草太、黒崎の過去を知る

「なあ、頼むよ。この通りだからさ」


 床に額をすりつけ、哀れな声を出す草太。

 そんな彼の前に立っているのは夏目美桜である。彼女は無言のまま腕を組み、じっと草太を見下ろしていた。その顔には、何とも言えない複雑な表情が浮かんでいる。




 草太、ユリア、黒崎、そしてカゲチヨの三人と一匹は……今、美桜の家に来ていた。

 彼らは昨夜、事務所にてロシア人の襲撃を受けた。そのため、昼間までは軽トラ内で過ごし……美桜が起きるのを確認してから、皆を引き連れ彼女の家を訪れたのである。

 ユリアとカゲチヨ、さらに上手くいけば草太と黒崎も住まわせてもらうために……。


 美桜の住む『報連荘ほうれんそう』は、流九市にしてはまともなアパートである。近隣には公序良俗に反しない住人たちが多く住んでおり、交番も近い。さらに、美桜の部屋は三階にあるため窓からの侵入も難しい。いくらロシア人といえど無茶なことは出来まい……という、草太なりの計算もあった。

 ただ問題なのは、この部屋の住人である美桜に対し、事前の相談なく突然に来てしまったことである。

 そのため、草太はひたすら土下座しながらペコペコ頭を下げまくっているのだ。浮気がバレたアホな亭主のように、ひたすら謝っていた。

 ちなみに、黒崎は美桜との交渉を草太に押し付け、自分は外でたそがれている。暴力以外の局面では、いまいち当てにならない男であった。

 だが、そんなことを言っていても仕方ない。何としてでも、ユリアだけはここで生活させなくてはならないのだ。


「なあ、頼むよ。ユリアのためなんだ。この通りだからさ。ユリアとカゲチヨだけでいいから、預かってくれよう」


 哀れな声で言いながら、頭を下げる。すると、美桜は溜息を吐いた。


「それで、草太さんと黒崎さんはどうするんです?」


「いや、俺とおっちゃんは……まあ、どっか適当な宿を探すよ。美桜も、一応は女だし──」


「一応?」


 美桜がジロリと睨む。草太はマズいと思いながらも、顔には愛想笑いを浮かべた。


「い、いや、今のは言葉のアヤだよ。さすがに、俺たちみたいなのが妙齢の女性と同居するのはマズいよね。で、でもさ、もし泊めてあげてもいいわよって言うなら……」


 言いながら、上目遣いで美桜を見る。だが、彼女の表情は険しい。草太は慌てて目を逸らした。

 ふと横を見ると、猫のカゲチヨがおっかなびっくりといった様子で、あちこちの匂いを嗅いでいる。住む場所が急に変わったことにより、カゲチヨも困っているらしい。

 だが次の瞬間、草太は唖然となった。いきなりユリアが前に出て来たかと思うと、美桜の前で両膝を着いたのだ。

 しかも、その両手は胸のところで組まれている。まるで、神に祈りを捧げるシスターのようだ。木俣の時と同じポーズである。


「な、何ですかこれ!? あなたがやらせてるんですか、草太さん!?」


 ユリアの思わぬ行動に焦り、美桜は怒鳴る。だが、草太は首を横に振った。


「いや、俺じゃないよ」


 笑いをこらえ、すました表情で答える。一方、美桜は完全に狼狽えている。ユリアの意図がどこにあるのかは明白である。


「ちょ、ちょっとユリアちゃん……」


 美桜は困った顔で、ユリアを見つめた。だがユリアは、祈りを捧げるようなポーズを崩そうとしない。つぶらな瞳で、じっと美桜を見つめている。

 ややあって、美桜はため息を吐いた。


「仕方ないですね。おふたりも、しばらくは居ていいですよ」


「えっ、本当にいいの?」


 言いながら、草太は顔を上げる。ユリアも、嬉しそうに両手を挙げる。バンザイ、という意味らしい。


「ただし、変なことしたらすぐに出て行ってもらいますからね!」


 キツい口調で美桜が言ったものの、草太はほとんど聞いていない。彼はすぐに立ち上がる。


「じゃあ、おっちゃんに教えてくるから」


 言いながら、草太は外に出て行った。




 外に出てみると、黒崎はアパートの前で空を見上げている。その表情は、どこか悲しげであった。


「おっちゃん、美桜が泊めてくれるってさ」


「そうか。それは良かったな」


 答える黒崎の表情は、あまり嬉しくなさそうである。何かあったのだろうか…草太は不安になった。


「おっちゃん、どうかしたのか?」


 尋ねる草太に、黒崎は空を見上げたまま口を開いた。


「世の中というのは、本当に理不尽なものだな。あんな年端もいかぬ娘が命を狙われ、住む場所を追われなくてはならないんだ。神はなぜ、ユリアに苦難を与えるのだろうな……」


