銀の妖狐(2)

 *


  そこはもう、夜の闇に沈む、藤壺の殿舎の庭先だった。だが、夜も更けきっているというのに静謐とはほど遠く、なにやらざわざわと慌ただしげに物音が響いている。


 それもそのはずであろう。時の関白の御娘みむすめたる、中宮おわす飛香舎ひぎょうしゃ。その異名の元ともなった庭の藤の樹が――赤々と燃え上がっていた。


 ちらちらと炎の朱色が反射して、佇む春明の銀色の髪や尾の上で、美しく煌いている。舎内の騒ぎをよそに、遠い目で春明はその燃え盛る藤の樹を見やった。

 そんな彼を紫の光の糸が絡めとり、ぐいっと引きずり上げる。


「はい、回収~」


 元の内裏に戻るとともに、殿舎の屋根の上に潜んだ玄月だ。無理だ無理だと騒いでいたが、なんとかその身を守れたらしい。当然だ。彼がなんだかんだと言いながら、しっかり実力を秘めているのは、誰より春明が一番よく知っている。そうでなければ、格好の餌でもある彼を、さすがに化生の前に易々と投げ出さない。


「気持ちは分かるけどぼやぼやしてると、その姿見られるよ」

 玄月は、隣に引っ張った春明の額にぴしりと符を一枚張り付けた。気配を消す隠形のためのものだ。別に額に張る必要はないはずだが、と思いながら、されるがままに春明は頭を抱えた。


「・・・・・・後始末がどう考えても面倒過ぎる・・・・・・。よりにもよって藤壺に隠しておくとは、どういった嫌がらせだったんだ・・・・・・」

 五本の尾が力なく項垂れ、耳はすっかり萎えしぼんでいる。優美な姿に、消しようのない哀愁が漂っていた。


「ま、あの裏での大騒ぎが、藤が一本燃える程度の影響で済んで良かったと思うしかなくない?」

「最小の被害が最大の問題だ。よりにもよって藤壺だぞ? 慶長よしながが、不吉だ、己が一族への凶兆だと、騒ぎ立てるに違いない。せめて、内裏の他でも被害が出ていたならいざ知らず……」

「え? じゃあ、他のところも適当に、ばれないようにぶっ壊しとく?」


 玄月はさっと両手に符を構えた。うっそりと春明が見上げれば、悪気のまったく感じられない射干玉が、生き生きと輝いている。


 半ば光のない目で、しばしそれに魅入られるよう沈黙したあと、彼は静かに、絡んだ視線をほどいて顔を覆った。

「――玄月・・・・・・。・・・・・・めっ・・・・・・」

「あ、うん。なんか・・・・・・ごめんね?」


 あまりに覇気がなく、柄でもない叱責に、思わず憐れみをこぼれさせて玄月は身を引いた。これは相当、参っている。


「とりあえず、騒ぎがこれ以上大きくならぬよう、この場だけでも適当に取り繕うか・・・・・・」


 ちらちらと視界を邪魔する額の符をはがす気力もなく、ぺらりとそれを捲ると、春明は溜息をついた。人が集まりだした庭先を眺め、そっと懐から己の符を取り出す。ふわふわと庭へと漂っていったそれは、するりと内裏に相応しい正装姿の春明の姿をとって、不安がる人々に歩み寄った。


「さっき化生も、あの程度で誤魔化せれば、その姿になっちゃうこともなかったろうにねぇ」

 なにやらあることないことを尤もらしく述べて、人々を安心させている形代の春明を見やり、玄月がぼやく。


「それほど甘い相手ではなかっただろう。あんな紙切れ同然のままではなく、ちゃんと血肉を通わせる必要があった」


 ただ人の目には紛れもなく安倍春明本人に見えるだろうが、力持つ彼らの目には、符を変じた偽物であることなど一目瞭然だ。それではあの内裏の化生を騙し、油断を誘いはできなかったのである。力あるものの目さえ欺ける、血肉を通わせた偽物でなければならなかった。


 だが、一瞬でも命に似たモノを生み出すことは難しく、手がかかる。しかもそれを瞬時に、見抜かれないよう、己とすり替えねばならなかったのだから、春明も大きな力の行使を必要とされた。


 だから、普段は封じている本来の姿――化生の混じった姿に戻ってしまったのである。


 狐の化生と人の混じりもの――。それが、安倍春明だった。


 彼のこの姿は、師である桂木も知り及ばない。知っているのは玄月だけだ。

 それも、自ら明かしたわけではない。ただ、ばれた。彼のすべてを見透かす射干玉の瞳を前に、春明は己が真実を隠し通せなかったのだ。それだけだった。


 本来ならば調伏されるはずのモノが、大陰陽師などともてはやされている愚かしさを、本当に実力ある人間の陰陽師が見抜いた。そんなよくある、化生が素性を暴かれた、つまらぬ話だったのである。


