お寺の件
端役 あるく
前半
人混みの中を歩くと言う行為はなんというか、慣れるまでに難しい行為な気がする。スキルというか、慣れでもなく、基礎的な何かの部分が特筆して強く求められる。スタイルや才能などというものは案外そう言った幼年期に不可避にあった現状の蓄積で出来るのかもと思いもする。
ぱっと見渡す。
赤色が見える。
「寒いですね。」
二の腕をさする私の突然の振りに兄は答える。
「あぁ、まぁ、そうだね。冷え込んだね。」
10月某日。
私こと、妹はまたしても兄を横に侍らせながら、 道を歩いている。
10月、つまりは神無月の時に私が、私と兄が寒さに頬を撫でられながら歩いているのは、あるお寺の道というか、境内、参道である。この季節、この月になぜお寺という場所に行くことになっているのか。そもそも神様はかの集会に出ているのではないのか。ご利益などというものを信じるほどの信仰心のある訳ではないのだが、だからといって神の居ない月に参ることに何の疑問も抱かないほどひねてもいない。私たちはともかくこの人混みは。
「なぜなのでしょう?」
と兄に問うてみれば、この場所に祀られる神様という存在はどうやら、その集会に馳せ参ずるような神様では無いと言うことだ。
しかし、国津神、地に現れる神様、つまり出雲に帰る神様に相対しての天津神、それとはまた違うようでもある。
答えを聞けば簡単で、それはもっと異なるもの異物、異端。メジャーを測り捨てて、マイナーで発起した全く別の宗教であるのだそうだ。勝手に八百万の、俗世の神ならばその月には出雲に集まり、その他は無いと決めつけていたが、もちろん一神教の神様はそれには属さないだろう。
米の中に88人の神様がいると言うが、感謝の念からの数の膨大も、あの一粒にそれだけと思えば、怖く感じるところがある。比べればまだ一神教の方がリアリティな感もある。
まぁ、どっちもどっちか。
集団心理は人間らしさだし、加えて人の形をした宗教名画の多くを見て仕舞えば、その真の意味での神様の有無は馬鹿らしくなる。
いけない、いけない。
なぜここへ来たのかという自答から随分ずれてしまった。
「今回、ここへ来た目的は難しくない。参拝だよ。深く考えることはない。」
「そう言いますけれど、違いますよね。」
兄の言葉はあるが、私は少し真面目にこれを受け止めている。
端的に、素行調査、簡単に言えばそれらしいからだ。家柄上といっても謎の家系だが、その関係筋からのお話、カッコよく言えばお仕事だ。
悪徳宗教の終結。
それが事実なら私達の今の行動はさらにカッコつくのだろうが、高々学生の身分でそんなことを任されるなら、そんな宗教団体以前にこの国はそれこそ終わりそのものだ。
平和な世の学生、我々の調査内容は「宗教団体の素行調査」なのだ。
「私たちはね。素行調査をする前に素人なんだよ。」
「それがどうしたのですか?」
「いやいや、やる気が出ない。モチベーションが低いということだ。相手がいい者だとね。平和な宗教施設、蛇願寺。」
そう、蛇願寺の素行調査。
兄はお使いのように受け止める素行調査。気は確かに引き締まりにくい。
さらにそれは悪行ではなく、善行だと言うのであるから。
某県、某所、蛇願寺
地方民族宗教の一つ。あるところにあった呪術を家業に成ったある一族の末裔。呪術と言っても一括りに人を呪うというものではなく、呪う方法を知っているその上でカウンターを与える、要するにアンチ呪術こそが家業の中身だったそうだ。その一子相伝の技術がさらに頭角を現すまでには現代から遡る方が賢い選択で、それが飛躍したのは一昔。始まりは1900年代初頭、ひっそりとそれは生まれた。元々あった呪術家としての知識の血統、何処ぞからの何時ぞやの伝来の果ての仏教と結びつき、更に混ざってまぐわって、それこそ蛇のように色々様様を飲み込んで、十把一絡げに徐々に大きさを増していった。やはり、民族宗教として力を持った血族としての因縁的な何かは呪術家として、宗教家として、それを成長させるために大いに役立ったようであることが窺える。
