第19話 エメラルドグリーンのボトルをふわりと

 軍を辞し、行く当てもなかった私はしかし引く手数多であった。女性の軍人は珍しいのだ。接近戦を許されたのも昨今の話、私のようにある程度高名な部隊出身となれば箔が付くというもの、稀少価値をもった女性ボディーガードとして著名なクライアントも多数もつようになったころ、私はある日本人経営者の依頼を受けた。壮年の紳士は小さな海運会社をもっているらしく、ある都合で西アフリカのさる名士を訪ねる必要があるとのことだった。訊くと、あまりに危険であるから空港から先方の屋敷までヘリで行くとのことで、道中AKを振り回すよりも貴族を相手に振舞える騎士が欲しいらしかった。三崎卿はこともなげに云ってみせた。「君に戦わせたら先方の名折れだから、ヘリが落ちない限りゲリラや山賊とは戦わないだろうね。君の役目はだから、箔を付けることと、先方から私を守ること」云々。

 そしてヘリは落ちた。

 もう酷い様だった。空中でトラブルに見舞われ――絶対整備不良だ!――緊急着陸してから、先方の迎えが来るまで、一言でいうならサバイバル、血を吐くような駆け引きがあった。

 兎も角、そこで私たちは一致団結したのだ。三崎卿は定期的に私に依頼をし、そればかりか密かに夢見ていた作家の道を応援してくださった。デビュー記念に日本に招かれた折は大変な誤解があったが、あれは私の不徳の致すところ、奥様には今でも申し訳なく思っている。素晴らしい人たちとの交流に恵まれたものだと、素直にそう思いたい。

「――のだけれど、このビッチは本当にどうしようもない」

 成田空港に着陸する。久方ぶりの地面の感触はよいものだ。地獄みたいな呼び出され方をされていなければなおよかった。

「締め切りもパブで逢った運命の相手との約束も捨てて空港に急ぐ乙女の気持ちなぞ、やつはドイツ人にとってのアルデンテほども気にしないのだからな!」

 三崎姉妹の長女、伊智那お嬢様はさながらシャーロック・ホームズの如き社会不適合型の天才である。アル中レディの手のひらの上で右往左往、虚ろなダンスにはもう飽き飽きであったというのに。

(でも私の逃げ場を先んじてぶち壊したあれは許さないが、三崎卿からの依頼はクソシリアスだからな。気合を入れるか)

 エルシィは英国騎士の仮面をかぶる。

「全ては守られるだろう」


「――と、勇気凛々来ましたというのに、お嬢様方、その力の抜けようはどういう事態なのですか」

 伊智那お嬢様が酔いつぶれているのはいつものことだが、妹君まで放心状態なのは珍しい。初めて顔を見る楓嬢も気だるそうに横になっているものだから、三人とも、まるで装飾釘のように死んでいると云うに相応しい有様である。

「はじめましてエルシィさん、私は山王楓です。お二人から貴女のお話をたくさん聞かせてもらいました」

 蜜蝋のような少女が衣を直して正座した。

「お初にお目にかかります。私はエルシィ。お嬢様方の護衛を任されました、元軍人です」

「宜しくお願い致します。ちなみに説明しますと、伊智那姉さんはハートランドに支配され、条は絵具の海に溺れたのです。マジック・パワーの枯渇とか云っていました」

 不思議なペンダントをいじりながら、くすくすと笑う。

「んぁ、婚活騎士様の登場かい……?」

 がくん、と病的に目を覚ました酒姫が開口一番罵ってくる。

「誰が万年独身筋肉騎士だと――」

 私には運命の相手がいるもの!

「また騙されてるよ君。あと誰もそんなこと云ってない」

「ふん、騙されているって何? お得意の推理か?」

「いや、単に君と結婚したがる男性などいるはずが――」


 私はエメラルドグリーンのボトルをふわりと投げた。ダイヤモンドがゆっくりと弧を描き、だらしなく胡坐をかく脚無しの顔に接近する。

 丁度当たるか当たらないかのタイミングで私はその顔面を蹴飛ばしてやろうと飛び掛かる。しかし、酒瓶など見過ぎて視界に入らないのか、頭蓋骨に響くのも意に介さず目を見開いたまま微動だにしなかった奴は、ただすっとそのまま立ち上がった。それだけで私の体は宙に舞い、忽ちにコントロールを失う。

「化け物め」

 まあ慣れたやりとりだ。このクソガキに平手打ちを浴びせたければ殺す気でいかなければこちらが死んでしまおうというもの。覚悟の上、私とて軍人である、すぐさま全身をかけた突きを繰り出す――これを見せるのは初めてだ――……転がされる……突く、進む……投げられる……縦横十文字に……自由闊達に……。

「変態じみた挙動をするなあ君は。英国軍ではそんなものが流行りなのかい?」

「休暇中は文字通り何もすることがなかったものですから。フランスで空手の修行を少しだけ……」

 今考えれば変な団体だった。オリンピックで見るような空手と明らかに何もかも違ったが、当時は気づかなかった。休暇が終わる頃には代償として軍隊で学んだ近接格闘術をすっかり忘れてしまったくらいには熱中したのだ。

「フェアバーン・システムはどこにいったのだか」

「はぁ、はぁ、……クソ……ところでお嬢様?」

 最終的にいつものように組み伏せられた。勝てる気がしない。伊智那嬢はちょこんと行儀よく正座をしたまま、片腕の手首と肘を抑えている。それだけで、少しも動けなくなってしまうのだ。

「私はフランスで何を学んだのでしょう?」

 解放され、伊智那嬢と向き合う。

「まあ空手には違いないのだけれど、それは僕の武術の親戚だね。正当から追い出された邪道も邪道、嘗ては帝国陸軍で教えられた、偉大なる宗教空手の成れの果てさ。変人どもの空手だよ」

 云われてみると、彼女の武術は合気道ではないようだった。

「フェアバーン卿も日本武術を学んだと聞きますが、日本武術も種々あるわけですね」

「その通り」

 ハートランドの瓶を奪って飲む。

「はあ、私の負けですお嬢様、さあ、本題に入りましょう」

「そうだな。その論文を取って――!」

 ブハッっとビールのミストを吐いてやった。避けられるものか。

「間接キスだ! 味わいやがれこのクソガキ!」

 

 酔いどれ伊智那嬢が怖い顔で笑っていた。

 後々に聞くところによると、私も怖い顔で笑っていたらしい。

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