都会の森

美池蘭十郎

第1話

 神戸市の市街地では、春になると――六甲おろし――と呼ばれる季節風が街中を吹き抜ける。地元では、灘五郷の銘酒は、六甲山から吹き降ろす風の恩恵で、寒づくりの美酒を生み出している――と、伝えられていた。

 少年は、神戸市灘区の一軒家に、母親と妹と老犬の……、三人と一匹で暮らしていた。家は貧しく、毎日の生活は厳しかった。家の中には、目立つところに少年と両親が映る写真が飾り付けられていた。少年の記憶では、七歳頃と思えるダイニング・ルームの壁にかかる写真は、母親の隣に立つ父親が後ろから肩に両手をかけて、笑顔で見守る様子が分かる写真だった。

 母親はみすぼらしい身なりを嫌い、古着やリサイクル品で世間並の暮らしを演出してくれたので、少年を見て笑うものはいなかった。だが、少年は胸の内で、古着や古靴を新品のように着こなすのを欺瞞のように思い、デパートで買い物する家族を羨ましく思っていた。

 学習関連本は、新品を入手するのが困難なため、問題集の中には、薄汚れてぼろぼろのものもあった。表紙がきれいでも、答えの書き込みや、やたらとアンダーラインを引いているものは使えなかった。

 母親は、女ざかりの時期を子どもらのために再婚せずに、働きに出ては家計を支える柱になってくれていた。何度、縁談を持ち込まれても――二人の子どもを思うと、再婚する気になれない――と、断り続けていた。

 親類が家に来た時に、写真を見て目を細めると不自然な笑顔をつくり

「子ども想いの良いお父さんだったね」

と思い付きのお世辞を言葉にしたが、少年には真実味は感じられず、寂しい気持ちにさせられた。少しでも、勘の良い大人なら

「お茶を頂けるかしら?」 とか、「お土産を持ってきたので、一緒に食べない?」と、写真に気付かないふりをして、椅子に腰かけるだろうと、感じていた。

 写真を見ると、懐かしさが込み上げてきた。父親は、誕生日には必ずプレゼントを手渡し、仕事で多忙な時でも、少年のために時間を割いていた。

 少年は母親に似ていて、端正な顔立ちをしていたが、やせ形で色白のため腺病質に見られた。そのくせ、風邪で寝込んだ経験がないほど健康だった。

      ※

 北に六甲山系の摩耶山を窺い、南に神戸港の摩耶埠頭を配する住宅街の一角に少年の家が建っている。暮らし向きの割に広々とした二階建てで、父方の祖父母の代からこの場所に住んでいた。祖父母も、すでにこの世にいなかった。

 二階にある部屋の勉強机の上には、二歳の時のもので沖縄に家族旅行した際の写真が立てられていた。記憶にはなかったが、離島の美しいビーチの砂浜にいて、水着姿でほほ笑む両親と自分の姿が写されていた。写真に映る少年は、父親の膝の上で満足げな表情をしていた。

 父親は、彼が八歳の誕生日に病死していた。それから、七年の歳月が経過し、中学三年生になり、妹は小学五年生になっていた。

 日々の暮らしは楽ではなかった。母親が働きに出ている時は、妹の面倒を見ていた。彼は学業成績が優秀で、世の中の仕組みにも強い関心を持っていた。

 少年は、人の暮らしの大半を謎に満ちていると、思っていた。電車や自動車が走行し、飛行機が空を行き来する。テレビの放送や、スマホやパソコンで見るインターネットの世界等々。眼前のめくるめくような展開を、ただぼんやりと眺めるのではなく、旺盛な探求心で謎を解き明かしたいと考えていた。

 幼少の頃は、地下鉄が道路の下をもぐらのように走行するのを魔術のごとく思い、テレビでアニメを見ては異世界を空想していた。存命中の父親は、少年を見守りながら、世界の不思議に対する彼の疑問に答えるべく、多くの本を買い与えていた。

 父親と死別後の暮らし向きは、楽ではなかったものの向学心が少年の心を支えていた。謎の解明には――まず、それが何を意味するどんなものなのかを調べなければならない――と、無知を恥じて、本の中の世界を探訪した。

 育ち盛りの少年は食欲旺盛だったが、家計の厳しさを慮るうちに、ここ一年は食欲を感じにくくなっていた。次第に、働いて母親や妹に楽をさせよう、美味しいものをたくさん食べさせようと考えるようになった。

