第4話

 空の月が輝きを増し、少しずつ夜の色が空に混じりだした。

 イングヴァルの調子が戻るまでしばし休憩し、二人は湖から流れ出る支流を辿って拠点だった場所に辿り着いた。

 拠点だった場所というのは、先ほどの猪のような巨大な魔物が通り過ぎた痕跡があり、それによって幕舎も資材も何もかもが潰されていたからである。

 拠点となるからには元から開けた場所なのだが、それをさらに広げるように木がなぎ倒されていた。

 こう滅茶苦茶になっては仕方ないが、放棄されたようで人の姿はなかった。


「そんな……」


 想定外の事態にどうしたらいいのかわからないといった風に、アウレリオはイングヴァルを見つめた。


「今日はここで野宿にしよう。何もないよりましさ。水と食料、火と寝る場所だ。暗くなる前にやることは沢山ある。できるかい?」


 イングヴァルの言葉に、狼狽えている場合ではないとアウレリオは頷いた。

 それを見たイングヴァルは満足そうに頷き、いくつかの指示を出した。

 本格的に暗くなる前に拠点の残骸から手分けして食料や食器、毛布を見つけ、無事だった鍋で川から水を汲んだ。

 丁度煮炊きに使っていたであろう石で組んだ竈があったので利用する。そのそばに柱を立てて、ぼろぼろになっていた幕舎を建てた。

 本当は何人も寝られるような立派なものなのだが、曲がってしまった柱でなんとか組み上げたため、二、三人しか入る空間がなかった。しかし、一晩だけなら十分な働きをしてくれるだろう。

