第9話
パパは最近、仏頂面やしかめっ面をしている。仏頂面、しかめっ面は令和時代にふさわしくない。平成どころか、昭和以前の顔立ちに見える。こんな表情はスマホ、パソコン、AI、ロボット、宇宙開発がニュースになる時代に似つかわしくない。
ある人に言わせると時代遅れだ。一昔前の作家たちは、口にタバコを咥えて難しそうな表情で写真撮影に臨んでいた。それを週刊誌などに載せていた。まるで、創作活動と立ち上る煙や気難しそうな表情に、因果関係がありそうなポーズをキメている。
僕も、パパの部屋でそんなモノクロ写真を何枚も見たから知っている。今の時代なら、嫌煙権を主張する連中から愚か者だと笑われるところだ。仏頂面やしかめっ面の衰退は必然のもので、いずれ絶滅する予測に関しては社会学的に見て正しい判断ではないかと思う。
二歳児の僕の友人の中で、こんな失礼で気分が悪くなる表情をするものは一人もいない。大人の中でもあまり見かけないので、パパの気が知れない。もっとも、表情は自覚に伴って変化するので、自業自得といえばそれまでだ。
僕はパパの陰気な表情を見るたびに考える。よくもまあ、周囲との調和を意識せず二十一世紀の空気を呼吸している。昔なら周りが気を使ってくれたかも知れないが、気難しそうなムードを漂わせるだけで不快感が伝染しそうである。仏頂面、しかめっ面は人を受け入れない表情である。人を見下し、軽侮の念で付き合おうとしているようにも感じられる。
現代ではコミュニケーションスキルの高い人物は、こんな表情をしないものである。一方で紙幣の中の偉人の表情、寺院の仏像彫刻など、大人が好きなものはすべて無表情だ。パパが尊敬する人物の肖像画や、本の著者近影は大概そういう表情をしている。それに影響され、パパなりのダンディズムで不機嫌を演出しているのかも知れない。
これに対して僕が大好きなテレビの子供番組に出ている人は皆、にこやかな表情をしている。それと仏像彫刻で思い出したが、お釈迦様は一番弟子の大迦葉に衣鉢を継いだ時に、にこやかにほほ笑んだ。拈華微笑とはお釈迦様の柔和な表情を意味している。
パパもそろそろ気難しい表情をやめればいいと思う。
こんな表情のまま、記者としてスキャンダルや事件や事故の取材に臨むとしたら、相手は不快な気分であまり協力したくなくなるのではないかと想像がつく。
パパは「飛来するボールが家屋を直撃したときの影響」について考究するよりも「不機嫌な表情が他者に与える影響」について真剣に考えるべきタイミングだ。
校長との直談判による約束をした後のパパは、行雲館の生徒との全面戦争を思いとどまり、防護ネットの設置が終わるのを待って、自室に籠る日が多くなった。
鏡を見ると、笑顔をつくる練習に励んでいる。「なるほど陰気な顔だ」と、にっと笑う。顔には三十種類以上の筋肉があり、目、鼻、口を動かし頬を上げ下げ出来る。ただし、通常の生活では表情筋の三割しか使わない。普段パパの使う表情筋は、二割を下回るのではないかと想像できる。
無理に作る笑顔はぎこちなくて滑稽過ぎる。誰に教わったのか、目や口を大きく見開いたり、今度は口をすぼめたり尖らせたりしている。さらに頬をぷーっと膨らませると指で突き、息を吐きだす。大人の男がする表情だとは、到底思えない。この馬鹿馬鹿しい動きにも一連の流れがある様子で、同じ仕草を何回も繰り返している。これで、表情が明るくなり人との交際がうまく行けばいい。三日坊主で終わらない展開を祈りたい。
物書きであれ、学者であれ、実業家であれ、僧侶であれ人間を知ろうと思えば、自己自身を研究するのが近道だ。人間には確証バイアスを基にして、自分の都合の良い話ばかりを集めて満足する心癖がある。パパは元来、メタ認知が苦手なタイプだ。固有の思い込みを軸にして周囲を決めつけてきた。
ところが、行雲館事件をきっかけにして自分自身を見つめ直している。これで、パパも頑固者の作家気取りを廃業して、目覚めてくれれば良いが……。
パパが鏡を見て、べーっと舌を出したり、目をつぶったり、鼻の穴を膨らませたりしている時に「頓馬君、いるか」と玄関から大きな声が聞こえてきた。
