1-3:黒い女剣士 上

 砂浜を歩きながら少し状況を整理してみる。


 まず、自分の記憶のこと。やはり何も思い出せない。悲しいかな、記憶喪失なことだけは確かだった。


 次に、先ほどの女神とやらは本物か。夢でなかったのか? 夢だとするには、妙に生々しく覚えているし、ひとまず現実であったこととする。


 最後に、現状ではこれが一番重要になるのだが――ここはどこかという問題だ。記憶にないだけで、ここが実は自分が本来いた世界のどこか、という可能性は捨てきれないだろう、海があり、夕日があり、東側にはうっそうと茂る森があり――構成物は、前世のものと変わらない。


 女神の言っていた通りなのか、1Gというか、体を動かしていて違和感もない。おそらく、自分は酸素も吸って吐いている。これだけであれば、異世界に転生したというよりは、まだ記憶喪失でどこかの浜辺に打ち付けられた、というほうが幾分か説得力はありそうだった。


 ただ、一点、前世と致命的に違う点を発見した。それは、東側に一つ、そしてほぼ自分の真上に一つ、計二つの月が存在することだった。この世界的に月というのが正解なのかは分からないが、少なくとも衛星が二つある世界に来た、これは間違いなさそうだ。


「……特に何が進展したわけでもないな」


 一瞬足を止め、自分の髪をくしゃくしゃにかく。どうやら異世界というのが間違いなさそうというだけで、私は誰、ここはどこという現状は何も打破されていない。


「普通、もう少し人気があるところとかに復活させるだろうがよ……」


 そう、恐らく三十分ほど歩いたが――体内時計なので実際はもっと短いかもだが――行けども行けども水平線と森が見えるだけで、景色が変わる気配がない。人の気配など微塵にも感じない。それどころか、生の気配を感じられない。


 もちろん、海岸に打ち付けられる波の下に、貝など生物だったものの跡は見て取れる。ただ、生きている生物が全然見られない。鳥や魚なども見かけていない。ここが異世界で魔王とやらがいるのであるならば、モンスターというか、怪物に襲われていないだけ幸福なのかもしれないが。


 いつの間にか、両腕が自分の体を抱いて少し縮こまっていることに気づいた。もうすぐ日が暮れるのだから、気温が落ちてきている。自分は割と厚手の服を着ているのだが、それにしても寒い。森の木々はうっすらと雪化粧をしていることを見ると、季節は冬なのか、それとも寒い地域なのか。見たところ木々は針葉樹のようだが、前世と生態系が完全に一致しているとも限らないので、寒冷な土地と断言はできない。


 しかし、このままだと夜になったら凍死してしまいそうだ。どうする、火でも起こして明日の朝になるのを待つべきか? 幸い、枯れ木はそこかしこで集められるだろう。しかし、自分で火を起こせるものだろうか。打ち石ではもちろん出来る気はしないし、細い棒をくるくる回して火を起こす道具ってあったっけ、しかし実際にやったこともないので、アレでも火を起こせる気はしない。ライターでもあれば一発だが――文明の利器を持たずに放り投げられた自分は、原始人と大差のない存在だった。


 自分のふがいなさに一抹の悲しみを覚え、大きくため息を吐いた直後、あたりの静寂が一層増したせいか、横の茂みの奥からガサガサと、枝がこすれあうようなわずかな音を拾うことができた。おそらく、風というわけでもあるまい。何がしかの生物が、森の中にいるのだろう。


 どうしたものか、見に行くべきか? 仮に茂みに居るのが人間だとすれば、女神曰く言語機能はしっかりしてくれているとのことなので、こちらの意思を伝達することは可能だろう。しかし、まずこんな辺境に人がいる可能性は低いし、仮にいたとしてもそれは夜盗か何かの類で、話は聞いてもらえないかもしれない。


 もっと言えば、人間以外の生物の可能性のほうがよほど高い。それが化け物だったら、せっかく蘇った――死んだ記憶もないのだが――命が無意味に終わることになるだろう。


「……ばれない様に見てみて、変な生き物だったらこっそりずらかるか」


 リスクのほうがよほど高いのだが、現状打破のためには仕方がない。新しい風が必要だ。我が身一つなのだからもう少し慎重になるべきかもしれないが、逆に我が身一つなのだから冒険したっていい。


 物音のした方へ、なるべく物音を立てないようにコッソリと近づいていく。すでに森の外も暗くなり始めていたのだから、木々に日は遮られて、森の中はなお一層暗い。葉の隙間、真上から覗くもう一つの月だけが唯一の光源だ。幸い、前世は夜目は効くほうだったのか、月明かりがあれば周囲は見える。しかし、足元まではしっかり見えない――音に敏感な奴でもいるかもしれない、慎重に近づかねば。


 近づくと同時に、森の中から相手の気配を手繰る――小さな風の音、木々の揺れる音、それをかき分けて感じる気配――恐らく、比較的近くに三体ほど、あともう数体、気配を感じる。


 ふと、奥で影が踊った。すぐに木の幹に体を隠し、顔だけ少し出し、何者がいるのか見てみる。背の丈は自分よりはかなり大きい、二メートル弱はあるであろうか、それがここから目視できる範囲で、予想していた通りに三体ほど、二足歩行の生き物が少し拓けた場所にいるのが確認できた。この世界の人間は背が異様に高いのか――というよりは、人外と言ったほうが差しさわりのないフォルムだろう。少し目を凝らしてみると、うち一体の横顔が、月光を受けて浮き彫りになった。


