第28話 幕間・届かなかった僕の恋文
「あのさ、兄上……」
「どうした
あまり可愛いとは言えない弟だと自覚している。
人当たりが良く温厚な兄に対し、鼻っ柱が強く生意気な自分は年齢が離れたこの人が甘いのをいいことに言いたい放題だった。
客観的に見て、仕事も自分の方ができる。
しかしことが対人関係となると太刀打ちできなかった。
「あのね……」
「ん、何だ?」
促す声の色も柔らかくて、言いにくいことを自然と引き出す力がある。
こういうところは敵わないと素直に思える。
「…………恋の
兄は目を丸くする。次に訪れるのは大笑いか大袈裟な感涙か、襲い来る羞恥を覚悟して気合いを入れ直した理知だったが、代わりに肩に手を置かれた。
どこまでも弟をよく理解して、思いやりの深い兄だった。
名を、
* * *
真理は今でこそ浮ついたところのない誠実な夫だが、独身時代は人も羨むような美しい恋人が途切れることがなく、恋の達人との異名を取った人物だ。
「無理だよ。たった三十一文字で一体何が書けるって言うのさ?」
「いきなり音を上げるな。絞るんだよ、まずは美しさを讃えよう。どうせお前忠子ちゃんを褒めたことなんてないんだろ?」
「美しさ……?」
確かに男女の文の一通目の定番ではあるが、兄弟の間に微妙な空気が流れた。
「忠子は讃えるほどの美人じゃないよ」
「お前シビアだな?!」
驚愕する真理としれっとした理知は顔こそ似ているが対照的な表情だ。
「忠子はあの容姿だからいいんじゃん。それに今更下手に褒めたってお世辞としか思われないよ」
「……この手はやめよう。お前の和歌力で失礼と誤解のないようにそれを伝えるのは無茶すぎる」
これには流石にお歌上手の真理も頭を抱える。
「そりゃ手とか凄くバランスいいよ。指が長くて爪も縦長で、全体的にほっそりしてて女性らしいたおやかさの象徴みたいな絶世の美女ならぬ絶世の美手だと思う。肌だってそれほど手入れしてるとは思えないのに肌理が細やかで真っ白だし、だからそばかすが目立っちゃうってのもあるんだけど。あとは……まあ、その、最近は……」
「皆まで言うな、男なら必ずそこに目は行く」
「…………」
(理知!)
会いに行くと向けてくる笑顔は昔のままの屈託ないものなのに、そのすぐ下にゆさっと成長した膨らみがあるのだから嫌でも視界に入る。視界に入れば見てしまう。
口ごもる自分に対してさもありなんと助け舟を出してくれたのは有り難いが、忠子のそこを注目していたと思うと我が兄ながら面白くはない。
冷たい視線に気づいたか、真理は素早く紙を差し出した。
「それはそれとして! 手なんて目の付け所がいいじゃないか。それで一首何でもいいから書いてみろ。まずは手を動かせ」
数十分後。
何とも言えない微妙な顔面で紙に目を通している真理がいた。
「書として装丁を付けて飾っておく価値はある。内容はともかく」
「内容はともかく……ね」
書かせておいて酷い言いようだと言いたくはあるが、とんでもない駄作なのは自分が一番痛感しているのだから生温かい笑みも出る。
駄目だと分かっても、それならどうすれば良作になるのかさっぱり見当がつかない。
忠子もこういうもどかしい想いと毎日向かい合いながら創作活動をしているのだろうか。だとしたら凄すぎる。
「お前なあ、こういうところだぞ。描写すりゃいいってもんじゃないんだ、重要なのは心だよ、心! この美しい手にどんなふうに自分の心が動いたのか、そっちの方が重要なんだ」
「書けと言われたから書いただけで、別に……」
真理は深く深呼吸し、素数を数えた。
「アプローチを変えよう。お前は忠子ちゃんに何を伝えたいんだ?」
「伝えたいこと……?」
「ピンと来ないか。それじゃ、今になって歌を贈ろうと思ったきっかけは何だ?」
忠子が他の男性から文をもらっていると知ったことだった。複数から。しかも、結構いい感じの。
それを歌意っぽい言い回しに整理してみる。
「あなたが文をもらったと知って、私の心は千々に乱れています。訳が分かりません。……でもだから何なの? 忠子だってこんなオチのないこと言われたって困るよ」
「オチはなくていいんだ」
余りの言いように言葉を失ったが、顔を見るとふざけて言ったわけではないらしい。
「探すんだよ、二人で。文のやり取りってそういうもんだ」
「ええ……?」
「いいか、理知。恋は一人でできる。愛は二人で育む。最初から結論ありきで臨まなくたっていいんだ」
自分にはまったくなかった考え方に、理知は二の句が継げない。
「一通目はきっかけにすぎない。女の方だってお前に興味がなきゃ何この文返しようがないわって握りつぶす。けどお前に興味を持ってくれたら、何かしら拾って返してくれるもんだ。そうやって会話を展開させてお互いを知り合って、絆を深めていくんだ」
兄は凡庸だと思う。
容姿も悪くはないが、さっぱりとして清潔感があり感じのいい人とだ思わせる程度だ。
仕事振りは堅実、目立った失敗もなければ功績もないと聞く。
しかしありふれた立場から人と人との付き合いや観察を通じて経験を積み、ある種の
「……兄上が恋の達人って呼ばれてた理由が分かった気がする……」
「俺はただ、好きになった人と二人で手を取り合って歩いていきたいって主義なだけだよ。たまたま惚れた人が同じような考え方を持ってただけだ」
自分を好きになってくれそうな女性を見極める嗅覚も鋭かったに違いないと確信したが、そこは黙っておくことにした。
* * *
「忠子様、深山の山寺におこもり中だそうです」
「…………」
やっと書けたマシな歌を持たせて使いに出した
「どうすんのさこれ……時事ネタ読み込んだから改めて送るわけにもいかないし」
「こういうこともあるさ。俺だって何通も返ってきた。突っ返されるのはまだいい方で、酷いときは嘘の連絡先で宛所不明だったりな。おこもりなんて受け取り拒否のうちに入らないって、また書け」
恋の達人は黒星も多く重ねたらしい。
こうして理知初めての渾身の恋の歌は、日の目を見る機会を永遠に失ったのであった。
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