声の主は夢野だが、何故かいつものようにずかずかと無遠慮に入って来ない。誰か他の客が来ていて案内を頼んでいる風でもある。パパはこういう時に自分では出て行かず、ママが対応しているがちょうどトイレだ。
すると、夢野は勝手に上がり、パパの部屋までやってきた。
「おい、頓馬。お客さんが来ている。早く来い」
「何だ、君じゃないか」
「何だ、君かじゃないだろ。誰もいないのかと思っただろ」
「うん、少し今、取り組んでいる試みがあるのでな」
「それでも、出て来て、挨拶は言えるだろ」
「それで誰を連れてきた?」
「誰かは玄関に来れば分かる。ぜひ、君に会いたいと願う人物を連れてきた」
「誰だ?」
「それは後だ。とにかく来い」
パパは面倒くさそうに立ち上がると「また人を揶揄うつもりか」と、リビングルームに入り、そこを通り過ぎようとした。
一人の老人が居住まいを正しソファーに腰かけている。
「さあどうぞここへお掛けなさい」と正面のソファーを指さしパパを促した。
自分の家の中だ。年長者が頑として構えているので、どう挨拶したら良いのか分からない。パパは一応挨拶すると、顔を赤くし何か言いたげに口をもごもごさせている。せっかくの笑顔のトレーニングも効果がない。
夢野は横にいて笑いながら成り行きを見ていたが「さあ、遠慮なく座れよ。そうでないと、僕の座る場所が決められない」と割り込んでくる。
パパはやむを得ず腰かける。
「頓馬君、ここに連れてきたのが君に話していた父親だよ。お父さん、彼が頓馬君だ」
「初めてお目にかかります。うちの息子がたびたびお邪魔をしているので、いつかお礼に伺おうと考えておりました。幸い近くに来る用があったので、ご挨拶にと思い訪ねて来ました」と堅苦しい言い方で淀みなく話す。
パパは人見知りをするタイプで口数も少ないため、目の前にいる昔気質の老人と話す機会が少ない。まだ、夢から覚めたばかりの戸惑いの中で、滔々と話しかけられたから、勝手が分からず奇妙な返事をする。
「私も……私にしても、お伺いする……、さらにご挨拶です。はい、よろしく」と言い終わったのは良いが、老人はまだ頭を下げている。
それを見て、パパもペコリと頭を二度ほど下げた。
老人は顔を上げると「以前はこの近くに住んでいたのですが、もう三十年も経ちます。今歩いてみると方角も分からず、迷うところです。随分、街並みも変わりました。息子に道案内してもらわないと、どこがどこだか……」と言いかけると、夢野も面倒だと考えたのか「お父さん、近年はショッピングモールやコンビニエンスストア、外食チェーンのロードサイド店舗などが数多く出来ている。それに、時代は平成から令和に変わったから、街並みも人の流れも変化するよ。当たり前だ」
「わしが若いころは、コンビニエンスストアはなかった。生活利便性は格段に違う。もう少し長生きさせてもらって、この先の変化を見たい」
「久しぶりに東京見物するだけでも良かったじゃないか。頓馬君、父親とは今日、一緒に新宿に出かけた。ちょうど、帰りがけだよ」
夢野の父親は和装で、羽織袴のいでたちである。今どき、時代遅れな装いだが気にしている様子はない。僕にしても、まさか夢野の話ほど、風変わりな人物ではないと思っていたが、こうして会ってみると噂以上である。
「新宿は大勢の人でごった返していたでしょう?」パパは極めて無難な質問をする。
「大賑わいだった。それで皆、怪訝な目つきでわしをじろじろ見る。物見高い、無遠慮な人間ばかりがうろうろしていた。どうも最近の若者は、老人を厄介者だと考えているようにも思える」と意見を述べる。
「それに、この黒紋付袴の正装を珍しそうに見る」
「着物は大分、お値打ち品でございましょうね」
「頓馬君、これ。この羽織を触って見ればよい。無論ポリエステル素材ではなく、生地は正絹だ」
「皆がこれを和服、和服と指を差すが、これは日本男児の正装だ」夢野の父親は、紋付、羽織、袴、長襦袢の正装で、白扇を手にしている。
「いくら自慢の和装でも、普段から着ない。翠明君の説ではフォーマルスーツこそが現代では日本男児の正装だと言っている。その方が機能的かつ現代的だよ」
「あのおならを研究している翠明か? 学者なら、もっと他に研究課題がある」
