クズ星兄弟の回想

 やけに蒸し暑い夜だった。

 酔っ払いと客引きで騒がしい盛り場を抜け、路地とも言えないビルの隙間を歩く俺の耳に不快な音が響いた。

 肉や皮の繊維を噛み千切り、血を啜り、骨を奥歯で噛み砕く。神経に触る暴力的な鈍い音が、ビルの無機質なコンクリ壁に反響して耳の届いたのだ。


 今すぐに踵を返して来た道を後戻りしなければ、取り返しのつかない恐ろしい目に遭う事を、“俺”は分かっている。分かっているのに――。

 俺は音の正体を確かめようと歩き出す。足よりも大きなズック靴が、ペタペタと安物のスリッパみたいな間抜けな音を立てる。


 そして細い路地の行き止まり。俺は“ソレ”を見た。“視て”しまった。


 ソレはこちらに背を向ける形で四つん這いになり、血溜りに横たわる女――母親と同年代だろうか――の腹部に覆いかぶさるように腹部に顔を埋めていた。

 ソレの頭の動きに合わせて、ダラリと脱力した女の頭や手足が踊る。

 こちらに顔を向けた女の、半開きの瞳は何も写してはいない。死んでいるのだ。そしてソレに食われているのだ。


 気づかれてはいけない。自分も食われてしまう。音を立てない様にそっと後ずさり、角を曲がってソレが見えなくなったら全力で走って逃げろ。分かっている。“俺”には分かっているのに。

「あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

まだ声変わりもしていない甲高い悲鳴が口から漏れて、ソレがゆっくりと振り返った。


 真っ白な髪に褐色の肌。切れ長な目で細身の若い男。ぱっと見はまるでホストかアイドルのように整った顔立ちだが、薄く笑う口の周りやシャツの襟元が、女の血で真っ赤に染まっている。


 気が付けば俺の目の前に、ソレの顔があった。

 まるで瞬間移動のように。最初からそこにいたように。

 吐き気を催すほど酷い臭気を放つソレは『 そうかそうか』と、何かに納得したように口角を上げる。

『お前、“視える”のか』

 まるで女のような細い指が、恐怖に見開いた俺の瞼を押し広げて覗き込む。

『だが、まだ“半開き”というところだな。うん、だったら俺様が完全に開いてやろう』

 そう言って、ソレは細い指から伸びる薄い爪を俺の眼球に押し当てると、ゆっくり横一文字に引いた。


 そこで目が覚めた。いつもの夢。繰り返される昔のトラウマだ。

 見上げるとそこはヤニで煤けた天井と壁。窓ガラスから入る陽の光に、埃の粒子が反射している。見慣れた光景。歌舞伎町の小便臭ぇ裏路地に経つ、薄汚れた雑居ビルの2階にある事務所兼自宅だった。

 二間ある部屋の、出入り口のドアがある事務所スペースの奥には、簡素な流し台がついた6畳ほどの畳敷きの休憩室があり、セイが寝床として使っている。

 風呂はなし、廊下にはフロア共同のトイレがひとつ。

 それが俺たち「クズ星兄弟」のヤサだ。


 休憩室から聞こえる、お湯を沸かすガスの音とセイの調子っパズレな鼻歌に、俺はホッと息を吐く。

 スプリングの弱った合皮のソファーから身を起こし、拾いもんのソファーテーブルに投げ出してあるグラサンを掛けると、薄っぺらいアルミ製の灰皿から拾い上げたシケモクに火をつけて思いっきり吸い込む。

 そこにカップ麺の容器を持ち、割り箸を咥えたセイが入ってきた。

「お、兄貴起きてたんだ」

「テメェの調子っパズレな鼻歌に叩き起されたんだよ」

 俺の憎まれ口にセイはシシシと笑う。欠けた前歯の隙間から空気が漏れているのだ。


「なぁ、セイ」

 シケモクを灰皿に押し付けたあと、シャツの胸ポケットに突っ込んであった捩れた煙草に火を点ける。セイはカップ麺を口いっぱい頬張った間抜け面を俺に向けた。

「俺、うなされてたか」

「あー、何かウンウン唸ってる声は聞こえたかような」

 少し間が空いたところを見ると、思った以上に魘されていたんだろう。

「そうか」

「また、例の夢かい兄貴」セイの声が少し落ちる。俺は自嘲気味に口端を上げた。

「もう二十年も前だってのに。情けねえな」

「そりゃぁ仕方ねえよ兄貴。毛も生え揃ってない小学生があんなのに出くわしたら、そりゃPTAにもなるさ」

「PTSDだバカ」

「あー、それそれ」とセイは頭を掻きながらシシシと笑う。

「でもさ兄貴。今はあの頃の俺たちとは違う。今度会ったら、幼気な俺たちに一生もんの呪いをかけやがったあのクソ野郎に、きっかり落とし前をつけてやろうぜ」

 いつもの、いや、いつも以上に明るい調子でそう言うと、セイは残りのカップ麺を一気に啜る。それで励ましているつもりかよ下手くそ。


 人呼んで“歌舞伎町ジャック”

 過去数十年に渡り、主に女を中心に殺し続けては、肉体ごと魂まで喰らい尽くす残忍さから、かの有名な殺人鬼「切り裂きジャック」に準えてその名をつけられた最悪最凶の雑虗ざこに、俺たちはガキの時分にたまたま出会い、呪いをかけられ、ボスに拾われて、そして“ザコ専”になった。


「あぁ、そうだな」


 俺たちの目的はひとつ。

 俺たちの人生を捻じ曲げやがった奴に借りを返すこと。

 無論、20年分の利子もたっぷりつけて、だ。


 俺は、吸い込んだ煙草の煙を天井に向けて思いっきり吐き出した。


つづく

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