第36話「空腹が傲慢な女のプライドをへし折る」
「やっ、やっと付きましたわ……」
船底にある三等客室には当然窓などなく、明かりはランプのみ、直に船の揺れを感じるので、気分が悪くなった。
地面に降り立ったとき、地面が揺れないことに感謝した。
取り敢えず公爵家に帰って持ち出せなかった貴金属を持ち出し、質屋に売って現金に変える。
宿屋は懲りたので家を買おう。
一等地に大豪邸を買うのは無理でも、街の外れに小さな家なら買えるはず。
残ったお金は銀行に預けましょう。
なんの事業を始めるかは、新居での生活が落ち着いてから決めても遅くないですわ。
そのためにも一度家に帰らなくては!
公爵家に着いたらシャワーを浴びたいし、着替えもしたいですわ。
でも一番最初にしたいのは食事ね!
エミリーの店でガトーショコラを食べて以来、何も口にしていない。
キャビア、フォアグラ、牛ヒレ肉、子羊、鴨、サーモン、ムール貝、真鯛、舌平目、苺、林檎、桃、洋梨……食事のことを考えていたら、お腹がなってしまった。
こんな惨めな生活とも、もうすぐおさらばですわ。
馬車乗り場に行き、「シーラッハ公爵家まで」とお願いするが、どの御者も乗せてくれない。
御者は口を揃えて「お前みたいなみすぼらしい格好の女は乗せられないね。タダ乗りされたらかなわないからな」と言った。
「わたくしはシーラッハ公爵夫人よ!
代金はシーラッハ公爵家についたら通常の料金の三倍、いいえ五倍払うわ!」
わたくしがそう言っても誰も取り合ってくれない。
こんなことならエミリーがお金を貸すといったとき、いくらかでも借りておけばよかったわ!
あんな女に借りを作りたいと思うなんて……何たる屈辱!
今のわたくしは正常な判断力を失っていますわ!
それもこれもご飯を食べていないせいですわ!
一刻も早く家に帰り、食事にありつかなくては!
しかしそのあとも、何人もの御者に断られ続けた。
さしものわたくしの心もすり減っていく……。
こうも見た目で判断される世の中だなんて……。
「ちょっと歩くが、あんたでも乗せてくれる馬車があるぜ」
そんたとき一人の御者がわたくしに近づいてきて、そう言った。
男に付いていくと、そこにあったのは人が乗る馬車ではなく、鳥や豚を運ぶ荷馬車だった。
「あんた金も持ってないようだし、頭も少しおかしいようだ。
自分を公爵夫人だと思い込むなんて、よっぽど酷い目にあったんだろう。
気の毒だから乗せてやるよ。
荷台に動物と一緒でよければだけどな」
荷馬車の御者席に乗っている男が、わたくしに向かってこう言った。
今この男は、わたくしの頭がおかしいって言ったのかしら?
本来ならこんな下々の者たちは、公爵夫人であるわたくしの顔を見ることすら叶わない立場だというのに……生意気な!
こんな下々の者たちに哀れみをかけられるなんて……!
「ふざけないで!
わたくし公爵夫人よ!
獣と一緒に馬車になど乗れるもんですか!!」
わたくしは男に罵声を浴びせ、その場をあとにした。
腹が立ちますわ!
わたくしを物乞いや悪魔に取り憑かれて精神を病んでしまった人間と同列に考えるなんて!
わたくしが空腹じゃなかったら、先程の御者を殴りつけているところですわ!
公爵夫人であるわたくしが、本気を出せば馬車の一台や二台、簡単に貸し切れるのよ!
だがそのあと日が暮れるまで探しても、わたくしを乗せてくれる馬車は見つからなかった。
その日は外で野宿をして過ごし、次の日も乗せてくれる馬車を探した。
空腹でめまいがするが食べるものは何もない。
あの獣を運ぶ馬車に乗っていれば、いえ、あの荷馬車に乗っていた鶏を一羽盗んで入れば、鳥の丸焼きにありつけたのに……。
公爵夫人であるわたくしが、腹を満たすために、鶏を盗むことを考えるなんて……惨めだわ。
それもこれも空腹とこの格好のせいよ。
シャワーを浴びてドレスに着替えて食事を取れば、元の気品あふれるわたくしに戻れるはず!
元の気品あふれる自分に戻るためにも、一刻も早く公爵家に帰って何か食べなくては!
子羊の香草焼き、子牛のステーキ、鴨肉のコンフィ、エクレア、マカロン、マドレーヌらクレープ……想像したらよだれが。
もう手段を選んでる場合ではありませんわ!
こんなところで野垂れ死にするなんてまっぴらです!
その日の昼過ぎ、わたくしはこっそり獣を運ぶ荷馬車の荷台に潜り込んだ。
獣の糞尿の匂いが気になりますが、背に腹は代えられません。
このときのわたくしは公爵家に帰ればどうにかなると、本気で考えていた。
数時間後、その考えが甘かったことに気付かされることになるとも知らず……。
☆☆☆☆☆☆
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