【電子書籍化&コミカライズ決定】婚約破棄された王太子を慰めたら、業務命令のふりした溺愛が始まりました。

里海慧

第一部 認定試験編

第一章 婚約破棄された王太子を慰めました

第1話 婚約破棄された王太子


「——貴方とは婚約破棄いたしますわ!」


 目の前で繰り広げられる光景が、心の奥底に仕舞い込んでいた記憶を呼びさます。


 私が人生に絶望した瞬間。

 突き刺さる大勢の視線、嘲りと侮蔑の笑い声、彼の腕に絡みつく細腕と優越感を隠しもしない歪んだ微笑み。


 あの時の私と同じ立場にいるのは、凛とした佇まいを崩さないこの国の王太子殿下だ。




 この日、王城のパーティー会場では第二王子の婚約披露の夜会が開かれていた。宮廷治癒士として勤務する私、ラティシア・カールセンは不測の事態に備え白衣姿で会場の隅で待機している。


 時間になり王族が入場して、挨拶も終わり乾杯を済ませた直後のことだ。

 穏やかなざわめきを切り裂くように、甲高い声が会場中に響き渡った。



「わたくしもう耐えられませんわ! フィルレス様との婚約は破棄させていただきますっ!!」



 静まり返る会場などまったく気にすることもなく、ピンクブロンドのツヤツヤの髪を揺らして激昂している美女がいた。


 人形のような美しい顔を歪ませ、翡翠の如しと称賛された瞳は挨拶を終えたばかりのフィルレス殿下を睨みつけている。

 三カ月前に王太子であるフィルレス殿下と婚約が決まった、アトランカ大帝国の第一皇女エルビーナ様だ。


「聞いていらっしゃいますの!? 貴方との婚約をこの場で破棄すると言っているのよ!!」


 歴代の王族の中でも特に優秀で、思慮深く公明正大だと評判の高いフィルレス殿下は、見たことがないほどの無表情で冷めた視線をエルビーナに向けている。


「こんな田舎の小国に来て差し上げたのに、たかだか第二王子の婚約者が決まったからなんだというの! わたくしはもう限界よっ! 帝国に帰ります!!」


 キンキンと頭が痛くなる声で喚いている内容がひどい。仮にもこの国の王子の婚約のお披露目なのだ。夜会への参加は当然のものだろう。


 それに、さまざまな公務に出席して貴族たちと親交を深めようとしていると聞いていたけど、違ったのだろうか。

 こんなことをしては反感を買うだけだと思うのだけど。


「……そうですか、承知しました。父には私から報告いたしましょう。皇帝陛下には——」


「貴方如きがそれを心配する必要はございませんわ! それでは、わたくしはこれで失礼いたします!!」


 エルヴィーナ皇女はドカドカと大きな足音を立てて会場から去っていく。残されたフィルレス殿下は深いため息を吐いた。


 凍りついた空気に、会場内はまるで時間が止まったかのようだ。息すら呑み込んで誰も動くことができない。


「いやあ、見事に振られてしまったね。皆は気にせず食事や酒を楽しんでくれ。場をしらけさせたお詫びに、後で秘蔵のワインを届けさせよう」


 フィルレス殿下はケロリとした様子で、爽やかな笑顔を浮かべたまま会場を後にした。残されたパーティー参加者は、ホッと息をついて談笑したりワインを楽しんだりしはじめた。

 本日の主役である第二王子のアルテミオ殿下も、婚約者を引き連れて挨拶を受けている。


 だけど私は会場が賑わっていく中で、封じ込めたはずの記憶があふれてきた。嫌な音を立てて激しく鼓動する心臓の音だけが、私の耳にはっきりと届いていた——






 ——あの日、一通の手紙で私の人生は大きく変わった。


 五年前のことだ。当時十八歳だった私は王立学園に通っていて寮住まいだった。その日は真夏の太陽が地面を灼くように照りつけていた。

 領地経営をしっかり学ぶため特別講習を選択していた私は、夏季休暇であったけれど寮に残って課題をこなしていた。


 そこへ領地から火急の知らせが届いたので、慌てて馬車を乗り継いで故郷へ戻った。

 久しぶりに見た屋敷を懐かしく思う暇もなく、執事長から受け取った手紙に目を通していく。


「え……嘘、こんなの嘘よね……?」


 私は震える声をなんとかこらえ、このカールセン伯爵家で三十年も執事長を務めるトレバーに尋ねた。全身から力が抜けそうなのをなんとか踏ん張り、グシャリと握り潰した上質な紙から視線を上げる。


「ラティシア様……」

「そんな……お父様たちが事故で亡くなったなんて——」


 今回は帝国を拠点にしている商会と取引の契約をするために帝都へと向かっていた。

 お父様とお母様、それに双子の兄も同行していて、山を越える際に落石に巻き込まれて、全員亡くなったという知らせだった。ほぼ即死だったと書かれている。


「嘘でしたらどんなによかったことでしょう……私も何度も確認したのですが、事実でございました」

「そんな……」


 いきなり地獄に突き落とされたようだった。

 だって、旅立つ時はみんな楽しそうに笑っていた。お土産をたくさん買ってくると双子のお兄様たちは笑っていた。商談がまとまったら、私にドレスを買ってくれるとお父様とお母様は約束してくれた。