「可愛そうに、あれでも立派な研究だ。もし、実用に供するのが可能なら、神田翠明は大勢の人々から尊敬を集める」
「おならの研究で周囲の尊敬を集めるのなら、誰でも尊敬される。わしならノーベル賞級だ。そんなものを研究するのはプライドも何もない男だ」とパパの顔を見て賛意を求めている。
「うーん、そういう見方がありましたか」とパパは緊張気味に答える。
「すべて実用主義と一辺倒は如何なものか? わしは実利のみを大事にして、人の心を踏みにじる今の世相は気に入らない。武道を嗜む者は勝ち負けよりも、まず精神修養を心がけてきた。おならを集めて金にするのは、考え方がやましすぎる」
「うーん、そういう面もある気がしますね」と、まだ緊張の面持ちである。
「お父さんは精神修養には、おならを研究するより、役に立たない理屈を並べる悪習慣にありと思っている」
「そんな簡単なものではない。禅語では物の本質を不立文字という。だから、分からない」
「では、どうすれば良い?」
「お前は『碧巌録』や『無門関』を読んだか」
「いや、まだ読んでいない」
「趙州和尚、因みに僧問う、『狗子に還って仏性有りや?』州云く、『無』だ」
「よく、そんな難しい言葉を覚えているね。頓馬君は今の話を理解できたのか」
「うーん、なかなか難しい言葉ですね」と今度も曖昧な応答だ。
「簡単に説明すると、屁理屈じゃなく、直感で理解せよ。つまり、己を空しくする」
「お父さん、頓馬君は分かっているよ。さっきにしても、客が来て大声を出しても気づかないほど、忘我状態だった。だから、そこは心配ないよ」
「それは立派だ。お前も頓馬さんを見習えばよい」
「僕には、そんな暇はない」
「いつも、遊んでいるじゃないか」
「それは、忙中閑ありだ」
「ところでどうです。これから三人で食事に出かけませんか」
「父さん、鰻丼でも食べに行こう。ここからクルマで十五分前後のところだ。なあ、頓馬君」
「鰻も食べたいが、これから旧友と会う約束がある。わしはこれで帰る。頓馬さん、すまないが、タクシーを呼んでくれませんか」
老人はタクシーで帰って行き、夢野はあとに残った。
「あれが君のお父さんか」
「あまり似ていないだろ」
「うーん、そういえばそうかな」と、まだ緊張している。
「どうだ。豪傑ぶりに驚いただろ? どこへ行ってもあんな調子だ。僕もああいう父に育てられて幸せだよ。どうだ、君もびっくりしただろ」と、夢野はパパの度肝を抜いたつもりで嬉しそうにしている。
「いや、そうでもない。良いお父さんじゃないか」
「あれに驚かないとは、大した精神力だ」
「君のお父さんは立派な人だ。心構えを説くところなど、尊敬できる点も多い」
「本当に尊敬できるかな? 君も七十歳近くになると、ああいう古ぼけた老人になるかも知れない。しっかりと現実を見ないと、空理空論のままに、時間は無駄に経過して行く」
「君は時代遅れを気にしているが、時と場合によっては、むしろ古い考えの方が正しい場合もある。時代を先へ先へと進めようとするあまり、人を人とも思わなくなるのなら、古いものの勝ちにならないか」と自説を主張する。
「『碧巌録』に『無門関』あとは漢籍の素養があるから『論語』や『老子』を有難がって読んでいる。いったい、どういう時代の人間だと思うよ」
「物事の道理は、時代や自分の都合によってころころと変化するものではない。僕はむしろ、今も君のお父さんのようなハートのある人物がいるのを頼もしく思ったよ。よく伝えておいてくれ」
「まあ、君のような贔屓筋が存在するから、僕の父親も得意がる。若いころはあの父親に夜通し、精神修養の話を聞かされた。あの調子で毎日のように同じ話を聞かされてみろ。いい加減、うんざり。いつも悟った風に話すが、家の中にスズメバチが入ってきたときは大騒ぎしていた」
玄関の方から何か音がしたかと思うと「すみません、お願いします。お願いします」と、声が聞こえてきた。
パパは「訪問販売の男だと面倒くさいし、迷惑だな」と、立ち上がろうともしない。
夢野は生来、気楽な男と見えて「おい、上がってこいよ」と言いながら玄関まで大慌てで行った。