 竈の上に水の入った鍋を置いて水を沸かす準備をする。

 塩漬けの干し肉でもあれば鍋に入れて簡単なスープができたのだが、獣に持っていかれてしまったようで見当たらなかった。


 いよいよ日は地平線に潜り、辺りは本格的な夜の気配を感じさせていた。

 竈に突っ込んだ薪にアウレリオが息を吹きかけるように小さな炎を出し、簡単に火がついた。

 それを見ていたイングヴァルは枝を拾う手を止めてまじまじとアウレリオを見つめ、思い出したように手に持っていた枝を竈のそばに置いた。 

 アウレリオが焚火の前に座ったのを待って、イングヴァルは彼の隣に腰を下ろした。


「これ、どうぞ」


 イングヴァルが口を開きかけた瞬間、アウレリオが紙に包んだビスケットを差し出してきたので、イングヴァルは礼を言ってそれを受け取った。

 包み紙を破って歯の立たないほど固いビスケットをなんとかかじると、水分のないそれをごりごりと音をたてながら噛み砕く。

 そうしながら、失礼にならない程度にアウレリオのことを観察していた。


 ーーただの少年にしか見えない。


 あの翼。そして何より炎だ。

 単独で飛行することも、魔物を一瞬で灰にする炎を操ることも、普通の人間では説明がつかない。

 しかし彼が普通の人間でないとしたら、心当たりはある。しかし、にわかには信じがたいことだった。

 イングヴァルは薪を組み直そうと竈の炎に近付く。

 何も感じない。

 革手袋を嵌め直すのを装って手袋を脱いで火に手をかざしたが、結果は同じだった。

 この数年間、熱を感じることなどなかった。

 しかし、湖でアウレリオが見せた炎はどうだ。

 炎から放たれる熱気で頬がひりつくように熱かった。

 その感覚を思い出すように頬に手をやる。感触こそ柔らかいものの、そこに温もりなどなかった。

 イングヴァルは手袋を嵌めて、何ともなしに薪をいじっていた。

 そして煌めく炎を見つめた。

 あの炎は見た目こそ普通の炎だったが、何か特別な力なのだろう。

 間近に彼の炎が迫ったとき、イングヴァルは久しぶりに自分の鼓動を感じたような気がした。

 感覚のほとんどない体だ。そんなもの錯覚にすぎない。この体はずっと氷のように凍えたままだ。

 そう自分の思いつきを否定しようとした。

 しかし、どうしてもそれができない。

 白い雪に閉ざされた冬に終わりを告げるように、青い花が咲いているのを見つけたときのような。

 胸に湧き上がったこの感情の名前を、やっとイングヴァルは思い出した。


 ――だから何だというんだ。


 手に持っていたビスケットの包み紙を焚火の中に放り込む。

 この少年が自分に熱を感じさせたからといって、どうするつもりだ。

 この森を出たら、その先は。ずっと一緒にいるとでもいうのか。そんなことはできない。

 この森で自分たちは会わなかった。そうだ、そう約束した。

 包み紙が火の中で灰になっていくのをじっと見つめ、やがて元いた場所に座りなおした。

 アウレリオは、自分の分のビスケットを手に持ったままそれを眺めていた。見れば、随分と不安そうな顔をしている。


「お腹空いてない……」

「それでも食べた方がいい。生き残るのはどんな状況でも食べられる人間だよ」


 イングヴァルの言葉に従ったほうがいいと思ったのか、アウレリオはビスケットの包み紙を破って少しずつ食べ始めた。

 その様子を見て、素直な人間だが他人の言うことを聞きすぎるのも危ういところがある、とイングヴァルは思った。無論、彼を騙そうなどとは微塵も思っていないが。

 良くも悪くも大事に育てられている。イングヴァルはそう結論付けた。


「野宿は初めてかい?」


 アウレリオは何も言わずに頷いた。それから静かに話しだした。

「いつもは師匠とここの見回りをしてるんですけど、師匠、途中で仕事が入っちゃって……。一人で帰ることになったんです。その途中、あなたを見つけて声をかけた。一人でも見回りくらいできるって師匠に見せたかったけど、駄目だったな」

「駄目なんかじゃないさ」

「えっ……?」


 アウレリオは今聞こえた言葉が本当か疑うかのようにイングヴァルの方を見つめた。

 その視線を真っ直ぐに受け止めてイングヴァルは言う。


「君はいい人間だ。怪我を負ってまで僕を助けてくれた。誰にだってできることじゃない。それに、翼も炎のことも知られたくなかったというのに」

「で、でも、帰ったらきっと師匠に怒られるから……」


 アウレリオはそう言ってまた俯いてしまった。


「君の師匠は何と言うかわからないが、助けられた僕が言おう。君はいいことをしたんだよ」


 いつになく真摯な顔でイングヴァルが言った。


 その言葉を素直に受け止められないのか、アウレリオは信じられないという目でイングヴァルを見つめている。

 そして、少し経ったあとに実感がわいてきたのか、照れるように笑った。


「あ、ありがとう、ございます……。初めて師匠以外の人にほめられました」


 恥ずかしそうに言うアウレリオは戸惑いを見せつつも、嬉しさを隠しきれないようだった。


「……若い頃の焦りというのは、僕にも覚えがあるよ」


 言って、イングヴァルは昔を思い出すように炎を見つめた。


「早く大人になりたくて、無理ばかりしていた。僕には兄二人に姉が一人いて、年が離れていたから余計にね。親にも周りの人間にも迷惑をかけ通しだったよ」

「家族がいっぱいいるんですね。四人兄弟で、お父さんにお母さんまで」


 アウレリオは指折り数えながら、不思議そうに言った。


「僕の家は小さいけれど領地を持っていたからね。なんとしてでも血を継いだ跡取りを残す必要がある。保険ってやつさ。それに跡取りでなくても、男なら嫁をもらって、娘なら嫁に出して血縁を増やす役目がある」

「ってことは、お嫁さんも……!?」

「いないよ」


 興奮したように言うアウレリオに、イングヴァルはきっぱりと言い切った。


「いつまでも剣だの弓だの振り回している十代の僕は、勉強しろって都会の大学に行かされてね。そこに紛争の噂を聞きつけて、いよいよ実践の機会だと駆けつけて、流れで商会のやってる傭兵団の団長になって……。家にはずっと帰っていないよ。どこぞで死んだと思われてるだろう」

「い、家に帰りたくないんですか? お父さんとかお母さんに、会いたくなったり、しないんですか?」


 イングヴァルの行動が理解できないとでも言うようにアウレリオは困惑している。


「両親に会いたくないとか、そういうわけではないが……」


 言って、イングヴァルは自分がそうした理由を考え込んで口を開いた。


「家の力に頼りたくなかったんだ。自分の力で生きてみたかった。何も言わずに飛び出した手前、行くところがなくなったから帰りますとは言いにくいし。……思えば、手紙の一つでも書けばよかったかもしれないな。何の意地を張っていたんだか」


