真井くんは虫を潰すのが上手い
朝夜
真井くんは虫を潰すのが上手い
実験の手順
①ユスリカの幼虫の頭を柄付き針で抑え、ピンセットで胴体を引っ張ります。
②引き抜いただ腺に酢酸オルセイン溶液を一滴垂らし、五分間放置し、染色します。
③プレパラートを作成し、だ腺染色体を顕微鏡で観察します。
実験の結果をプリントに記入しましょう。
生物実験室の四人座りのテーブルで、真井くんが一番、ユスリカの幼虫の頭を引き抜くのが上手かった。
真井くんは、人懐こい感じの男の子だ。人畜無害、無邪気、という言葉が似合って、誰からも好かれている。たぶん、少なくとも私のクラスに、真井くんを嫌いな人はいない。
真井くんは私たちのテーブルで一番早く、一番上手く虫を潰して、プレパラートを作っていた。
私の左斜め前の席に座っている平沢さんという女の子が、ピンセットを握りしめて「無理」と、正面に座る真井くんに、助けを求めるように言った。
「おれ、やろうか」
真井くんはすぐに移動して、平沢さんの幼虫の頭を、自分のと同じように潰して、引き抜いた。
真井くんは全くためらわなかった。
教科書の写真と同じように、ミミズみたいな幼虫の潰れた頭から、透明なだ腺が糸を引く。頭がちぎれて残った半身が、まだくねくねと身を踊らせていた。
ひゃあ、と平沢さんが小さく悲鳴をあげた。
「気持ちわるー……」平沢さんは本当に嫌だという様子で、プレパラートに触りたくもないようだった。
「俺のもやってよ」と平沢さんの隣に座っていた中田くんという男の子が言った。
「いいよ」
真井くんは全く嫌ではないという様子で、中田くんの幼虫も、やっぱり同じように頭を潰した。
「うげえ。えぐ」
中田くんは真井くんが代わりに作ったプレパラートの端っこを持って、ためつすがめつして眺めていた。
真井くんは二匹余計に虫を潰して頭を引き抜いたのに、何でもない様子で自分の席、つまり私の左隣の席、に戻ってきた。
それからプレパラートを顕微鏡にセットして、ピントを合わせ始めた。
私の視線に気付いたのか、ふと真井くんが私を見て話しかけた。
「佐藤さんは、大丈夫?潰せた?」
「あ、うん。大丈夫」
「そっか」
一瞬ちらりと私の手元を確認して、真井くんはまたすぐ顕微鏡を覗き込んだ。
私は真井くんが虫を潰すのを隣で見て、見よう見まねでやっていた。けれど、真井くんみたいに上手くは潰せなかった。だ腺がどれなのかもよく分かっていない。
私も顕微鏡を覗き込む。
いくらピントを合わせようと頑張っても、だ腺染色体らしきものは見えなかった。
真井くんが隣でシャーペンを走らせるコツコツという音が聞こえる。
私は諦めて、教科書の写真をプリントに写そうと考えた。
その時、実験室内をゆっくり巡回していた生物の深谷先生が、私たちのテーブルに近付いてきた。
「ふかやん」
と真井くんが先生を呼んだ。
深谷先生は五十代くらいの男の先生で、髭はなくて、白髪混じりで短めの髪に、四角い眼鏡で、いつも白衣を着ている。さっぱりとした印象の先生だ。
めったに怒らなくて優しいから、生徒から「ふかやん」とあだ名で呼ばれている。
「真井くん。どうですか?見えましたか?」
「ばっちり。見てふかやん」
真井くんは嬉々として深谷先生に顕微鏡を指し示した。
座っている真井くんの肩越しに、深谷先生が覗き込む。
「上手く出てますね」
と深谷先生が言った。
「ふかやんー。ピント合わない」と中田くんが言った。
はいはい、と言って深谷先生が中田くんの方に身体を向けた。
「ふかやん、今日もおれ、行っていい?」
深谷先生を引き留めるように、けれど周りに聞こえないように憚る様子で、真井くんが言った。不安気な子どものように、少し早口で。
「はい、どうぞ」
深谷先生は優しく微笑んで言った。
真井くんは深谷先生が離れると、俯いて、口元を手で覆った。けれど指の隙間から、緩んだ表情が漏れていた。
「ふかやんと仲、いいの?」
私は思わず聞かずにいられなかった。
真井くんはハッとした表情になると
「聞いてた?」
とちょっとうろたえるように言った。
真井くんの耳はほんのり赤くなっていた。
私は、うん。と頷いて、
「真井くん、虫を潰すのが上手いんだね」
と言った。
それに真井くんは虫を潰す時、全くためらわなかった。
上手いかどうか分からないけど。と真井くんが言った。
「おれ、ふかやんに頼んで、実験の準備手伝わせてもらったんだ。その時に、虫を潰す練習もして」
「それで、虫を潰すのが上手かったの?」
「……上手くできたら、褒めてくれるから」
誰が、とは真井くんは言わなかった。
真井くんの頬がじわりと赤く染まった。
真井くんの目線の先は、深谷先生だ。
なんだか分かった気がした。
真井くんが虫を潰すのが上手かった理由が。
ようするにこれは、真井くんの秘密に関わることなのだ。
私はちょっと嬉しくなった。
いつもクラスの中心にいる真井くんの秘密を、今はたぶん、私だけが知っている。
「真井くんの顕微鏡、見せてもらってもいい?私は、上手く潰せなかったから」
真井くんはちょっと照れくさそうに、
「いいよ」
と言って笑って、椅子を引いた。
私は立ち上がって、真井くんの顕微鏡を覗き込む。
小さな丸の中、教科書のお手本通り、絡まった短い赤い糸みたいなものが二本、見えた。
きっとこれは、真井くんが深谷先生と二人で行った練習の成果なのだ。
この生物実験室で、二人きり、虫を潰して。
ふたり小さな世界の、実験結果。
やっぱり真井くんは、虫を潰すのが上手かった。
真井くんは策士だった。
実験の日から、私は真井くんの観察をはじめた。真井くんを見ていると、だんだん分かってきたことがある。
真井くんはいつも慎重に、深谷先生との出会いを作っている。
多すぎも、少なすぎもしないように。偶然と故意を織り交ぜて。
あるいは休み時間、あるいは放課後、そしてあるいは授業中に。
深谷先生は真井くんの策に気づいているだろうか。気づいても、深谷先生は真井くんを拒絶できないのだ。真井くんは無邪気だから。
真井くんは自分の無邪気さも策にしているように見えた。
でも、本当の本当はきっと、そんなことは関係がないのだと、二人を見ている内に思った。
二人があまりに楽しそうだったから。
深谷先生と話している時の真井くんが、ほかのどんな時よりも嬉しそうに笑っていたから。
真井くんの観察をはじめて一週間くらいが経った日の放課後、真井くんと深谷先生が、揃って生物実験室に入っていくのが見えた。
別のクラスの友達に聞いたところ、今度は内臓を使った実験をするそうだ。なんの動物だったかは忘れてしまったけれど、肝臓と、心臓とを使うそうだ。
二人きりの実験室で、真井くんはまた、実験の準備を手伝って、予行練習をしているのだろうか、と思う。
それとも、実験室で、真井くんはまたユスリカの幼虫を潰しているのだろうか、と思う。
真井くんは虫を潰すのが上手いから。
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