パパはこの家の主でありながら、腰を落ち着けて動く気配がない。玄関に飛んで行った夢野は「おい、頓馬君、急いで来てくれ。君でないと駄目だ」と大きな声で呼ぶ。
パパはやむを得ずポケットに手を突っ込んだままのっそりと出ていく。
見ると夢野は一枚の名刺を手にして挨拶している。いつもの勢いが感じられない。
名刺には警視庁刑事部捜査二課巡査吉野公平と書いてある。巡査と並んで立っているのは、三十前後のポロシャツを着た男である。どこかで見た顔なので観察していると、この間パパを騙して百万円を奪った詐欺師である。
「おい、この方は警視庁の巡査で、被害届を受けて捜査していたところ、詐欺師をつかまえたから、君に警察署まで来て欲しいと伝えるために、わざわざ来てくれた」
パパは刑事が訪ねてきた理由を聞くと、詐欺師の方に向かって「それはどうもお手数をおかけしました」と、ぺこぺことお辞儀をした。
詐欺師より、巡査の方が悪人相なので早合点している。
すると、詐欺師も「こちらこそ、先日は失礼いたしました」と、すました顔をしている。手錠をはめられているが、巡査の斜め後ろにいるためパパの位置からは見えない。
巡査は様子が滑稽に思えたのか、にやにやしながら「明日、午前十一時までに本署まで来てください。ところで、被害額はいくらでしたかね」
「被害額は……えーと百です」と言いかけたが戸惑いのあまり、うまく百万円だと言えない。
詐欺師はよほど可笑しかった様子で、下を向いて笑っている。
夢野は「あははは」と笑いながら「まあ、ゆっくりと思い出せば良い」と示唆した。
「それでは、私はこれで失礼します。明日は十一時までに来るようにお願いします」と一方的に告げると、帰って行った。詐欺師も続いて外へ出た。
「君は刑事よりも詐欺師を大事にする」
「何の話をしている?」
「だって、さっきは詐欺師に頭を下げて、巡査の説明を上の空で聞いていたじゃないか」
「あれは、ただの間違いだ」
「それに、警察署に出頭しても盗られた金は返ってこないよ。百万円を取り戻すには裁判が必要だ。簡易裁判所に出向くケースだ」
「一度は諦めた金だ。戻らなければ仕方がない」
「金欠症の癖に気前が良い……、だから騙される」
「明日は月曜日だが行くつもりなのか」
「勿論、行くよ。十一時までに来いと指示されたから、十時には出るつもりだ」
「会社はどうする?」
「休むよ。仕方がないじゃないか」と強い口調で言い返した。
「休んでも良いのか」
「一日休んでも、人事考課に影響しないし、明日は取材予定もない。大丈夫だ」と素直に言い切った。
今回の刑事事件は警察の申し入れにより、詐欺師の預金口座が凍結されていたため百万円全額ではないが、返金される。パパは巡査の指示に従い。返還手続き書類に記名捺印した。他の被害者にも、公平に分配されるため、百万円のうち三十七万円が返金される。
夢野が帰って家族で食事をしていると、パパは誰に語りかけるともなく愚痴をこぼし始めた。
「今日、うちを訪ねてきた老人は、時代遅れの変な男だった。翠明はおならを研究する変わり者だ。夢野は悪ふざけを本業にしている奴だ。玉田夫人は性悪な女の代表と言っていい。行雲館の生徒はやたらと騒がしく、礼儀を知らない。詐欺師に至っては言語道断だ。いつのまにか、この世界を狂気が覆いつくそうとしている」
以上の話を並べ立てる。ママも一度に不満を言われたところで、答えようがない。パパの頭脳が明瞭ではないのは、この態度からも分かる。正気と狂気、非凡と平凡、秀才と凡才を識別できないほどのボンクラである。しかも、パパはこれだけの内容を示しながら、徹底的に考えるのを怠り「まあ、世の中そんなものだ」と、結論づけた。
僕は二歳児だ。幼児の癖にどうして大人の心理を洞察できるのか、それは自分でも分からない。だが、この程度は僕にとっては簡単だ。
パパは満腹になり愚痴を漏らすと「頭が混乱して分からなくなった」と、寝床に潜り込み、眠った。論旨の整合性のない思索を長く考えれば「頭が混乱して分からなくなる」点に関しては正解といえる。
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