 母親は、彼が気がかりなのか、おなかが空いただろう、勉強するにしろ、遊ぶにしろ空腹は大敵だ――と、ケーキはどう? チョコレートや饅頭もあるよと、無理にでも食べさせようとした。

 そうされると、少年はかえって心苦しくなり、無理をしてまで間食しなくなった。自分が貰ったものを妹や犬に食べさせる日もあった。

       ※

 中学校の授業は、少年の探求心を刺激した。

 地理の教師は、授業で「現代文明は、膨大なエネルギーを消費して成り立っている」と生徒に伝えると、世界と比較した――日本の資源とエネルギー――を黒板に向かって板書した。日本の電力は――火力七割、原子力二割、水力七パーセントと記すと「現状のままでは、様々な問題が生じる」と指摘した。

 さらに、「世界平和を実現するには、社会的貧困層をなくし、最低限の生活の保障が肝要だ。安全なエネルギーを潤沢に供給し、十分な生活用水と、医療体制の充実が求められる。だが、未だに、すべてを実現できた者は存在しない」と説明し――潤沢なエネルギーを供給できると、生活利便性が向上し医療活動にも役立つし、十分な水があると作物が豊かに実る。それが最低限、必要な生活を支える――と教えた。

 平和の実現を念じ、万人が豊かになり、悩みから自由になる――教師が指摘する幾つもの言葉を羅列すると、真実味を損ない、少年は何故か危険な匂いを嗅ぎ取った。 それが、もしも実現可能なら、あらゆる面で科学的な証明を要するのではないか――と、首を傾げた。

 少年は、豊かな生活に憧れながらも、自分よりも貧窮生活を強いられる人たちをどうすれば助けられるのか――と、想像した。それでいて、他者の痛苦や悩みが十分には理解できなかった。

「先生、質問があります」少年は挙手すると、同時に尋ねた。「どんなエネルギーが、どの国のどんな地域にどれだけ必要ですか? それと、水も気になります。必要な水の量や供給手段については、いくつの見通しがあり、どんな研究がされているのでしょうか?」

「雄大、一度にそんなに質問されたら答えに困る。どうだろう? 自分で調べてみては」

 家にはパソコンがなかったので、友達の土井省吾の家でインターネット上の情報を拾わせてもらった。

「栄養失調による餓死や、免疫力の低下に伴う感染症で、毎年、五歳未満の子どもたちが三五〇万人から五〇〇万人死亡している。何とかならないか?」

 問いかけに、省吾は冷ややかに答えた。

「雄大の言うのも、分かるけど。俺たちにできるのは限られている。他人の生活まで構ってはいられない。まして、よその国の子どもたちを助けるなんて、甘っちょろい理想家の言う台詞だ。実現不可能な綺麗ごとを見せびらかすのは、慈善家というより……、偽善者だと思うね」

 省吾の言葉が、少年には辛辣に聞こえた。

 少年は、将来は科学者になって現在の問題の多くを解決したいと望んでいた。ゴールデン・ウイーク明けの一学期の中間テストでは、学年で一位になっていた。全国模試でも、一年生の時から好成績を維持していた。

「蒲原雄大君」出席簿を見ながら、担任が名前を呼ぶと、いつも大きな声で返事をしていた。少年は、亡くなった父親の生前の教え――挨拶や、返事はよく通る声でする――を愚直なまでに、実践していた。

 少年は、エネルギーや水や医療の問題を解決するという命題の探求に夢中になった。

 しかしながら、理科の授業では、地球環境の悪化に現代の科学文明の悪影響について学ぶと複雑な心境になった。海洋汚染や森林破壊、地球温暖化、野生生物の減少、酸性雨、放射能汚染などなど、現実が思わぬほど、複雑微妙にできているのを知らされた。

 理科の白髪交じりの年輩の教師は、人間の生活にエネルギーを供給する発電技術は、長足の進歩を遂げているとしながらも「火力発電は、CO2の排出で地球温暖化の原因になっているし、原子力発電は、万一の事故の際に放射能汚染が広範囲に及ぶ」と伝えた。

 理科教師は、教室の黒板の前にスクリーンを張ると、プロジェクターを操作してオセアニアのエリス諸島に位置しているツバルという国の現状を映し出した。教師は、スクリーンに目をやりながら、先史時代から自然豊かな暮らしをこの地でしてきた人々が、海面上昇により苦しめられている様子だ――と、説明した。

