が目的ではありますが、どうしても手に出来ない『書物』も幾つか在ります。『異界伝承』や『暗夜行使諸説』などは、よい例でしょうか。かたや写本しか存在しないと言われ、かたや存在だけは囁かれつつも実物を目にしたものはいない、いずれも『幻書』と呼ばれるに相応しいものです。ですが、いずれ邸に収めたいと思っております。
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