アンチ呪術、つまりは厄返しとしてのその宗教理念は、しかしながら宗教としてのメルクマール、神の存在、教えの伝播を中心としている訳ではない。純然たる善行、平穏な平和な世界づくりをモットーに、異常なまでの奉仕、対して自由献金のこだわりを貫く、今の世のマザーテレサのような、目の前の人を大切にする精神性を持っている。
カトリックである彼女を考えると、蛇は仏教どころかもう既に正教会の考えも汲んでいるのかもしれない。柔軟性も蛇の強みである。イノシシ、キツネ、イヌ、トリ、野生動物の一つである蛇が信仰される理由も分からないでもないが、しかし現代っ子としては蛇=毒としての図式がある以上恐怖の対象である。私はでも。
いや、この状態では強がるもないか。
まただ。
蛇だ、それを見た、見られた。
鳥居のような大きな門。そこの黒を這うようにして上から下に流れる白く太い胴体が赤い目をひん剥きながら、こちらを見る。
ように感じた。
ただの彫られた白蛇だ。
木製である蛇は木目も大々的にその首元近くに残っており、それを消すことはそも目的に無い。一糸纏わぬ滑らかなその肌にコッラディーニの様なリアリティなど全くないのだが。
目が見られるのだ。
そう考えて、頭を振る。
悉く人波はダメだ。周りを気にしないために、余計なことを考えてしまうし、そう疲れが溜まってしまう。
避ける様に近くの蛇から目を配る。
左右に跋扈する屋台群に挟まれる道。
その中央は人波が緩い様に見える。不思議に感じたが、知識で合点がいく。参道の中心は神様の通り道とか言う話だったか、これが仏教か、神道か始まりは知らないけれど、どちらにせよこの宗教にそのルールが無いはずはない。蛇としての蛇願寺。そこに厄以外のアンチはない。
「参道の中央に寄ろうか。」
そう兄は言うと、手こそ引かずに後ろ一人分はまた通れる様に道を作り、かき分け進んでいく。目と鼻の先であるのだが、参道中央の密集度は遠目から見た通り少し緩くなっている。
空いた人の波にまた少し流されながら鳥居、正しくは蛇の居とでも言うべきか、それをくぐり抜ける。
「本殿は三つに分かれている。」
兄はそう始めた。
以下、私要約。
本殿は三つに分かれる。そう言ったが、三つの建物がぽつぽつと乱立している訳ではない。青い瓦と黒いシックな木で作られた荘厳の建物は一見一つの大きな建物に見える。でも、その所見は正しくなくその構造は航空マップで見なければ全容が掴みづらい。三つの本殿、蛇の居から堂々正面に佇むのが胴の殿。そこから、左右に伸びる廊下の片方の進んでいくと建つ尾の殿。さらに進み進む先にある頭の殿である。残っている、一つの道。一つ目にある胴の殿のもう一つの道に帰ってくる様に頭の殿は存在する。三つの本殿、頭の殿、胴の殿、尾の殿、この三つを巡回して回る一つのサーキットの構造をとっているのである。
言い終えた後、兄は人混みを前から後ろに見渡す。私はそれを真似することは無かった。見ることは無かったが、蛇の居を潜った後には屋台は出ることは許されないのか道幅が大きくなり、それに伴い人の波は大きく広がる。
「帰らないで、大丈夫かい?」
兄はこちらに目を向けず、人を見た後、地面の砂利を見、正面を見直す。
不穏に感じられた兄の提案だった。
「大丈夫ですよ。」
胴の殿に上がる。
沓脱には大量の靴が並べられ、所狭しと茶色やら、赤色やらの色が目に飛び込む。偏見だろうか、高齢者の方が多いようなイメージを想起させる配分だ。綺麗に平された木の階段を間違っても滑らない様に一歩一歩進み、中に入る。
人はバラバラと座っており、その大量が建物内の広さによって拡散されている。割と、いや思う数段上の圧倒されるサイズ感であるのか。
「広い建物ですね。」
「神域なんて言って、機械は一つも入れずに作られたようだよ。ピラミッドとまではいかなくても、純然な意味で人の手でこれだけ大きなものが出来る。いや、凄いね。あぁ、うん。」
打ちひしがれる兄の顔を見るが、やけに常ならざるというか、落ち着かないのか。