 黒崎の表情は沈んでいた。重たい空気が漂っている……草太は話題を変えようと焦り、さらにマズいことを口にした。


「なあ、おっちゃん。あんた、何でホームレスになったんだ?」


 言った直後、草太はその質問を後悔した。黒崎の表情が一変したのだ。苦虫を噛み潰したような……いや、毒虫を噛みちぎったような表情である。


「い、いや、別に言いたくなけりゃ言わなくていいけどさ──」


「便利屋……俺は昔、刑務所にいたんだよ」


 そう言った後、黒崎は静かな口調で自身の過去を語り始めた。草太は何も言えず、黙ったまま聞いていた。


 ・・・


 それは、もう二十年近く前の話である。黒崎が、現役の空手家だった時に起きたことだ。

 当時、まだ若かった黒崎は空手の稽古を終えると、自宅に帰るため川原を走っていた。トレーニングも兼ねて、走って帰るのが黒崎の日課だった。

 その時、チンピラ風の男が数人がかりで若い女を襲っている光景を目撃する。女は衣服を破かれ、さらに鼻血を出していた。どう見ても、仲間内で遊んでいる風景ではない。

 当然、黒崎は黙って見過ごすつもりはなかった。チンピラを全員叩きのめし、さらに警察へと突き出す。女も警察に保護され、これで一件落着……のはずだった。

 しかし翌日になり、逮捕されたのは黒崎の方であった。容疑は、傷害と殺人未遂である。


 相手の五人が、みな病院送りにされたこと。

 うちふたりは内臓破裂、残りの三人は数ヶ所を骨折させられていたこと。

 空手の有段者が、素人を相手に技を用いたこと。

 闘いの最中、黒崎は「貴様ら、全員殺してやる!」と口走っていたこと。


 などなど、黒崎にとって不利な条件があまりにも多かった。だが、何よりも大きかったのは、襲われていた女性が訴えを取り下げたことである。

 当時、性犯罪に関する裁判は酷いものだった。被害者の女性は裁判所で、言いたくもないことを衆人環視の中で言わなくてはならなかったのだ。

 そのため、女は被害届を出さず……結果、黒崎は殺人未遂と傷害で逮捕されたのだ。

 しかも、判決は懲役十年である。襲われていた女性を助けた報いとしては……あまりにも重く、理不尽な刑であった。




 その後、黒崎は十年に渡る刑務所での生活に耐え、晴れて出所した。

 だが黒崎には、もはや何物も残されていなかった。両親は他界しており、兄弟はない。僅かな財産は、被害者への弁済で全て消えてしまった。事件以来、友人知人はみな彼との交流を絶ってしまっている。空手の組織も破門された。


 ・・・


「以来、俺は何もかもが嫌になった。その時、初めて悟ったんだよ……世の中が、いかに不条理なものであるかをな。俺は全てを捨て去り、漂うように生きて来た……はずだったのにな」


 黒崎は言葉を止め、自嘲の笑みを浮かべる。

 一方、草太は何も言えなかった。この男の半生は、あまりにも理不尽だ。襲われている女性を助けたのに、十年の懲役を受ける……こんなことが、あっていいのだろうか。

 もし黒崎が空手の達人でなければ、大ケガをさせることはなかっただろう。懲役十年という刑罰を受けることもなかったはずだ。

 しかし、黒崎が常人であったなら……今度は、彼の方が大ケガを負っていただろう。その上、女性もまた乱暴されていたはずだ。

 なぜ、こんな理不尽なことが起きてしまうのだろう。




 唇を噛み締める草太に向かい、黒崎は静かな口調で語り続ける。


「俺は、空手だけは捨て去ることが出来なかった。何もかも失い、最後に残されたものが空手だ。だが、その捨て去れなかった空手が、ユリアを救うことになるとはな。皮肉なものだよ」


 そう言うと、黒崎は草太を見つめる。


「便利屋、俺はこの件だけは絶対に不幸な終わらせ方をしたくないんだ。ユリアの歳で、世の中がいかに不条理なものであるか……そんなことなど、知る必要はない。せめてユリアにだけは、ハッピーエンドというものを見せてやりたいんだよ」


