第30話 にゃーの誘い

 法律事務所を後にし、ルカは寒空の下で両腕をさすった。

 こんな日は温かなミルクティーが飲みたい。それにスープもいい。

 風が吹き、木々の葉が擦れ、枯れ葉がアスファルトの上をからからと音を立てて駆け出していく。地上での変化は、人が着ているものだけではない。葉も緑の装いから衣替えだ。

 ふと思い出すのは、大統領家族のエディことエドワードについてだ。路頭に迷う彼を保護し、発砲事件に巻き込まれた。しかもいまだに犯人の目星がついていない。

 寄り道せずに家に帰るが、エドワードはまだ戻っていなかった。端末にも連絡が入っていないとなると、連絡ができないほど忙しいのか、それほど遅れずに帰って来られるかの二択だ。

 熱めの湯船に浸かると、冷えた指先がちくちくと神経が蘇り、やがて感覚が戻ってくる。

 窓を閉め切っていても、すきま風がなだれ込んできて、ルカは首まで身体を沈めた。

 風の甲高い音と重なり、何かの鳴き声が聞こえた気がした。赤ん坊のような、動物のような声だ。

 気のせいかと耳を研ぎ澄ますと、今度ははっきりと耳に届く。生き物の鳴き声だ。

 ルカは着替えると外に出て、端末の明かりを頼りに家の回りをうろついた。

「にゃー」

 じと目の猫が、気の抜けた声を上げた。悲しんでいるのかお腹が空いているのか、よくわからない声だ。ルカは猫の言語は読み取れない。

 手を差し出すと、猫はルカの手にすり寄ってくる。可愛すぎて衝撃だった。あー、うー、えー、と、ルカも何か言いたくても感情にならない。とにかく、わしわしと撫でた。

 やがて庭に車が止まり、エンジン音からエドワードの車だと判断する。だがそれでも、顔を上げられなかった。可愛すぎる刑とばかりに、今度は両手で顔をもみもみする。

「こら」

「わっ」

 そこでようやく、ルカは猫を抱いて立ち上がった。

「おかえりなさい」

「ただいま。そんなセクシーな格好で外に出るのは止めてくれ。心臓に悪い」

「セクシー? ただのパジャマですよ」

「俺にはベッドに運んでくれって言ってるように見える」

「それ、エドだけです。それより、見て下さいこんな可愛い子……!」

「どうしたんだい?」

「にゃー」

「お風呂に入っていたら、鳴き声が聞こえてきたんです。出てみたら、ちょこんと座っていて……」

「にゃー」

「どこかで飼われている子じゃないのか? にしても汚れているな」

「にゃー」

 猫も交えた会話は新鮮でカオスだった。

 エドワードに説得されて渋々離すが、猫はルカの側を離れようとしない。それどころか、勝手に中へ入ってきてしまった。

「どうしよう。お風呂入れちゃっていいかな……」

「動物用のシャンプーはないが、簡単に洗うくらいならいいんじゃないか? 嫌がるようなら濡れたタオルで拭くとか」

「エドって、動物は嫌いじゃないです? もっと反対されるかと思いました」

「君との時間が奪われるから、正直家に入れたくないし飼いたくない。先にご飯温めておくよ」

 嫌いなわけではないらしく、けれど賛成もしていない。

「……お風呂入ろっか」

「にゃー」

 首輪もつけていない猫は、理解しているのかしていないのか、相変わらず気の抜けた声を上げた。


 食事を終えた横で、猫は空になった器を名残惜しげに見つめている。

「そんな顔をしてももうだめだからな」

 エドワードは邪魔をされたくない様子ではあるが、一時的でも面倒をみるつもりでいる。

「捨て猫か野良か判りづらいな。明日にでも保護センターに連絡してみよう」

「それがいいですね」

「ルカ、動物飼いたい?」

「気持ちはありますけど……命の重みを考えると簡単に頷けないですよね」

「にゃー」

「そ、そんな目で見ないでよ……」

 癖になるじと目だ。ちょこんとルカの膝の上に乗り、くつろぎ始めてしまう。

「うう……気持ちが揺らぐ」

「これだけ懐くとなると、確かに名残惜しくはある。それに……」

「ん?」

「いや……いいんだ。汚れていて判らなかったが、綺麗なトライカラーだと思ってな」

 エドワードは頭を振り、隣に座る。

 ぬるま湯で簡単に落ちた汚れにより、三種の毛並みは柔らかい感触で、いつまでも触っていたくなる。

「俺の席が盗られたようで、少し寂しい」

「少し?」

「いや…………、けっこう」

「けっこう?」

「嘘だ。もう嫉妬で狂っている」

 いい子いい子と大きな身体に手を伸ばし、頭を撫でた。

 するとエドワードは倒れてきて、猫のいない太股に頭が乗る。

「ライバルが増えてしまったよ」

「可愛いライバルですね。僕からしたら、どっちもなでなでしたい対象ですけど」

「俺もかい?」

「僕が忙しそうにしていると、構ってほしくてじっと見てますよね」

「……俺はそんな恥ずかしいことをしてたのか。無意識だ」

「それも踏まえて、なでなでしたいんです」

「思う存分、撫でてくれ。いつでも大歓迎だ」

 羞恥を払拭した彼は強い。

 エドワードは猫を撫でていたルカの手を取り、頭に乗せた。

 猫は不満げに鳴き、ルカの手に顎を乗せる。

 可愛いの固まりに、顔を揃えて笑ってしまった。


 聞き慣れないエンジン音で目が覚めた。

 隣で寝ていたエドワードはすでに起きていて、衣服を身につけている。

「どうしたんですか……」

「ルカ、君はSNSなどを調べて、うちにいる猫の画像が出回っていないか確認してくれ」

「あなたは?」

「様子を見てくる。多分、この子を探しているんだ」

 閉めたはずの扉は開いていて、じと目の猫はいつの間にかベッドヘッドに上がっていた。

「この子を……? 飼い主さんなら、このまま引き渡した方が……」

「いや、違う。飼い主じゃない。俺が外に出て、話を聞いてくる。場合によっては、警察沙汰になるかもしれない」

 不穏なことを言い残し、エドワードはルカの額に唇を落として出ていってしまった。

 残されたルカは、心臓が爆音で鳴っている。対して猫は、身体を舐めてリラックスした様子だった。

 猫に餌を与えていると、冴えない表情のままエドワードは戻ってきた。

「状況はあまりよくない感じですか?」

「ああ。やっぱり飼い主じゃなかったよ。それよりも、かなりまずいかもしれない」

「エドから言われた通り、SNSで迷い猫のことを探してみたら、乗ってました。三毛猫のオスがうろうろしていたって誰かが載せたもので、飼い主さんではないみたいです」

「それがよくないんだ。ルカ、三毛猫のオスの希少価値は知ってる?」

「聞いたことないです」

「三千万以上で飼いたいという人も現れたくらいだ」

「なっ……さっ……ええっ?」

「ほぼ生まれないんだ。だから価値が高まる。この子を手に入れようと、お金に目が眩んだ輩が集まってしまっている」

「そんな……でも本物の飼い主さんも来てる可能性だってありますよね」

「もちろんだ。だけど俺たちじゃ誰が飼い主なのか、見当もつかない。さっき警察に通報をして、事情を説明した」

「そうですよね。お金目的で奪おうとしてる人たちですから、何かされてからでは遅いですよね……」

 このまま警察に保護してもらうのが一番いいが、思い通りにことは運ばなかった。

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