 スクリーンに映し出されているのは、最初は数人の子どもたちが海辺で遊ぶ姿だと思われた。だが、よく見ると建物にも浸水しており、沈み行く島の様子を映写していた。

「群島国家のツバルは、地球温暖化の犠牲になって住処をなくした人たちの難民問題にもなっている。一部の環境難民は、すでにオーストラリアやニュージーランドに受け入れられている」と、教師は険しい表情をすると、続けて「どうだ? 君たちも自分自身の体験だと考えてほしい。住み慣れた家が水没し、よその国に住む羽目になったら、どんな気持ちになるだろう?」

 省吾は、教師に当てられると「突然のごとく、日本がそんな状況になるとは思えませんが……。僕はただ途方に暮れて、何をすればいいのか戸惑うと思います」と答えた。

 教師が「なぜ、ツバルでは温暖化が原因で海面が上昇しているのか、分かる人?」と生徒に挙手を促した。

 少年は手を上げると、席から立ち上がり「北極や南極の氷が溶けだして、海に流れ込むからだと思います」と、自信を持って答えた。

 生徒たちは、少年の堂々とした回答を聞いて、じっと様子を見つめていた。

「雄大の意見は、皆が想像していたのと同じだったか?」教師は、生徒たちに問いかけると、残念そうに「雄大の意見は正しい。だがね、事実はもっと複雑にできているよ」と、ぐるりと全員を見渡した。

「実は、北極では海氷面積が減っているものの、南極では温暖化によって降雪量が増えたため、逆に氷の量も増えている。このまま、温暖化が進むと、いずれ南極の海氷も解けると考えられているがね」

 少年は、自分が堂々と自説を主張したのを恥ずかしく思った。

「それに、氷が解けても海面は上昇しないよ。コップの中でも氷が解けて、水面が上昇する変化はない。それが、アルキメデスの原理だ。つまり、北極海の氷の溶解と、海面上昇は結びつかない」と、教師は付け足した。

 スライドには、南極の巨大な氷の塊が溶解する映像が大きく映されていた。有様が、少年には地球環境の激変を示す、衝撃的な映像に見えていた。少年が首を傾げながら、机の周りの生徒を見ても、皆一様に怪訝そうな表情をしていた。

 隣席の菊池明日香は、少年と目を合わせると、次の瞬間「先生」と大きな声を出し、手を上げて教師に質問を投げかけた。

「それなら、どうしてツバルでは海面が上昇しているのですか? なぜ、難民問題があるのでしょうか?」素朴だが、生徒の誰もが疑問に思いそうな質問だった。

「地球温暖化によって、陸地にあった氷が溶け出し海に流れ込んでいる。今のスピードで温暖化が進むと、ツバルのなかでも海抜の低い地域から水没し、ツバルのすべてが海のそこに沈んでしまう。ニュージーランドでは、毎年ツバルの人を数十人ずつ移住させるプロジェクトを進めているぐらいだよ」

「というのは、海氷が解けても海面は上昇しないし、降雪量が増えて氷の全体量が増えても、陸地から海に溶けた氷が流れ出さなければ、海面上昇につながらないのですね」明日香は、不満そうに教師に問いかけた。

「だが、明日香が言うのとは逆に、陸地から海に流れ込む氷や水の量は、毎年増え続けている」

「それなら、雄大君の答えの何が間違いなのですか?」今度は、直木有麻が尋ねた。

「つまり、北極海の氷は、もともと海にあるものなので溶けても海面上昇につながらないが、南極大陸や陸地にある氷の溶解が、海面上昇を起こしているという意味だ。 雄大は、さっき北極の氷と言っていた。そこが違うね。――北極圏、南極圏などの陸地の氷が溶けて、海に流れ込む――と、雄大が説明していれば満点だった。実は、南極の氷床が融け、グリーンランドにある雪の堆積面積は数年で二割も減少した。さらに、永久凍土の融解、氷河の後退などが影響し、百年間で平均海面水位が十七センチも上昇している。恐ろしいな」

 有麻は、教師の説明を聞くと、目を白黒させていた。

 教師の説明は謎々の解答のようにも聞こえたものの、もっともな答えだと少年は思った。漠然としたイメージしかないと、事態の解決の糸口がつかめない。そう思うと、むしろ学習への興味が湧いていた。

 潤沢なエネルギーの供給の必要性と、環境破壊に関する問題――二律背反する命題を解決するのは、何だろう――と、少年は考えていた。

「現状を解決するのは、科学力だと思う」と、教師は告げた。

 少年は、学び続ける構えこそが未来を切り開くと考えて、勉強机に向かい学業に励んだ。それしか考えられなかった。

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