 毛で覆われた尖がった耳に突き出た口、端的に言えばオオカミのような顔。よくあるファンタジーにこの状況を照らし合わせれば、オオカミの人型と言えばコボルトだろうが、それよりは禍々しく見える。その証拠に、彼らは二足で歩行して長い手足を持っており、簡易な布で体を多い、また簡単な武器を腰に携えてはいるが、その四肢の発達していること、鋭い爪、それらを見れば、武器など飾りで、その肉体だけで人間など簡単に殺せてしまうことは容易に想像できた。


(……コボルトというより、ワーウルフか)


 冷静に分析しているつもりではいるが、実際は状況に混乱しており、頭は回っていない。イヌ科なのだから、どうせ耳も良いのだろうが、まだバレていないのは幸いだ――とはいえ、何かあればすぐに自分の緊張が爆発し、呼吸が乱れ、気配を悟られてしまうのは容易に想像できる。そうなれば、ひとたまりもないだろう。


 もちろん、コボルトならどうにかなるとかいう話ではないのだが、転生最初に出くわすモンスターとしては、いかんせんレベルが高すぎる気がする。普通はゴブリンとかスライムとか、もうちょっとお馴染みなやつが出てくるのがお約束というやつではないか。もしくは、最初っから強敵でも、チート能力などでなぎ倒せるとか。


 ともかく悲しいかな、どれだけ考えても現状が良くなるわけでもない。なんとか、奴らにはこれ以上は近づかないようにして、離れたところでまた足音を立てずに逃げおおせるしかない。


(……しかし、奴ら何をしているんだ? 何かを探しているようだが……)


 ワーウルフたちは当たりを見まわし、耳をすませているように見えた。しかし、あれだけイヌ科が周囲を警戒している中、よくここまで近くに寄れてしまったものなのだが――。


 ふと、耳をつんざくような咆哮が森を震わせた。犬の遠吠えを少し低くしたような声、腹に響く音、背を預けている木が震えるほどの振動。音と同時に、三体の獣人達の毛も逆立ち、臨戦態勢に入っている。


 遠吠えはどちらから聞こえたか、まさか別の個体が、俺を見つけ仲間に知らせたのか――しかし視認できる獣人達は、自分が隠れている方とは逆方向を見つめているようだった。


 その先から、徐々にまた影が迫ってくる。その影は獣人たちと比べると遥かに小さい。成人男性に近いか、それよりやや低いか――どうやら、アレは人間だ。アレを獣人たちは探していたのだろう。


「……待てを聞けるのね、犬畜生」


 まだ遥か影がやっと見える距離なのだが、その声は風に乗って確かにこちらまで響いてきた。よく見れば、その影は背後から更に二体、どうやら近くにいるのと同種の魔物が追いかけてきているようだった。


 しかし、走っている影は狼に追い付かれない。相手は獣、普通の人間とは比にならない速度で走っているはずだし、事実そのように見える。しかし、影の速度はそれとほぼ同等か、それ以上。狼の先導者は徐々にこちらに近づいてきて――三体の獣人の待つ拓けた場所に、その影の主が現れた。女性だった。


 髪は黒に近いが、月の光を少し照り返す赤茶色で、まっすぐに長く、後ろで結わえており、腰ほどまで伸びている。そして、黒い外套を羽織り、胸にはブレストプレートというようないで立ち――つまり、女剣士というようないで立ちで、凛とした目が印象的だった。そして、その予測に違わぬ証拠として、左の腰に長剣を一本と短剣を二本帯刀している。


 彼女の足が止まると、怪物達の足も止まった。取り囲むように五体、獣人達が殺気を放っている。しかし、彼女の方も臆することなく、捕食者達を見つめ返している。


 待てを聞けると言った時には、彼女こそがこの獣人たちの主の可能性も考えたが、どうやらその正反対だ。むしろ彼女よりも巨大な魔物に対して、皮肉として待てと言っていたのだろう。


 それならば、きっと彼女は強い。どんな作戦かは知らないが、五体を相手にして問題ないと判断して、奴らをここに招き入れたのだろうから。それにもし、彼女の実力が足らないとして、自分にワーウルフ達をどうこうできる実力はない――ここは、見守ることしかできない。


 彼女の左手が装飾のある短剣に伸びる。


「……死の女神、無敵の女王、汝に仇なす者たちを、其のくびきに繋ぎ止めん……」


 彼女が詠唱を始めると、短剣に埋め込まれている宝石が、淡く光り始める。風が薙ぎ、周囲の木々を震わせている――すさまじい気迫に、自分も、獣人たちも吞まれているようだった。


 だが、気が付けば、自分の体は勝手に動いていた。奥歯を噛みしめ――自分の衝動に体の速度が追いついていないが、今はともかく早く――木から離れ、近場にあった石を拾い上げる。自分の立てた物音に獣人たちも反応したようで、一斉に狼の瞳がこちらに向いた。


 そんなことはどうでもいい、自分は動いた、その意味を果たすだけ。ほとんど無意識で投げた石、その軌道の先には、茂みから飛び出そうとした伏兵の目があった。


 無視することもできたが、体が動いてしまったのだから仕方ない。いくらあの剣士が強そうだからと言って、奇襲が防げたのかも分からないから――化け物の叫び声と同時に、赤黒い血が、片目を失った獣人の側にある木の幹に飛び散った。

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