 ひとつ、想定外だったのは――その真実を知り得たあと、この男が彼を調伏するでも、追い落とすでもなく、隣に居座ってきたことだ。


『君の孤独の良き友に。どうだい? ちょっと仲良し、してみない?』


 誑かすのも誘うのもこちらの所業と思ったが、寒気を覚えるほど美しく揺らいだ黒の瞳に――抗いがたかった。


 彼の瞳は魔性を誘う目だ。それは、間違いない。だが己の覚えたあの日の感覚は、この身に流れる化生の血ゆえでなければよいと、いまは、思っている。


「なんかさ、前より尻尾増えてない? こう、もふもふの総量がお得な感じになってる」

「お得な感じとはなんだ、意味が分からん」


 無遠慮に伸びてきた手をばしばしと尻尾で叩き落としながら、春明は言い捨てた。


「まあ、だが、確かに増えた・・・・・・。どうも近頃、化生の血の方が強くなってきたようでな」


 元より、春明の身体は化生の血に馴染みが良いらしかった。その血のおかげもあって、人離れした陰陽の術も、春明は苦も無く行使できるのだ。


 だが、このところ力を増している化生の影響か、それを度々調伏してきたからか、徐々に人の血が薄れ、魔を宿す血が濃くなってきているらしい。以前ならば多少過ぎた力を使っても、人の姿を失うことはなかった。それがいまは抑えが効かず、この体たらくである。


 このままではいずれ、化生の血に吞まれ、人ではないモノに変わり果ててもおかしくはない。

 人として在った日を、いつかに置き捨てて――。ただ《澱み》を喰らい、人を屠るモノになる。


 春明は火灯り宿す双眸で、星の散る夜空を見上げた。


 星々は神の住まう天上の零れた明かり、といわれている。そして気まぐれな神々はたまさかそこに、人の未来をのせるのだ。だから陰陽師は星を読む。時折そこから、誰かの歩む道の先を見通すことが出来るから。


 しかし空の輝きはいまは静かで、何も語ってはいなかった。陰陽師と世人をたばかる化生の行く末も、ようとして知れない。

 けれど――


「いずれこの身が化生と成り変わり、意識も魂も引きずられたとしても、お前がいるなら、安心というものだ」

 人ならざる白銀の髪、金色の瞳は、玄月を穏やかに見つめた。


「稀代の陰陽師・芦屋玄月。お前なら、きっと私を調伏できるだろう」


 下方の焔の零れ火が跳ね返り、朱色の光の欠片となって、淡く銀糸の上で爆ぜ飛んだ。表情の変化に乏しい優美な白銀の化生は、それでもどこか間違いなく、安堵の笑みを浮かべていた。

 だから、射干玉の双眸に映り込むその姿に――玄月は、軽い調子で苦笑する。


「荷が重いな~」

「私を打ち滅ぼす者が、お前を置いて他にいるか」

「やだやだ、いろんな意味で重―い」


 やる気のない返答に、五本の尾が不満げにはたいてくる。それを玄月はおざなりに手で払って戯れた。


「それにさ、君に及ばぬ俺が、君に勝てると思う?」

「お前はなぜそう己が実力を過少に見積もる。お前は私が認めた陰陽師だ。どれだけ世間が騒ぎ立てようと、私は所詮、化生の血で力を水増ししただけの紛いものだ。確実に、お前が都随一の術師だろう」


「――それを言うなら、君もだ。春明」

 我がこと以上に不服を端々に滲ませる春明に、玄月は可笑しそうに微笑んだ。

「化生の血の有無ではないところで、君は紛うことなく、俺と同じ陰陽師だ。俺など及びもしない力を、その血と関係なく、君はちゃんと持っている。君こそその血を理由に、己を卑下しすぎだ。君は俺が認める、稀代の陰陽師だよ」


 春明を、深く眩い黒が絡めとる。それは、星を抱いた天上の色。人にも化生にも届かぬ焦がれを抱かせる、神の昇った彼方の色だ。そのくせそれは、そば近くで美しく瞬き、こんな時ばかり、軽薄を潜め、揺るぎない誠実を無防備に寄越す。だから、否と無碍にも反論しがたくなるのだ。


「きっと俺たちなら、なにか別の術を見つけられるさ」

 綾を散りばめた射干玉は、そうあまりに気軽に笑ってみせた。


 それでもなお、額の符の下にのぞく春明の面持ちは釈然としない。強情だなぁ、とばかりに玄月は甘く肩をすくめた。


「ま、君が化生となるが、真実、抗いがたい運命さだめだったなら――仕方がない。その時は君が願い、この芦屋玄月が承ろう」


 黙り込んだ春明の耳元を、どこかはぐらかす軽妙さで、柔らかい声はなだめて跳ねていった。






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