 熱く語る黒崎だったが、その意見に関しては草太も同意せざるを得ない。


「そうだよな、おっちゃん。少なくともこの件では、ユリアがハッピーエンドを迎えられないなんておかしいよ」


 低い声で草太は言った。考えてみれば、黒崎だけではないのだ。美桜もまた、世の中の不条理の前に人生を狂わされた人間なのである。

 だからこそ、ユリアを助けたいと願う気持ちは強いのだ。もちろん、草太も気持ちは同じである。

 その時、美桜とユリアが外に出て来た。


「二人とも、何をひそひそ話しているんです?」


 怪訝な表情の美桜に、草太はヘラヘラ笑った。さすがに、黒崎の過去を話させたくはない。


「うん、ちょっとね」


 そう答えると、美桜は目を細める。まるで不審人物でも見るような目付きだ。


「仕方ないですから、さっさと入ってください。おふたりのように人相の悪い人たちがウロウロしていては、近所の人たちが怖がりますから」


「ちょっと待て。おっちゃんはともかく、俺は人相悪くないよ!」


 抗議の声を上げる。だが、ユリアが草太に近づき、ズボンのすそを引っ張る。早く入ろう、ということなのだろう。ユリアが相手では、草太に勝ち目はない。


「わ、わかったよ」


 言いながら、家に入る草太。続いて黒崎も、複雑な表情を浮かべて入って行った。




 草太と黒崎は、リビングで正座している。両者とも神妙な顔つきだ。美桜とユリアは寝室にいる。ふたりはテレビを観ているのであろう。

 ちなみに、ここにはテレビはない。もともとひとり暮らしの美桜に、テレビは二台も必要ないのだ。草太は、この家に入るのは初めてではない。しかし、今までは他愛ない話をした後、すぐに引き上げるような状況であった。

 それが、まさかこの部屋に越してくることになろうとは……草太は、居心地の悪さを感じていた。

 ふと横を見ると、カゲチヨが慎重な動きで、あちこちの匂いを嗅いでいる。カゲチヨも不安なのであろう……もっとも、この猫はおとなしい性格である。環境が変わったからといって、逃げ出したりはしないだろうが。

 草太がそんなことを考えていた時、寝室のドアが開きユリアが出て来た。ジャージ姿で、とことこ歩いて来る。続いて、美桜も出て来た。

 ユリアは黒崎のそばに近づき、肩をポンポンと叩く。次いで、正拳突きをして見せた。


「えっ? ど、どうしたのだ?」


 戸惑う黒崎だったが、草太はすぐに察した。


「ユリア、黒崎のおじさんと空手がしたいのか?」


 草太の言葉に、ユリアはウンウンと頷く。それを見た黒崎も、微笑みながら立ち上がった。


「そうか。じゃあ、今日は裏拳正面打ちを教えてやるぞ──」


「黒崎さん、空手の指導は構いませんが、なるべく静かにお願いします」


 横から美桜が口を挟む。すると黒崎は頷き、静かに指導を始めた。




「いいかユリア、裏拳は手首のスナップを利かせて打つんだ。こんな風に……さあ、やってみろ」


 黒崎の教え方は、実に優しく丁寧だ。昭和のアスリートに有りがちな、根性論や数だけをこなす練習を押し付けたりはしない。草太は感心しながら、黒崎とユリアの稽古を見ていた。

 ユリアが裏拳を打つ。しかし、どこかぎこちない。それを見た黒崎は、彼女の肩をポンポンと叩いた。


「ユリア、今のは悪くない。しかし、ちょっと肩に力が入っているな。もっと力を抜いて打て」


 その言葉を聞いたユリアは、小さく頷いた。そしてもう一度、裏拳を放つ。

 今度は、鞭のようにしなる速い打撃が宙に放たれた。見ている草太と美桜は思わず、おお……と感嘆の声を洩らす。


「いいぞユリア。お前は本当に筋がいいな。俺の若い頃より飲み込みが速い」


 言いながら、ユリアの頭を撫でる黒崎。ユリアは嬉しそうに笑った。

 指導している黒崎も、本当に嬉しそうである。この男は、実は人に教えるのが好きなのだろうか。

 しかし……。


 草太は考えてしまった。二十年前の、あの日……黒崎が正義感を発揮せず、また空手家でなければ、懲役十年という刑を科されずに済んだのだ。

 そのことについて、黒崎がどう思っているか……それは、本人でなければ分からないだろう。ただ、草太にも分かることがある。

 黒崎は見て見ぬふりが出来たのに、今回もまた正義感を発揮し、空手を使ってユリアを助けてくれた。

 ならば、今度は草太の番だ。

 この借りを返し、黒崎という男にふさわしい人生を歩ませてあげたい。





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