 残されたのはもうひとり、義妹のビオレッタだ。

 本当はひとつ年下の従姉妹なのだが叔父夫婦が事故で亡くなり、我が家の養子にしたのだ。叔父の結婚相手の連れ子なので、私とは血縁関係はない。


 ビオレッタも一緒に出発する予定だったが、体調を崩してしまい同行するのを見送った。おかげで命拾いしたのだ。


 私にとっては血の繋がりがないとはいえ、頼れる家族がいて心強かった。

 その時は心からそう思っていた。


「お義姉様ねえさま、どうしたの? 顔色が悪いわ」

「ビオレッタ……! ねえ、落ち着いて聞いてほしいの」

「ええ、いったいどうしたの?」


 私はビオレッタの白魚のような手を取り、ギュッと握る。


「お父様たちが……帝国で事故にあって亡くなったの……」

「……っ! それは本当なの!?」

「ええ、間違いないそうよ……それでね、これからのことなのだけど——」


 本当は泣き叫びたかった。

 事故なんて嘘だと、お父様とお母様とお兄様たちを捜しに行きたかった。

 でも、どんなに涙を流しても、どんなに神様に祈っても、家族は戻ってこない。


 心は悲しみであふれているのに、待ったなしで領地経営の責務が私の肩に重くのしかかる。私もビオレッタもまだ学生で領地経営なんて無理だから、民が困らないように手を打たなければいけない。


 そこで三歳上の婚約者マクシス様をこの屋敷に迎え入れいることにした。彼は公爵家の三男で、もともと伯爵家に婿入りする予定だった。私が学園を卒業するまでの間は、結婚を早めて夫になったマクシス様に代理を頼もうと考えた。

 ありがたいことにマクシス様は、すぐに快諾して伯爵家にやってきてくれた。


 侯爵令嬢の友人に招待された王都の夜会で結婚の報告と代理当主のマクシス様を紹介することにした。当然マクシス様にエスコートをお願いしていたのに、直前で遅れるから先に向かってほしいと知らせが届く。

 仕方なくひとりで会場までやってきた。憐れみの視線が突き刺さったけど、気にしていない素振りをして友人へ挨拶に向かった。


 だけど、そこにいたのはビオレッタをエスコートするマクシス様だった。


「マクシス様!? どうして……」

「ラティシアか、遅かったな。まあ、いい。ここで宣言したいことがある」

「その前にこの状況をご説明いただきたいですわ」


 私はマクシス様とビオレッタを睨みつけて、気丈に振る舞った。本当は心臓はバクバクを音を立てていたし、膝も震えていたけど弱みを見せるのは嫌だった。


「黙れ! それよりも君との婚約は解消だ!」

「え……? 突然どういうことですか!? それにカールセン伯爵家はどうなるの!」

「それは問題ない。私はビオレッタを妻にした。これからは私たちがカールセン伯爵夫妻としてやっていく」

「なっ——」


 マクシス様の言葉がほとんど理解できない。

 だって先日、私との婚姻宣誓書と代理で領地経営する書類にサインしたはずではないか。それなのになぜビオレッタを妻にして、そのふたりがカールセン伯爵になるのだ?


 こういった養子はよくあることなので、相続の時に揉めないように法定相続人は登録制となっている。

 法定相続人に名前がなければ家督も継げないし、遺産も受け取れない。年齢などの問題で代理を立てることはあっても、あくまでも期間限定の話だ。


「——正当な後継者は私ですわ」

「だから君がサインした譲渡書によってビオレッタが後継者となり、その夫である私が代理当主としてカールセン伯爵になったのだ」

「委任状は確かにサインしましたが、譲渡書なんて知りませんわ!」

「お義姉様ったら見苦しいわ。いい加減にしてよ。ちゃんと確認しなかった自分が悪いのでしょう?」


 そんなはずはない、書類は隅々まで読んで、内容も納得したうえでサインしたのだ。その後に書類を差し替えたとしか考えられない。まさか、ふたりで仕組んで私を騙したのか?


「後継者の座もマクシス様も、もうわたしのものなの! お義姉様では不釣り合いだったのよ。そもそも治癒魔法しか使えないのに伯爵家を名乗るなんておかしいわよ!」

「それは……確かに攻撃魔法は使えないけれど、代々宮廷治癒士として国王陛下もお認めになっているし、皆様のお役に立っているわ」


 私たちカールセンの血を受け継ぐ者は、攻撃魔法が使えない。その代わり治癒魔法に特化した一族だった。


 我が一族は『癒しの光ルナヒール』という特殊魔法が使える。これはこの世界を創造したと伝承される神々のひとり、月の女神の血を引くからだ。その代わり攻撃魔法がいっさい使えない。


 このヒューレット王国は王族が太陽の創世神の末裔で、莫大な魔力と攻撃に特化した性質から、貴族の間でも攻撃魔法が得意な家門が力を持っていた。

 だからカールセン伯爵家は貴族の中では価値がないに等しい。だが、その特殊魔法で何度も王族や貴族たちの命を救ってきたこともあり、代々宮廷治癒士という役職を与えられていた。


 普段は馬鹿にされるのに、困ったときだけ頼られるのが我が一族だ。月の女神の末裔だなんて話をしても、馬鹿にされて笑われるだけだったので、今では直系の子孫に伝えられるだけだった。


「それにラティシアはずっと攻撃魔法が使えるビオレッタが妬ましくて虐げてきたのだろう? そんな心の醜い女を妻にしたくなかったのだ」

「え? そんなことしていませんわ」

「ひどいわ……お義姉様はそれが当然だと思っているから、わたしがどんなに苦しかったかわからないのよ!」


 そう言って、ビオレッタは泣き出してしまった。


「本当に無神経極まりない。君のような人間とは同じ屋敷にいるのも許せない。このまま出ていってくれ。当主命令だ」


 本当に心当たりのないことで責められ、周りの貴族たちもヒソヒソと話し私に厳しい視線を向けてくる。

 もうその場にはいられなかった。


 私の味方はどこにもいない。

 両親も兄も亡くして、婚約者も失った。

 唯一の味方だと思っていた義妹に裏切られ、私はもうなにもかも嫌になり逃げ出すことしかできなかった。

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