「ここがなぜ胴の殿というかは知ってるかい?」
兄は畳ばりの外陣を正面から右に歩き始める。
そのゆったりした足取りに、引っ張られる様に後ろに着く。
「はい、胴の殿、尾の殿、頭の殿、体の先から先になぞらえているのですよね。」
「そう、それで胴の殿。では彼らはここで何を願うのか。」
ジェスチャーはつけず、彼らという言葉だけで指し示す。それはもちろん信仰者たちだ。今しがた、畳の上に正座で座り込み、手を握り締めて祈っている彼らだろう。
和風な畳に正座、その手にはクロスこそ握られてはいないが、何かを握り込む様に祈る。
「高齢者の数からして、健康、心身安泰の神様、いや信仰なのでしょうか。」
「三分の一、正解だ。」
兄は外陣から下殿し、右手、およそ尾の殿を進みながら三殿を繋げる回廊に差し掛かる。名のまま下殿するには少し段差があり、足元を気遣い、私はその返答の意を考えることが遅れる。
だから、それをオウム返し。
「三分の一?」
「三分の一。三つの本殿。その一つ、胴の殿。胴の部分、ここには内臓系の病状の回復、健康のための信者が祈りを行う場所なんだよ。」
回廊を進みながら、その返答を理解する。胴の殿だから、体の内の胴の部分の健康。宗教素人の私には随分とわかりやすい。
つまり、その流れに則っていうならば、これからいく、尾の殿は尻尾?
「いやいや、どうやら、尾の殿なのはこの寺、蛇願寺ということ、つまりは蛇からの成り立ち、名残かな、それがそのまま残ったのだそうだよ。」
ここから次に到着する尾の殿は人間スケールに考えて、足に該当する部分であるそうだ。
蛇には足が無いがそれを尻尾に付するというのはどうなのだろうか。
回廊は二つの本殿の中腹に至り、左右に張り巡らされるガラスからはその景色が窺える。
本殿、回廊の内側、蛇に囲まれるその内側には日に照らされた草木、水源が区画整理された渡りの道と共生するように存在していた。自然公園まるままである。無いベンチが一つでも有れば、心地よく休めるだろうと想像してしまう。
中には信仰者たちが心地よさそうに散歩している。今歩いている高床の廊下の下をくぐれば、あそこに到達するのだろうか。
至って順当に正面に佇む建物に入ったが、これは早計だったかもしれない。
自然公園の中庭を通れば、二つ目の尾の殿、頭の殿にも直接入ることができる。腹のうちを探る私たちからすれば、腹から入るのは言葉として綺麗だ。しかしながら、こうも綺麗な中庭を見せられて、魅せられては頭か、尻尾からか入りたい気持ちになる。
心地よく、休めると思う。
反対側のガラスを覗けば先ほどまでいた参道の人混みもよく見える、全体が均等に人人人だ。
今思えば、その人混みも上殿には中庭ルートが重宝されるのか、分けられ、分けられ今や回廊は私たち他には数名見られるほどである。
それに加えて、目の前のスロープ。百年前の建造物にデッカく開けられた穴を別棟の建物と繋げ、その中を地上部から続くスロープを巡らせている。バリアフリーを充実完備。時代と利用者層への対応も完璧。
それに
「次は尾の殿だね。」
足の健康祈願者のための尾の殿。彼らのための入り口の位置としては配慮が為されているというわけだ。
また、段差を越えて上殿する。
依然として人は頭を垂れて、手を組み祈る。違いとしては人によっては座るのに不自由あるのか、胡座の状態であったり、持ち寄った折りたたみ椅子に座ったり、立ったままだったり色々である。
足が健康であるのか、私たちの20mほど後ろで回廊を歩いていた家族は上殿せずに、本殿を中庭側に大回りするように続く回廊をそのまま進んでいってしまう人もちらほら見かける。
ある程度の観察を終え、私たちも行きましょうと私は言いかけた。
「いや、これは、、、」
兄の小言に、私は気がついてしまった。だからこそ、それを連続的に探したし、そのQに対してのAも見つけてしまった。
尾の殿、外陣、畳の上。
杖が一本置かれていたのである。
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