 自嘲するようにイングヴァルは笑ってみせた。


「……俺は、お父さんとお母さんに、会いたいのに……。家に帰りたくない人も、いるんだ……」


 消え入りそうな声で、アウレリオは呟いた。


「君のご両親はいい人なのかい?」


 イングヴァルの問いに、アウレリオは首を振った。


「わからない。俺が生まれてすぐに死んじゃった」

「す、すまない、立ち入ったことを聞いて……」


 その言葉を聞いてイングヴァルが詫びると、アウレリオは言った。


「いいんです、気にしないで。それに、悪いことばかりでもないから。師匠は厳しいけど、俺のことをちゃんと見てくれてる」

「その師匠が親代わりか。まあ、君を見ていればよく育ててくれているのはわかるよ」

「そうかな」


 言ってアウレリオは照れくさそうに笑った。


「師匠も大分人間じゃないっていうか、定義からすると人間ではないんですけど、でも、俺の相手をしてると人間だった頃を思い出して楽しいって、言ってたな」

「へ、へえ……?」


 アウレリオの言葉をどう判断していいものかイングヴァルは悩んだ。

 嘘をつくような人間には見えないし、かといって人間ではない師匠というのも一体どういう存在なのかと気にはなったが、つい先ほどの彼の両親についてのやり取りを思い出し、深入りするのはやめることにした。


「あの……、い、いや、やっぱりいいです」


 アウレリオは何かを言いかけて、その言葉を自信なさげにすぐに引っ込めた。


「何だい、そうされると余計に気になってしまうが」

「はは、ですよね……。でも本当に気にしないでください。大したことじゃないので」


 アウレリオは誤魔化すように笑った。


「大したことじゃないなら、言っても構わないってことじゃないか?」


 イングヴァルの返しにアウレリオは言葉を詰まらせた。


「……言っても、笑わないですか」

「笑わないさ」


 言われてアウレリオは少しの間ためらったあと、恥ずかしそうに口を開いた。


「ねえ、イングヴァルさんには、友達っているんですか?」


 アウレリオの突然の問いに、イングヴァルは驚いて片眉を上げた。


「友達?」


「俺、家族も友達もいたことないけど、教会にいる人は誰かといるとき、楽しそうに話しているのを見るから……。ちょっと寂しくて。師匠も、悪友ならいるけど友人はいないって言ってて」

「そういう文脈の悪友というのは、特別に仲がいいってことだよ。自慢されたな」

「ええ!? そうなんですか?」


 アウレリオは驚きの声を上げる。それからしょぼくれたように俯いた。


「なんだ、師匠にも仲がいい人、いるんだ……」


 そう言って静かになったアウレリオを気遣うようにイングヴァルは話し出した。


「友人、ね。若い頃はいたものだが、傭兵団を任されるようになってからはいなかったな。組織の長という立場で誰かと親密になるのはよくないと、そう思っていたから」

「……それ、寂しくなかったんですか?」

「賑やかではあったからね。孤独ではなかったよ。良くも悪くも、毎日がお祭り騒ぎだった」

「家族も友達もいないけど、寂しくない人もいるんだ」


 イングヴァルの言葉を噛みしめるように、アウレリオは言った。


「どうかな。強がりかもしれない。ここ数年一人で旅をしていたが、あの喧騒が恋しいと思うことはある」


 言ってイングヴァルは力なく笑った。


「つまり、寂しいってことですか?」

「なんだい、やけに食い付くじゃないか」


 アウレリオの問いの真意を確かめるようにイングヴァルは言った。


「……その、友達になりませんか」


 アウレリオの言葉を聞いてイングヴァルは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。それも一瞬だけで、すぐに消されてしまったが。


「俺たち、会わなかったことにしようっていうのは、それが一番いいってわかってるんですけど。その、あなたは悪い人には見えないし。俺のこと、褒めてくれたし……。子供扱いしなかったから」

「君と僕では歳が離れすぎているよ」

「歳が離れていたら友達になれないんですか?」

「なれないわけではないが……」

「だったら!」


 食い下がるアウレリオに、イングヴァルは答えた。


「……少し、考えさせてくれ」

「本当ですか!」


 有体な保留の言葉を真剣に受け止められて、イングヴァルは少し良心が咎めた。


「……今日はもう寝よう。森を抜けるにはあと二日はかかる。体力を温存しないと」


 アウレリオは頷き、丁度沸いた水を冷まして喉を潤してから二人は寝支度をして休んだ。

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